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【鶴田氏~2・「両鶴田」誕生】

上松浦最大勢力である波多氏から派生した支族・鶴田氏。
松浦党なんで、もち一文字諱^^b

鎌倉時代、元寇での活躍により佐里・泊・牛牧などの所領を安堵される。
南北朝~室町期の動向はハッキリしておらず、松浦党一族として一緒に行動してたんじゃなかろうか~
と推測されてます。(松浦党そのものは北朝方)

1494年(明応3)、少弐政資が筑前高祖城を攻撃した時に、惣領家波多氏、相知・有浦らと共に、鶴田氏も少弐氏の求めに応じて出陣してたそうです。

記録としてハッキリしだすのが天文年間で、鶴田因幡守伝の代です。
ちなみに鶴田氏宗家が継ぐ官位は因幡守^^b
伝には5人の息子がいました。

で、日在(ひあり)城主・大川野氏に後継者が絶えて、伝の嫡男・直(ただす)が大川野氏姫と婚姻し日在城を継承した。
嫡男を婿養子?かと思いきや、そうではなくて鶴田氏は拠点そのものを日在城に移したんです。
どうやら大川野氏は鶴田氏に乗っ取・・・ゲフゴホ・・・吸収されたみたい^^;

松浦党では、少弐だったり千葉だったり龍造寺だったり、とにかく東肥前の勢力が度々侵攻してくるのを防ぐため、
協議した結果、廃城だった獅子ヶ城を防衛拠点として再構築する事になった。
これが後に「両鶴田」と呼ばれた日在城・鶴田(宗家)と獅子ヶ城・鶴田(分家)誕生の経緯です。

獅子ヶ城を再築城して入ったのは、「仁・智・武」の三徳を兼ね備え、龍造寺の侵攻を度々撃退した勇将・鶴田越前守前(すすむ)
(人´∀`).☆.。.:*・ (人´∀`).☆.。.:*・ (人´∀`).☆.。.:*・
これ依怙贔屓のオーバーな表現でなく、前(すすむ)の仁政を恋しがった領民が、彼の死後に鶴田氏を祀る鶴田神社を建立したほどです。

獅子ヶ城(唐津市厳木町浪瀬)は、標高193mの低い山に築城されてるんですが、周囲が物凄い断崖絶壁。
二の丸周囲なんかは「垂直に切り立った岩」に囲まれてました。( ̄ω ̄A;アセアセ
この天然の要害に龍造寺は剛忠(家兼)の代から、てこずってます。

人物・剛忠小 久々に出たけど負ける話に渋い顔な家兼

例の少弐の龍造寺抹殺計画で、少弐は偽りの有馬討伐(実は裏で有馬と組んでた)を剛忠(家兼)に命じます。
で獅子ヶ城が裏切ってるからと偽情報を流し、龍造寺勢に攻撃させました。
獅子ヶ城は、いったん落ちるけど、即・奪い返され~と、中々落とせないので、龍造寺勢は兵を分散し波多の岸岳城や鶴田の日在城を攻撃しようとします。
で、兵力分散したところを波多に前後を挟み撃ちされて、龍造寺は一族を多数討ち取られました。

とにかく少弐&有馬が「龍造寺の勢力を削ぐための囮城に使おう(・∀・)ピコーン★!」と思いつくほど、獅子ヶ城は要害だったんです~川* ̄д ̄*川ポッ 

ちなみに龍造寺では、獅子ヶ城の「一度は落ちるけど奪い返される」を隆信の代でもやられてます^^;
天然の要害だけに、獅子ヶ城には鶴田一族しか知らない秘密の抜け道があったんじゃないでしょうか。

秘密の道と言えば、鈴木敦子先生の論文によると、宗家鶴田の日在城と分家鶴田の獅子ヶ城には「直道」と呼ばれた連絡ルートがあったそうです。
「鶴田勝書状」には「平山(地名)まで遣い出すなら直道通すね~」てな感じで書かれてて、連絡ルートは日常的に使われてたそうです。

獅子ヶ城と日在城は直線距離で約7km離れてるんですが、この連絡ルートにより宗家と分家は「両鶴田」と称されるほどの緊密かつ一心同体として行動を共にしてました。

その「両鶴田」が盟主&総領家である波多氏と離れ、独自の外交路線を歩むキッカケが、
波多未亡人・真芳による鶴田宗家当主・直(ただす)謀殺だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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