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【少弐再興運動・政興編】龍造寺隆信「展」の巻11

永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。
同月2日、九重の塔が炎上する。


天変地異があるときに人心が乱れるのか。
人心が乱れてるから、天変地異があるのか。
答えは「天」のみぞしる。

九重の塔・惜しい!現存してたら国宝^^

6月22日、隆信は少弐政興を退治する為に弟・信周・納富但馬守・福地長門守らを従い東肥前に出馬、まずは馬場鑑周の在所である三根郡の中野城を攻撃する。

三根郡の中野城って探せなかった(´・д・`)
馬場鑑周は、例の龍造寺抹殺を画策した熱血「少弐命」家臣・馬場頼周の孫です。

有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、元々のキッカケが大友義鎮バックアップの少弐再興にあるからです。
で、有馬と龍造寺が布陣の為に動いたのが1562年(北肥戦誌)6月で、
少弐政興討伐に絡んで龍造寺が動いたのも1563年6月と、年は違えど月が一緒でブッチャケ紛らわしい(-ω-;)ウーン
どっちかって特定するのは、難しいのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

だが、馬場家臣の手田・川波・薬王寺らが城戸を防ぎ、激しい抵抗を見せた為に、寄せ手は沢山の戦死者が出た。

合戦も半ばとなった頃、福地長門守が城中に入り鑑周と対面、和平の談合に及ぶと、鑑周は弟の馬場周鎮を人質に出して軍門に降った。
これにより、同じ郡内の少弐方である宗 尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造寺家に降る。


続いて隆信は、横岳鎮貞の西島の城を攻めた。
だが、容易く落ちそうになかった為、降人となった馬場鑑周と横岳頼続を鎮貞の城の抑えとし、
6月下旬に佐嘉へ帰陣した。


少弐政興の、この後の細かい動向は判りませんが、結果だけだと一命を許され出家したそうです。
降伏したのは1565年説もあり、その8年後も龍造寺勢が少弐政興を攻撃って記録があるそうで、ハッキリしてません。

ただ、この1563年時点で少弐氏の御家再興は物理的に無理・・・という状態になります。
一門として少弐を支え続けた馬場氏が降伏、西島城の横岳鎮貞だけが頑張ってる状態では、さすがの少弐も復活の目は無い。

ちなみに西島城の横岳鎮貞は、諱に大友義鎮の「鎮」がある事から判るように、大友配下となって龍造寺への抵抗を続けます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

少弐氏再興の動きに一区切りついたところで、龍造寺隆信は更なる布石を打ちました。

1563年、龍造寺氏の安泰の為として、龍造寺の菩提寺「龍泰寺」を建立
場所は、佐賀市赤松町2-4 ・・・そう、かつて少弐氏の居城だった与賀城跡です。
少弐氏は(また)大内氏に敗れ(また)衰退し、佐嘉郡は与賀城から、神埼郡へと拠点を移しました。
(で、龍造寺に敗れて、今日に至る)
衰退するまで居館だった与賀城がどうなってしまったのか、北肥戦誌には記載されてなくてシオレベルでは不明です。

地図で検索すると佐賀城からの近さに驚かれると思います。
かつて主君だった城跡に、あえて菩提寺を建立したのは、隆信にとって重要な事だったからでしょう。

これは政治的な意味と呪術的な意味と、両方あると思います。
戦国時代は勝ったり負けたり、降伏したり寝返ったりの繰り返しでして、相手を本当の意味で滅亡させるまでトコトンやるって、実際は少ないんです。

でも稀に「どうしてもヤラなきゃならい場合や相手がいる」のも事実です。
単に相手の一族を根絶やしにする・・・これは下の下策でして、数パターンの複合的手法を用います。

1・接収した城は廃城するか、完全リフォームで痕跡を残さない
2・敵が尊崇してた神社を取り込み、自らの鎮守にする。
3・敵の祭祀を破壊する(例:徳川家が豊国廟を破壊したパターン)
4・生き残った庶流を家臣団に取り組む(肥前千葉氏が今川(持永氏)家を家臣化したパターン)
5・直系に近い男子は出家(隆信は少弐冬尚の兄弟を殺さず、出家させてますよね^-^)

3の相手の祭祀を破壊するでは、敵の墓所に築城しちゃったヘビーな例が関東にあるそうです^^;
で、龍造寺隆信が使ってるのは、1、2、5です。

五州太守と称えられた少弐氏栄華の名残である与賀城の上に、自分の菩提寺を建てる事は「少弐氏の時代が終わった」アピールになる。
で、与賀城の北の鎮護だった与賀神社は、そのまま龍泰寺・・・すなわち龍造寺の北の鎮護にスライド。
相手の鎮守をマイ鎮守化するのは、少弐氏という存在を呪術的に封印する事にもなります。

与賀神社とは、それほど重要でした。
与賀神社は元々、肥前国一宮・川上社の下社でして、与賀郷(佐嘉郡)の崇廟として崇められてました。
更に与賀郷だけでなく、佐嘉郡全体の領民・周辺豪族・武家の尊崇を集めてまして、従って「与賀神社を支配下に治めてる者=佐嘉郡の支配者」なんです。


龍造寺隆信は与賀城跡に龍泰寺を建立することで、佐嘉郡の新たな支配者が誰であるかを示したのだ。
ちなみに佐賀藩主・鍋島氏も、与賀神社を佐賀城の鎮守、産土(うぶすな)神社として尊崇し、様々寄進してます。
つまり、鎮守宮・与賀神社を大事にすることが「支配の系譜を引き継いだ者の証」だったんです。
ね!神社・寺院・武家の支配構造&関係って、超面白いでしょ(^ -)---☆Wink

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

堀本一繁の論文では、大友氏が島津に敗れ(耳川の合戦)衰退してからが、龍造寺の戦国大名化認定としてます。

確かに、そうなんですよ・・・だって大友は、九州探題という上位権力なんですから( ̄ω ̄A;アセアセ
ただ、それだとハードル高過ぎね?って言うのが自分の正直な実感なんです^^;

じゃ、今山合戦が境目?ってなると、
龍造寺が勝ったのは局地戦のみで「大友の龍造寺包囲網」を破ったわけじゃないんで、それも何か違う(-ω-;)ウーン
てことで、結論を出すには色々悩ましく、やっぱ一次史料による検証待ちだな~と思う。

ただ「龍造寺が主家(少弐)に対して下克上した」時期は、この1563年で確定でイイんじゃない?
というのがシオ持論です。
龍造寺は佐嘉郡における、少弐氏の痕跡を消したんです。
少弐の北の鎮護だった与賀神社は、龍造寺の鎮護を担います。
これ以上はない完璧な下克上・・・あぁ隆信の手腕に惚れ惚れ (人´∀`).☆.。.:*・

逆を言うと、ここまでやったからには引き返せない。
龍造寺隆信は、キングオブ九州・大友氏肝入りの「少弐氏再興」をガチで阻んだのだ。
龍造寺の本格的台頭は、肥前戦国史を大きく変えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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