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龍造寺家文書101_千葉興常安堵状

肥前国小城郡内光武分拾八町、
 ※肥前国小城郡の内、光武分18町

并佐嘉郡内下嘉世[瀬]百町、同有重拾弐町、法成寺拾六町、
 ※并(あわ)せて佐嘉郡内、下嘉瀬100町、同有重12町、法成寺16町

永田左馬允下地領知之事、
 ※永田左馬允(ながた さまじょう)地領知の事、下す

右守先例之旨、知行不可有相違之状如件、
 ※右、先例之(これ)を守る旨、領知相違あるべからずの状、件の如し
  
  永亀弐年正月十六日
          (千葉)平興常(花押)


龍造寺民部太[大]輔殿

( )内は編纂者による補足
[ ]内はシオ補足
※シオ読み下し部分~ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

語句解説
町(ちょう)
-----単位です。
   目安として★10町=1反(約991.74㎡・・・概算で300坪)

光武分
-----小城市内で特定不可。ただし「光武姓」があるので、そういう地名が過去にあったと思われる。

下嘉瀬
-----佐賀市嘉瀬町・・・のどこか(爆

有重
-----佐賀市嘉瀬町中原有重・・・本庄江川流域になります。

法成寺
-----ここも特定不可。

永田左馬允(ながた さまじょう)
----人物特定不可。龍造寺家臣と思われる。

永亀弐年=大永7年
-----これ、私年号です・・・il||li _| ̄|○ il||l
   wikiより~主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く(略
   千葉興常がコッチを使った理由は不明ですが、西千葉と対抗してたことと関係してるかもです


千葉興常
-----東千葉氏初代。大内義興から偏諱と加冠を受ける。

龍造寺民部大輔
----大永7年(1527年)なら、龍造寺胤久になります。

考 察

まず安堵された土地のトータル~100+12+16+18=146町⇒14.6反
14.6反×ザックリ300坪=4380坪

これじゃ広さの感覚が、さっぱりワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まず新築住宅の平均坪数が~40坪なのね。
てことは龍造寺さんが安堵された土地は、新築住宅が約110件分のスペース・・・ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!ー

皆さん、御自分の地元の住宅密集街イメージしてみそ・・・
新築が110件分の広さったら、××市○○町★丁目のイメージだと「★丁目」部分くらいの広さなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー。


まず、龍造寺は河川流域に河口へ向かって勢力を広げてたってのがシオ持論なの。
で、注目なのは有重・・・ここ、少弐政資がテコ入れして開港した河川港・今津の、すぐ傍なんです( ゚д゚)ンマッ!!

主家・少弐氏が衰退したのよ良い事に「河川港・今津」をゲッツしたのは、龍造寺剛忠(家兼)では?
って言うのもシオ推測なんだが、この段階で既に今津の近くまで勢力を広げてたようです。

ちなみに鍋島氏所縁の徳善院も近い・・・
だから鍋島氏は龍造寺が勢力を広げていく様子をジッと観察してたことになりますね(*´pq`)クスッ

1524年に西千葉の胤勝が大内に内通してたと馬場頼周にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と晴気城を追い出されます。
大永7年・・・1527年の時点で、未だ西千葉当主は肥前へ戻ってません。

亡命中、龍造寺が何処に所属してたのが明確じゃなかったんですが、
自分の年度推測が間違って無ければ、主家である少弐の敵・大内サイドの東千葉氏の被官だった事になります。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: メートル法

実は始め、メートル法でってやろうとしたら挫折しまして(爆

坪から畳に換算しようかと思ったけど、ますます判んなくなって新築の平均坪数に落ち着きました(大爆

No title

4380坪=約14.48平方km・・・一辺が約 3.8kmの正四角形の面積――と言う感じですね。

私にはどちらかというと、メートル法にした方が判りやすいです。Σ(>Д<)アウチッ
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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