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北肥戦誌【1569年】その2~毛利軍4万、九州へ侵攻す!

この頃、筑前の秋月・高橋が、中国の毛利へ大友勢乱入を伝えており、毛利勢が九州へ上陸し3月下旬より大友と交戦状態に至っていたのである。

その上、近いうちに毛利勢が雲霞の如く龍造寺以下の加勢として押し寄せるとの聞こえ、大友は止む無く和を望んだのである。

4月4日、蒲池鑑盛も大友の督促に応じ、榎木津より肥前へ討ち入り蒲田江に陣を取る。

隔して4月6日、龍造寺を攻めるべしと評定を決し、戸次・吉弘を大将に、神代を案内者として、その道々を放火しつつ長瀬の蠣久へ打ち掛かる。

神代勢は既に城近くの神野・三溝・大財村まで討ち入って放火する。

これに城兵の副島式部少輔・百武志摩守・田中上総介・秀島源兵衛が出撃して大財村にて交戦、神代勢の多数を討ち取り追い払った。

しかし、豊後勢もこれに続いており、これと交戦する。

豊後勢は鉄砲を放った為、城兵は堪らず城内へ引き退く。

豊後勢はこれに付け入らんと城へ攻め掛かるが、龍造寺へ天が味方したものか吉弘鑑理が俄かに患いはじめ、進軍が思うに任せず、攻め口を引き退くと其々の口々を差し固めさせた。

このときに攻め手に手負いが多数出ている。


村中城へは龍造寺一族に鍋島父子、その他に小河・納富・福地・江副・安住・百武・西村・副島・馬渡・土肥・成松・内田・小林・鴨打・徳島・野田・高岸・石井らの一族以下、譜代の家来たちが集まり立て籠もる。

その数は僅か3000余騎であった。

また、佐留志城主の前田家定は新参ではあったが、龍造寺の滅亡近かしと聞きつつも、この期に及んで兼ねての約定を違え見離すべきに非ずと、居城を捨てて一家の男女150人を従えて村中城へ入っていた。


隆信は皆を集め、
「軍兵僅かに3000で大軍を防ぐなど、千に一つも勝利など叶うまい。
毛利よりの援兵を頼みとする他はない。
だが、もし援兵の来援が遅れるようならば十死一生に決して、城を打って出て一人も残らず討ち死にを遂げるべし。
さもなくば城に火を掛け、腹を切るべし。この二つの何れかしかあるまい」と述べる。

これに一座の面々は、
「確かに城中は無勢にて頼りなく見えまする。
されど、毛利の援兵待たずして十死一生に決し、切って出るのも如何に御座いましょうや。
されば、此度は大友に御降参あられるか、或いは先年の如く筑後の方へ御逃げあられるべきでは?」と発する。

これらに対し鍋島信生は、
「大友への降参で御座るが、先達て堤・安武より和談を持ち掛けられし折、これに応じて居らぬと申しまするに、今更こちらより阿容阿容(オメオメ)と降参致すなどとは中々申し難きものに御座います。
また、筑後へ逃れる方に御座るが、先年とは違い、彼の国人共は悉く敵方に与しておりますれば、その只中へ逃れるなど、飢えたる虎へ近付くが如し。
まず某がつくづく思案致しまするに、只今当城へ籠りしは、骨肉を分けたる親族、或いは譜代恩顧が家臣に御座いますれば、城中より叛意を抱く者があろうとは思われませぬ。
然らば、城中に野心の輩さえ生まれざれば、例え無勢なりとも俄かには落城など致しますまい。
そのうちに毛利よりの援兵が参りますれば、それを待たれるべきかと存じまする。
毛利よりの援兵なくば、そのときに評定あるべきでは御座いませぬや如何?」
と述べると、隆信始め一同は尤もとこれに同意した。


隔して、臼杵鎮富を大将に、豊後勢が田布施口へ取り掛かるとの注進があった。

ならばこれを追い払うべしと、鍋島信生、龍造寺信種、小河信友、鍋島信定、鍋島賢秀、成松信勝、安住信能、倉町信光、納富信安、秀島賢同、百武賢兼、円城寺信胤、於保賢守、他に石井・合満・野田・高岸ら300余騎が田布施口へ馳せ向かい、弓・鉄砲を撃ち掛ける。

これに豊後勢は打ち負けて、北へと退却する。

城兵はこれを追い掛け、植木村にて取って返した豊後勢と戦う。

この戦いの半ば、龍造寺勢から家士頭・百武志摩守が、陣頭に馬を乗り出し大音声で名乗りを上げ、敵方へ「尋常に槍を参ろう」と呼ばわる。

これに豊後勢から武者一騎が馳せ出て、志摩守へ突いて掛かる。

勝負は中々付かなかったが、志摩守の槍先が少し上がったと見えた瞬間、その者は馬より逆さに落ちた。

これに後ろに控えていた豊後の士卒は一斉に馳せ寄ると、落ちた者を馬へ乗せて引いて行った。

後にあれは誰であったのかを問うと、大将の臼杵鎮富であるという。

隔して豊後勢は長瀬村へ引き退く。

城兵は勝ちに乗りこれを討たんとするが、戸次鑑連の軍兵が三溝口へ攻め掛からんとしていると聞こえ、先ずは此方を追い払うべしと、鍋島信生を始め300余騎は城内へ引き退いた。

さて、豊後の三老のうち戸次鑑連・吉弘鑑理は長瀬の蠣久に陣を張り、臼杵鑑速は阿祢村に在陣し、近辺の村々を放火して、神社・仏閣を焼き払い、仏像の玉眼を抜き取り、更に寺院の経巻を奪い取るなどした。

これは豊後の士卒が耶蘇教徒ゆえである。

そんな中、4月17日に肥後国の城親冬が和平の仲介に現れ、双方の陣へ入った。

隆信がこれを受け入れると、戸次も吉弘も納得して蠣久から陣を払い、春日原河上表で将兵を休めた。

そこへ隆信は、納富信安を戸次鑑連の陣所へ派して有馬一足を送るが、信安の弟・秀島河内守の嫡子秀島孫五郎賢周(後の四郎左衛門家周)を人質として送ることに決する。

その答えの往還の為に、三老はしばらく肥前に在陣する。

ところがそこへ大鶴山城入道宗周の元から飛脚が現れ、立花表へ毛利勢が夥しく着陣したと急を告げた。

これを聞き、吉弘勢に属していた城親冬は帳幕を捨てて肥後へ帰った。

宗麟本陣にもその報が届き、肥前に在陣中の三老へ、龍造寺と和平を為して急ぎ立花表へ向かい毛利勢を追い払うべしと申し送った。




1569年4月15日・・・毛利軍4万が筑前・立花城を攻撃します

ちなみに戸次道雪が城を死守しました(=^・ω・^=)v ブイ

毛利VS大友のガチ激突が始まり、大友家は竜造寺どころじゃなくなるんです。

竜造寺VS大友「今山の戦い」の一年前の出来事でした。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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