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【後篇・須古城攻略1回目’(ダッシュ)?】龍造寺隆信「展」の巻14

くどいようですが、有馬VS龍造寺には、1562年説と1563年説があります。

どちらの年にも激突があった・・かも、しれません。
逆に一つの出来事が二つに分散されて記録されたかもです。

少なくとも須古城攻略に関しては、一つの出来事が複数に分散されて記録されているような節があります。
北肥戦誌における須古城攻略1回目は、有馬との戦いに連動して1562年です。

ほら、、、以前に記事にしたアレ・・・
( ̄ko ̄)<鍋島の殿がケッつまずいてピンチになったところを、仲間に助けられたエピソードがある戦いです。

ところが須古城があった白石町では1563年になってます。
須古城攻略についての要旨は殆ど同じなのに、年度が違うんです(_´Д`)アイーン
そのためか1563年の北肥戦誌には攻略1回目’(ダッシュ)と、思われる記述が残りました。

北肥戦誌曰く
永禄6年8月13日、肥前国塚崎の城主《後藤貴明》が、須古の《平井経治》を討つべく軍兵を率いて取り掛かる。
貴明の先手である中野一門は樺島・蘆原へと討ち入る。


どうも、これが白石町史に残る「龍造寺の須古城攻略1回目」に相当するらしいんです。
もちろん、これはあくまでもシオ考察(^ -)---☆Wink

というのは、1562年北肥戦誌によると「有馬VS龍造寺」で有馬を破った龍造寺勢は、
塚崎の後藤貴明エリアの近くまで進軍しプレッシャーかけたんです。
これに屈した後藤は龍造寺を和議を結び、龍造寺の須古城攻略1回目に先陣として従軍しました。

後藤貴明が須古城攻めしたと北肥戦誌が記録してるのが1563年8月。
一月のズレはあるものの「一つの出来事が分散されて記録された」と自分が感じた由縁です。

有馬方、須古城主・平井経治は、城将として超一流の勇将でした。
何しろ肥前の覇者・龍造寺隆信が、須古攻略に足掛け12年の歳月を費やしたほどです。


人物・今度こそ平井経治 平井経治イメージ画像^^/

北肥戦誌より
これに、平井一味の輩である白石左近大夫・馬渡兵庫助・林田左馬助以下は討ち出て散々に戦う。
これに後藤の将らは利を失い、中野重明・その子である大和守・嫡孫の三郎・同じく新七郎・中野忠明・舎弟の蓮成・同じく弟の東何某ら以上七名が樺島にて一所に討たれ、敗れて引き退く。
そのときに武雄兵部大輔も討ち死にした。


須古城攻略が失敗し龍造寺勢が敗退する・・・と言う事は、当然、先陣だった後藤貴明勢も負け戦な訳で^^;

続いての記述が
平井方の野田掃部允は、武雄右馬大夫が放った矢に当たり死に、そのほか白石弥三郎・馬渡左馬允も討たれた。
また、有馬の侍である南肥後守・筑後介兄弟は、双方和融の談合のために須古に来てこの陣中にあったのであるが、
已む無く平井方として戦い、兄は傷を被り、弟は討ち死にした。


話が、ややこしくなるのは、1564年に須古城攻略2回目があることです。
どの話が1回目攻略で、どの武将が戦死したのが2回目攻略なのか、判別するのは多分・・・無理^^;

それが出来てたら須古城攻略1回目の「1562年説or1563年説」にだって決着ついてます。
ただハッキリしているのは、塚崎の後藤貴明が龍造寺勢先陣として戦ったのは「須古城攻略1回目だ」って事です。

南肥後守と筑後介・・・何やら出来過ぎ~~兄弟の呼称,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これが史実か否かはさておき、有馬氏が後藤と平井の戦いを望まないのは確かです。
後藤(エリア~現:武雄市)が龍造寺サイドになったら、地理的に白石町の須古城が挟み撃ちされるからです。

須古城が攻略されたら、有馬は杵島郡における有馬エリアを完全に失ってしまいます。
ここは譲れない重要な防衛ラインなんです。

一方の後藤貴明・・・有馬の実子・大村純忠が送り込まれ、貴明実家である大村氏の家督を乗っ取られた恨み骨髄の過去有り。
(ちなみに恨み辛みは現在進行形で増幅中)

その過去は過去として、一回目攻略で平井経治の実力と須古城の要害に、後藤はドン引きした。Σ(´Д`;)ひぃ!
このまま龍造寺の先陣として酷使されたら、後藤勢の消耗はトンデモナイ事になる。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
(須古城だけじゃなく、有馬との戦いにも狩り出されるのは目に見えてます)

