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考察1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

で、論文を読んだ上での自分の推論・考察です。

渋川氏が探題職として影が薄く、最終的に没落滅亡しちゃうのは、少弐VS大内に巻き込まれたのが一番の理由だと思います。

更に、探題なのに小城郡・佐嘉郡に食い込めなかったのは、やっぱり河上社が保持する支配機構を肥前千葉氏に握られてたのが、大きく影響してたと思います。

というのも、河上社の権威の根拠は肥前国一宮というだけでなく、国衙(こくが=政庁)機能を有していたからです
従って河上社の造営・補修・神事の全ては、現代でいう所の県指定公共事情(入札なし指名業者)。
(政教分離的発言は不可、そういう時代なんです)

九州探題だった今川了俊は、河上社の持つ国衙機能を通じて肥前国人衆に領地安堵して、領国支配してました。
今川了俊ら駿河衆帰国後に、河上社・大宮司として、それらを引き継いだのが肥前千葉氏です。

河上社・大宮司として、河上社の国衙(政庁)役人だった肥前国人衆は、そのまま肥前千葉氏家臣団へと組み入れられました。
(宮島先生の論文では代表例として於母氏、安徳氏、鎰尼氏に触れてます^-^)


さて肥前には河上社の他に、「もう一つの肥前国一宮」がありました
それが神埼荘(現:みやき町)にあった千栗(ちりく)八幡宮です

とうぜん河上社と千栗八幡宮は不仲です。
「どっちが真正・肥前国一宮か」って事で元和年間と寛永年間に訴訟沙汰になってます。

で、結論が・・・シオレベルじゃサッパリ判りません~~~~~il||li _| ̄|○ il||l
今回読んだ宮島先生の論文でも千栗八幡宮には触れてない^^;

具体的な事が全く判んなかったので、記事に盛り込みようがなくって、肥前千葉氏編でも龍造寺編でも全力でスルーしました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ただ千栗八幡宮も、龍造寺や鍋島などに大事に保護されてるんです。
龍造寺と平戸・松浦氏と交わした起請文には「当国鎮守千栗八幡菩薩」と書かれてるくらい。(出典「龍造寺家文書」)
それだけに河上社と千栗八幡宮と、どっちの立ち位置が上だったのか~てのがサッパリ(@@)

で、判んないながらもボヤンと推測できる部分だけで言いますと、
河上社の支配構造ネットワークと、千栗八幡宮の支配ネットワークでの、対立があったみたいなんです
と、言いますのも千栗八幡宮は、宇佐八幡宮・別宮だからです

どちらも古くからある神社ですから、信仰の対象として人々から尊崇を集めていたのは言うまでもありません。
ですが領地とか権利関係の支配が絡んでくるとなると、信仰心とは別義でござる(`・ω・´)キリッ

河上社大宮司・肥前千葉氏を主君として仰いだ肥前国人衆は、
宇佐八幡宮からの支配を嫌い、水神信仰からくる土着の神と国衙(政庁)機能を支持した人々です。

神埼荘を本拠地とする渋川氏が勢力をつけるということは、同じく神埼荘にある宇佐八幡系・千栗八幡宮の影響力が広がるということになります。
河上社大宮司である肥前千葉氏が、探題・渋川氏と一線引くのは当然の事です。


オタ記事に付きあわせて、本当にすいません。
でも記事にしとかないと、自分でも整理つかないんです(-人-)スイマセン

ぶっちゃけ、自分でも此処まで詳しくなるつもりは無かったんです^^;
肥前戦国史(だけ)やるつもりで始めたのに、今じゃ中世史まで片足突っ込んでます^^;
でもって地形の変遷から歴史をリサーチすることにも片足(右か左かは知らんがな)突っ込んでます^^;

九州郷土史を調べる事は完全にライフワークになってます。
もはや趣味のレベルじゃないと、そろそろ(やっと?)自覚・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、河上社と肥前千葉氏に注目する人なら、絶対に浮かぶ疑問があります。
肥前千葉氏が西と東に分裂した時に、河上社大宮司職はドッチだったの?
てことなのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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