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【布陣その2~龍造寺VS有馬5】龍造寺隆信「展」の巻5

中でも田代は上松浦の居館を立退いて、佐嘉領である小城の内納所村に移住している。

田代って上松浦党だったん?
山代の誤記かと思ったが、そうでもないらしい・・・|ぐーぐる|_ ̄)じぃー
みっけ!松浦市御厨町田代・・・ここだ!

で、ここを引き払って納所村に腰を据えたんだ・・・凄いなぁ。
本貫地を離れるなんて当時じゃ大変な事だったろうに・・・
有馬と龍造寺の激突の余波が、それだけ大きかったって事ですね。。。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
北肥戦誌では小城の内ってなってますが、現代の納所村は町村合併で多久市東多久町に入ってます。

その引き払いの際に波多勢と戦い、嫡子・左京亮、田代主殿助、田代彌三郎、田代源五左衛門、田代新左衛門、田代藤次兵衛らが討ち死に、次男・越後守が負傷している。

(´Д`;)うわぁ・・・かなり一族が討たれてるな・・・
「移住している」って記述してるから、生きて無事に龍造寺エリアに入った者がいたんだろうけど。。。

更に、前田家定の手引きで、杵島郡・横辺田の郷士である土井・井元・田中らも龍造寺家に従った。

へ~~~松浦家世伝(うち本伝・道可公伝)にある「百姓おとなの龍造寺への寝返り」って、このことかな?
(ただし道可公伝では永禄6年(1563年)の事になってます)
って、佐留志の前田が手引きしたんかぃ!

一方、馬渡に謀られた有馬勢は大いに立腹し、
7月2日に島原弥助を大将に、安富貞直と安徳直治の家臣、高来・杵島の軍勢が、須古の平井経治の勢と共に砥川村へ攻め込むべく大橋を越えんとしていた。


人物・今度こそ平井経治 須古城主・平井も出陣です^^/

これに佐留志の前田志摩守、別府の相浦河内守、砥川の泉市之介・森田越前守・江口慶林らは急ぎ居宅より出陣し、大橋口で敵勢を防ぐ。

前田勢は進み過ぎて主従18人が討ち死にするが、有馬勢は大橋口を破れず、北側へ進み両子山の北に在る由利岳に陣を構えた。

う~ん、両子山は見つけたけど、由利岳や大橋が判らないな~
とにかく両子山は、多久と小城の間にある(小城の方に近い)山です。
大橋ってあるところを見ると、牛津川に関連してそう^^

ここへ、多久に陣を布いていた大村勢も集まり、近いうちに小城に攻め入らんとしていた。
これらに千葉胤連の家臣らが打ち掛かるが、寡兵の為に打ち負け引き退いた。


ありゃ、千葉胤連勢が負けちゃった ( ̄ω ̄A;アセアセ

隆信はそれを聞き、弟・信周、従弟・鑑兼、鍋島信房、納富信景、その弟の納富治部大輔信純(彦鶴の夫)に人数を与えて丹坂口へ先行させると、自らもそれに続いた。

丹坂口なら判る~小城市小城町栗原だ^^
にしても有馬勢が陣を構えた由利峠がワカランな~そんなに離れてないと思うけど・・・

隆信には鍋島信昌、小河信友、百武兼通が随身する

ついに龍造寺隆信が本陣を動かした・・・!
鍋島信昌・・・後の佐賀藩祖・鍋島直茂は、この時25歳の若さだ。
でもって龍造寺四天王・百武がキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

最初の布陣から2度目の再布陣。
龍造寺隆信は有馬勢との決戦を決断していたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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