後藤「べ・・・別に有馬と組むわけじゃないんだからね!!」
と、一回目攻略の後にアッサリと龍造寺との和睦をスルーして、平井と和睦しちゃったんです^^;

後年に龍造寺隆信が後藤氏の家督を乗っ取った遠因は、このあたりにあると思います。
西と東の最前線である後藤エリアは重要な拠点だけに、寝返り過去のある後藤貴明&後藤氏を無傷で据え置く事が不安だったんじゃないでしょうか。
かといって後藤クラスの国衆を本貫地から移動させるとなると、代替地選びやら何やらで龍造寺家中も後藤家中も揉めます。
家督乗っ取りが一番手っ取り早い(=^・ω・^=)v ブイ。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

話戻って、てことで「龍造寺の1564年2回目須古城攻略」に後藤勢は従軍してません。
従って「北肥戦誌における、1563年に後藤貴明が須古城を攻めた」という記述は、
「須古城攻略1回目の中の出来事」と類推されます。

記事にしてる自分も、1562年と1563年の各種記録を見比べ見比べしてるんで、頭の中がグルグルです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

引き続き北肥戦誌より
同年(1563年)12月28日、高来の《有馬義純》は伊佐早(=諫早)の《西郷純堯》を征伐するため伊佐早表に参じ梅津にて戦う。
この戦いで、有馬勢の安徳直治の手の者、安徳九郎右衛門・安徳新五郎・安徳興三右衛門・安徳三郎兵衛・安徳太郎次郎・石橋助次郎・中間の弥六が討ち死にした。


この北肥戦誌で1563年カウントダウン時期に有馬が諫早を・・・
って言うのが、諫早の記録(江戸期二次史料)だと1563年6月なの!!

ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.なんで記録が半年もズレてんだよ!!
諫早側の記録が史実なら、有馬VS龍造寺は1562年説が有利になります。

ていうのは有馬が龍造寺と戦う為に出陣し布陣したのは6月だからです。
最盛期の有馬なら1万くらいは楽勝で動員できますが、それを分散したら有馬本人が丸裸になるから、現実的に同時軍行動はないでしょう。
諫早攻略が1563年6月なら1562年が・・・と簡単にいかない。
と言うのも、有馬が龍造寺と戦うキッカケである「大友氏肝いり~少弐氏御家再興運動」が1563年だから。

えっとなると、有馬と戦ったのは白石町史の1563年説で、有馬が諫早攻撃した下りだとの北肥戦誌の1563年12月説?ヽ(。_゜)ノ へっ?
更に悩ましいのは鶴田家文書で龍造寺隆信が軍勢の催促してるのが、1566年閏8月・・il||li _| ̄|○ il||l
このパズルを紐解くのは、ほぼ絶望的です( ̄ω ̄A;アセアセ

何故なら一番ヒントになりそうな諫早の西郷氏・・・
それが後年、豊臣秀吉に改易され、退去時に自家の文書類(一次史料)を全て破却したからです・゜・(PД`q。)・゜・ナンテコッタ

WEBから拾えるデータは全てチェックしました。手持ちの一次史料も真っ先に見た。
西肥前武将のリサーチは3ヶ月費やして、松浦(党)とか、松浦(地方)とか、松浦(平戸と本家)とか、現時点で可能な範囲は片っ端から調べた~~~~~~~~~~~~でも何処の地方も武家も何がしかデータが欠落してるんです!!
・゜・(PД`q。)・゜・(←号泣)
ちなみに諫早の西郷ドンは、1563年の6月か12月かは判らんけど、とにかく有馬勢を撃退しましたとさ(=^・ω・^=)v ブイ

1562年と1563年の悩ましい記録ループを後目に、
歴史の中の龍造寺隆信は新たなステージへと運命を切り開くのだが、それは・またの話 by^-^sio

脳みそが限界(爆)なんで肥前はココで小休止~歴史記事は相良史・相良義陽編に集中します~
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Re: つねまる様

> 立花宗茂君から入門した九州の歴史。

あは^^
確かに鎮西無双から入ると、鍋島や龍造寺は「あっち行け」になりますね~
だって宗茂公は西のミスターパーフェクトですもん(^ -)---☆Wink

愛・・・・川* ̄д ̄*川ポッ 
九州全般が好きなんですけど、やはり専門の肥前と相良史に比重がかかります^^

いいな~~佐賀城!鯱の門!

No title

こんばんは。つねまるです。

立花宗茂君から入門した九州の歴史。
龍造寺とその後ろだか前だかややこしい鍋島、あっち行け!っと思いつつ佐賀城に行きましたの。

面白いですね、解説書付きで説明していただくと。
地図と年表を見比べてます。

…本当に、お好きなのですね。愛があふれてます。素敵です。

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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