FC2ブログ

北肥戦誌【1569年】その3~大友VS毛利「多々良浜の戦い」

豊後三老は急ぎ秀島孫五郎を伴って肥前陣を引き払うと、秀島を本陣へ引き渡してから、
5月始め、三老はすぐさま56,000騎を率いて、敵の高橋の城下である宝満・岩屋の麓を駆け通り臼井崎に着陣、杉山に一両日野陣し、谷一つを隔てて毛利と対陣、数度の攻め合いがあったが優劣が付かなかった。


隔して5月6日、戸次鑑連が率いて筑後衆と共に長尾という敵陣へ取り掛かった。

しかし敵の陣構えは堅固で事はならなかった。

然れども、切岸にて合戦し鑑連自身が槍を取って敵に尽く打ち掛かり陣屋へ追い込み、そのまま異議なく引き取った。

このとき、筑後衆のうち田尻鑑種は軍功を果たすべく戦い、家人ら8人が傷を蒙る。

これにより宗麟より鑑種へ感状が送られる。


同月18日、豊後衆・筑後衆は共に、再び芸州陣に攻め掛かり切岸にて合戦に及ぶ。

このときも田尻勢のうち、金栗織部助・楠原勘解由左衛門・三嶺兵部左衛門・森出雲守・中島刑部左衛門・中間の弥太郎、合わせて6人傷を蒙り、東三郎太郎・原口善助が討ち死にした。


今回、筑後国立花表には、中国芸州衆の吉川元春・小早川隆景の両大将に宍戸隆家・吉見正頼を副将とし、
その他、桂新五左衛門・熊谷小次郎・浦兵部少輔・赤川能登守をはじめ、福原・川野・小笠原・高瀬・三澤・米原以下、山陽・山陰・南海など十余州の兵50,000余騎を以って渡海し、総大将・毛利輝元は長府まで出張して下知した。

まず立花山城を取り囲み、そのほか山野に陣取って豊後勢と対し数日戦ったが、未だ勝負がつかなかった。

隔して5月を過ぎ 閏5月初めの頃、宗像氏貞が芸州陣と往還していると聞こえると、
豊後衆の三老はその通用を断つべしと下知し、肥後衆そのほかを率い芸州陣の前を通って宗像表へ入り、人畜らを捕って本陣へ連れ帰る処へ、
同3日に芸州勢が立花山城を攻め落として、城番の田北民部少輔・田北刑部少輔・鶴原兵部少輔の3人を虜とし、船で姪浜へ差し送った。

芸州衆のやり方は情けがあると評判が立った。


然るに高橋三河守・秋月長門守の両勢を並べ水木に城を構えて、大友勢の豊後・肥後・筑後らの通路を塞いだ。

これによって立花に陣を布く豊後衆は、只でさえ往来が容易くない為に迷惑し、長陣に依り困窮していった。

これに閏5月下旬、豊後の三老は相談の上、宗麟からの下知を以って、南郡衆に筑後衆を加えて博多表の気古という野山に中陣を構え、通路を差し搦めて、立花に対陣したがそのまま既に10月に及んだ。

5月から10月に至って都合18度の合戦となったがも勝負は決しない。


然る処に宗麟は弟の大内輝弘に軍勢を付けて中国へ渡海させ、芸州衆の留守を討たせようとする。

その情報が中国から立花の芸州衆に急ぎ注進が届くと、立花山城へ浦兵部少輔・桂新五左衛門・赤川能登の3人を残し置き、10月15日の夜半に立花表を悉く忍び出た。

豊後衆は勝ちに乗り、許斐表まで追い縋ったが、然したる敵は討ち取れなかった。


然るに宗像氏貞は中国方として居城・鳶岳に立て籠もった。しかし、臼杵鑑速の工作で降参する。

隔して豊後衆は西郷という処に陣を移し、立花山城に残った3人を虜として筑後衆一人ずつを付けて帰した。

これは閏5月の、田北ら3人を虜とした際の返礼と言われた。

また、中国で戦った大内輝弘は討ち死した。

今回、中国より大勢が渡海した根源の一つは、龍造寺以下の味方を援ける為と聞こえたが、一番は高橋の勧めで九州を手に入れる事であった。

然るに豊後の諸軍は三笠郡へ陣を返し、宝満へ取り掛かり高橋を攻めて日を重ね、今年は宰府にて越年するが、宗麟はこの年の内に高良山を立って府内へ帰った。




スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR