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【策~有馬VS龍造寺】龍造寺隆信「展」の巻3

1562年(1563年説有り)、ついに有馬と龍造寺が激突した。
3月中旬に布陣し、そのまま双方睨みあうまま6月も半ばになった。

松浦家世伝(本伝・道可公伝)によると1563年(永禄6)まで横辺田は有馬領だったらしいんです。
横辺田の百姓たちは有馬の本拠地・日野江(島原半島)が遠くて○役を納めるのがシンドイ(´・д・`)
(○の部分は意味不明・何かの雑役か納税らしい)
で、1563年【6月】に、百姓たちは有馬から龍造寺に寝返った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
しかも百姓らは有馬からの報復に備え、城(砦クラスか?)まで作って武装化してたそうな(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

「有馬VS龍造寺」には1562年説と1563年説があるので、有馬が布陣してたエリア横辺田の百姓衆の動きが興味深いですな( ゚Д゚)y─┛~~
前年の戦の余波で百姓衆が有馬から龍造寺に租税先を変えちゃったのか。
はたまた、1563年の百姓衆の動きが戦端を開いたのか、本伝の記述だけだとどっちともとれるな~^^;

(以下、緑太文字は北肥戦誌より抜粋)
そんな中、有馬に所縁のある馬渡俊光という者が、隆信に対して忠を為さんと、
一族の野田右近允と密談し、有馬へ「隆信を討つから兵を出してくれ」と使いを出した。


リサーチ記事でも触れたけどおさらい^^b
馬渡(もうたい)氏は1533年に後藤純明に攻撃されて、当主(馬渡甲斐守俊明入道笑岩)が討死し、一族バラバラになったんです。
嫡流サイド(戦死した笑岩の子供)は有馬側で御家再興し、須古城主・平井経治と共に六角川防衛ラインの守りにあたってます。

庶流・・戦死した笑岩の叔父の息子たちが龍造寺胤久・胤栄と村中龍造寺に仕えてました。
ここでポイントなのは、策を講じた俊光ってのが「次男」ってとこなんです。
おそらく、この一戦を出世のチャンスと思ったんじゃないでしょうか^^

有馬勢はこれを策と知らず、島原彌七郎に人数を与えて船で砥川まで差遣させた。
この兵船が柳津留に入ると、馬渡俊光は牛尾山に合図の火を上げる。


地図・今回は挫折 il||li _| ̄|○ il||l

これに東から鴨打・徳島数百人、西から野田・乙成勢が出陣、兵船を取り囲み、雨の降る如くに矢を射掛けた。
謀られたと気付いた有馬勢は船を漕ぎ戻そうとするも叶わず、船底に隠れたり、干潟に飛び込んだりと為す術無かった。
佐嘉の地下人らはこれに手を叩き、声を上げて、雄叫びながら武槍で突いて回ると有馬勢数百人が討たれた。
島原は攻撃を払いながら牛津江の大戸ヶ里まで船で逃れながら鴨打勢と戦ったが、有馬勢40余人が討たれた。
但し鴨打勢も50余人が討ち死にした。


>牛津江の大戸ヶ里

んと・・・あ、ここ、ここ⇒佐賀県小城市牛津町勝字大戸ケ里・・・|ぐぅぐる|_ ̄)じぃー
ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー! ガチでクリークだらけだ(爆
干拓もされてるみたいだな~~こりゃ、戦国期とは河川蛇行も変化してるっぽいな。
そもそも六角川と牛津川は現代のように合流してなくて、戦国期は河口が別々の河川なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

現代だと佐賀バイパスや道路で分断されて河川から300m弱離れてるんですが、戦国期は船で行けたみたいですね。
もしくは河川逆流現象で浸水してたかな?
牛津江も逆流現象を解消するための排水機場が作られてるので、往時の雰囲気(自然・景観)はないと思います。

これを隆信へ注進すると、隆信は大いに喜び馬渡へ100町を与え、馬渡信光と改名させた。
また鴨打ちへは小城の右原80町を加増し、徳島らにも其々恩賞を与えた。


100町安堵~~120町となってる記録もあります^^/

>馬渡信光と改名させた

おお!隆信の信の字、偏諱を受けたんだ^^オメデトーーー

物事は最初が肝心。
この龍造寺側の勝利で一気に局面が変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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