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【鶴田氏~7・龍造寺四家、武雄後藤家信系誕生】

1576年(天正4)1月、この段階では獅子ヶ城は、龍造寺長信(隆信実弟)の多久勢と小待で合戦してました。
ちなみに最近読んだ論文で知ったんですが、龍造寺長信の「長」は大内義長からの偏諱でした。シランカッタ
大内義長は大友義鎮の異母弟で大内義隆亡き後に、陶晴賢が擁立した傀儡当主です。
(相変わらず、龍造寺隆信は自分では大内義隆以外からの偏諱を受けないのね^^)

ところが同年3月15日付の後藤貴明が出した起請文によると、
「日在(ひあり)城本家・鶴田氏の相談なしに、獅子ヶ城鶴田氏が龍造寺サイドに寝返ってる事が記されてます。

後藤貴明は鶴田因幡守(本家当主)に対し(寝返った)獅子ヶ城とは別儀・・関係を絶ったと表明してます。

3月の段階では鶴田越前守前は存命してました。
今までの彼の行動では、何事も日在城鶴田本家と連携してたので、相談なしにってのは不自然です。
もしかしたら連絡したくても出来ない・・・直道(連絡用ルート)を龍造寺勢に押さえらたのかも。
直道ったって、秘密の地下道や鍾乳洞って訳でなく、ちょっと?クネクネした山坂峠ある間道だってだけで隠してる訳じゃないからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

獅子ヶ城の龍造寺寝返り(降伏?)が本気だったのか、いつものように帰順したと見せかけてリベンジするつもりだったのか。
同年6月22日に鶴田越前守前が戦死してしまうので、今となっては不明です。

同年12月12日付、龍造寺下総守康房(鍋島直茂実弟)が、日在城鶴田本家当主の弟に起請文を出してます。
要約すると
1)佐賀・武雄の間で和議が行われたら、後藤貴明&晴明(=貴明嫡男)に対し隆信親子は粗略にしないように、下総守兄弟(=鍋島直茂兄弟)が尽力する
2)後藤貴明から人質を出してくれたら、佐嘉から難題を出さないように下総守兄弟(以下同文な件~)

龍造寺では、日在城鶴田氏本家を後藤との交渉パイプとして認識してて、和睦の為に水面下で交渉してたようです。
この段階で和睦交渉がスンナリ進んでいたら、後藤家の歴史が違ってたかもだな~
1577年(天正5)2月に提示された和睦条件は、もう龍造寺による後藤氏家督乗っ取りに近い状態でした。

一方、龍造寺に与した獅子ヶ城鶴田氏ですが、前(すすむ)以降は足並みが乱れまくってます。
前亡き後に分家当主となった鶴田賢に対し弟が「兄とは同心しない(`・ω・´)キリッ」と分裂しちゃんです(天正5・3・14)。
獅子ヶ城の龍造寺帰服時期の出典は「歴代鎮西志」なんですが、鈴木先生は「帰服は前の死後じゃないだろうか」って書かれてます。
兄弟決裂は、一族をガッチリまとめてた前(すすむ)死後の政治的混乱から来た、と解釈するのが自然だからです。

1577年(天正5)4月24日、隆信三男・善次郎家信が後藤貴明の養子に、後藤貴明嫡男・晴明が龍造寺隆信の養子に、
双方の養子縁組が正式に整った。


同年7月2日、後藤氏の家督を継いだ善次郎家信(隆信三男)に対し、日在城(本家)鶴田因幡守勝と嫡男・明が忠誠を誓う
これによって日在城・鶴田本家も、龍造寺の傘下に入った。

この時期の後藤家には、各方面からの起請文が次々と舞い込んでます^^;
武雄後藤氏新当主・家信に対し忠誠を誓う起請文でして、従来の利権を認めてもらう為ですから周辺地侍は必死です。
家信は彼等への返信・起請文___φ(.. )花押カキカキ に追われた事でしょう。

さて、武雄後藤氏が龍造寺一門に組み入れられた事で、鶴田氏の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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