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龍造寺家兼_2【少弐】得なのはどっちだ?!【肥前千葉】


残虐といわれる竜造寺隆信だが、生来の気性は別にして彼に影響を与えた人物の一人は、竜造寺家兼だろう。

その家兼の兄弟のうち、当主と早世を除く二人は、早々に僧侶となっている。

むろん家督争い回避のためだろうが、そんな中で家兼が出家させられなかったのは、武将としての資質ゆえであろう。

おそらく家兼は「支族」として「本家」を支える役割を期待されていたに違いない。
(万が一の跡継ぎスペアとしてなら五男ではちと無理)

そんな竜造寺家兼を理解するには、当時の肥前で全盛期だった肥前千葉と、北九州全てに影響を与えた少弐の動向チェックが欠かせない。

前回出てきた少弐一門の馬場は肥前が本拠地の武将だ。

そして大内との争いで徐々に衰退した少弐は、本貫地である筑前から肥前へとフィールドワークが狭められていく。

大内との対抗上、少弐には肥前土着の勢力との連携が必要で、少弐は先に肥前千葉の家督に介入した。

当時の竜造寺は肥前千葉の被官だったので、少弐とダイレクトの関わりは少ない。
(※元寇や南北朝では、竜造寺は少弐の指揮下に入ってます)

肥前千葉が東西に別れ衰退すると、少弐は直に竜造寺とパイプを繋げるのを望んだ。

少弐と肥前千葉のどっちが上だろう・・・となると、国司にあたる少弐の方が上だ。

「鮭は、ほっちゃれ(腐りかけ一歩手前)が美味」と道産子は言うが、
衰退したとはいえ、少弐の被官になるということは、ある意味クラスチェンジageとも言える。

だが名誉で家は保てないので、竜造寺内部で対外政策方針で軋轢が起きて、
どうやらマイナー家督争いがあったようだが、そのあたりの表現が曖昧。

とにかく本来の嫡男で当主(家兼兄)が、当主の座から滑り落ち弟(やっぱり家兼兄)が当主になるという逆転現象が起きている。

ただし北肥戦誌では、長男は家督を継いでいないことになってる。

だが諱の偏諱の経緯から見て「長男は家督を継いでいた」と見るのが妥当なようだ。

さて前置きが長くなったが、竜造寺に影響を与えた少弐当主は誰からだろう。

それは15代目少弐政資です

え?その後じゃ・・・と思った方、まぁ話を聞いてくださいませ。

肥前千葉が絡むと15代目少弐当主の話になるんです。

                     
竜造寺家紋イメージ画像

少弐の当主が討死するのは毎度のことで(苦笑)、
リベンジしては大内に敗れてスロー地盤沈下も九州戦国アルアル,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そんな少弐の御家再興を成功させたのが15代目政資だ。

父の14代目教頼が大内に敗れて戦死(1468年・応仁2年)したため、
息子の政資は、11代目宗貞国(47歳)に保護されて対馬に亡命していた。

宗氏は元々は少弐の守護代だったが、既に朝鮮との貿易は宗氏の独占状態にあった。

交易ルートが確立しているのだから「官僚:大宰少弐としての少弐」は不要なようにも思うが、
朝鮮は中国に負けず劣らずの先例主義なので「少弐家という家が存在する事」が貿易上の信用度だったかもしれない。

とにかく宗氏は親鳥が雛を育むかのごとく大内から少弐を守り、さらには御家再興運動の世話までした。

1469年・・・年号でいうと応仁から文明に改元した年。

肥前千葉でいうと嫡流断絶のため、庶流で大内サイドの胤朝が当主となった年の事だ。
(肥前千葉編7「家督にときめけ!庶流よきらめけ!」トラックバック記事参照)

11代目宗貞国が室町将軍・足利義政から御行書(公式文書)を貰い、少弐の御家再興に成功する

大宰府を安堵された少弐政資は「五州太守様(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)」と仰がれた

少弐の執権は宗一族から選出~功績を考えれば当然だろう


少弐にとって幸いしたのは、大内当主・政弘の叔父(教幸/ノリユキ)が謀反を起こしたことだ(1470年2月)

謀反自体は留守居の陶弘護が鎮圧し叔父も亡命先で自害(1471年12月)したが、やはり国内安定が優先になるので肥前は後回しになる。

大内にしてみれば長年、支援していた胤朝が肥前千葉の当主になった、という安心感もあったに違いない。

大内政弘(ゆくゆくは肥前千葉も我が山口へ出仕させよう (人´∀`)ウフフ.☆.。.:*・)

ところが大内の想定外の出来事が肥前で起きる。

肝心の千葉胤朝が家臣同士の争いを治める事が出来ず、それが家督争いにまで発展なぅ。

よりにもよって「ライバル少弐が肥前千葉の家督争いに介入する」という前例を作ってしまった。
大内政弘(ナニヤッテンダil||li _| ̄|○ il||lナンノタメニ胤朝ヲ支援シテタト・・・)
(肥前千葉編8「揉める門に不幸がある」トラックバック記事参照)

身内の揉め事を取りあえず治めた肥前千葉は、リベンジしようとした肥前今川嫡男、義秋を討った。

さらに残った今川庶流を「持永」と改姓させて、肥前千葉の家臣化に成功。

肥前今川の御家再興の芽を摘み、肥前今川家嫡流を完全に断絶させた。

家臣同士の争いでは下手を打った千葉胤朝だが、肥前今川に対する後始末の上手さを見ると、そこそこ有能だったかもしれない。

嫡流が断絶し一時はヤバい?と思われた肥前千葉だが、ますます充実~(=^・ω・^=)v ブイ

勢威が回復した肥前千葉家は、大内が指先一つで動かせる配下の国人とは違う、肥前に影響力のある地方勢力に戻った。(-ω-:)ウーン

そんな肥前千葉氏を見て、竜造寺家では当主で家兼の兄が偏諱を受けるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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