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【名将の弟】柳川藩初代藩主編7栞78


立花直次(たちばな なおつぐ)~名将・立花宗茂の実弟にして三池藩、藩祖。
(藩祖・はんそ⇒一般的には初代藩主のダディ)

上記の名前は2代将軍秀忠の勧めで改名したもので、元々の名前は高橋統増(たかはし むねます)

彼の逸話は兄に比べて極端に少なく、もっとも知られているのが岩屋城前篇で紹介した、妻との結婚エピソードだ。

この夫妻はラブラブ・ハッピーエンドが通説なのだが、異説として離婚説がある。

                     


兄・宗茂と弟・統増は5歳違い。 

宗茂は生まれながらの大名ではなく、大友の家臣・高橋家に生まれたので、弟とは同じ屋敷で育った。

宗茂は、この弟が可愛くて堪らなかったらしい。

自分のすることを何でも真似しようとし、どこへでも付いて行こうとする小さな可愛い弟・・・

兄・宗茂が立花家へ養子となった晴れの日、まだ子供の統増は涙を堪えて見送ったに違いない。

1586年(天正14)7月27日~父・紹運が岩屋城で戦死した時、統増は15歳だった

彼は、この年の2月に結婚したばかりの妻(加弥姫)と共に、宝満山城を守っていた。

統増は北上してきた敵・島津軍による降伏勧告とともに、岩屋城の玉砕を知らされる。




岩屋城で紹運が籠城すると聞いた時から覚悟はしていたが、実際に島津の大軍が押し寄せ、しかも敵から岩屋落城を聞いた宝満山城内は動揺した。

特に妻の実家・筑紫家の家臣がパニックを起こす。

妻の父~つまりは舅の筑紫広門(つくし ひろかど)は、岩屋城で奮戦してたのだが力及ばず降伏~島津軍の人質となっていたのです。

帰るべき城と領地を失い、さらに主は人質~筑紫家臣に落ち着けと言っても無理だろう。

高橋家臣たちは「筑紫の者が裏切り、島津軍を手引きするではないか?」

と疑ったそうだから、その混乱ぶりが想像できる。 

内部で揉めはじめたら籠城戦なんて無理!15歳の統増には荷が重すぎた(_´Д`)アイーン


一方の島津軍も「城攻めは岩屋城でチト懲りたぉ~降伏してくれるとマジ助かる」状態だった。

そこで「城内に乱暴しないよ~全員助命するよ~」と悪くない条件を提示。

宝満山城側は「城主夫妻(統増と妻・加弥姫)を立花城へ退去させる」を、付帯条件に降伏することにした。

ところが条件を了解したはずの島津軍が、城から出た統増夫妻を捕らえてしまう!Σ(´Д`;) うあ゙

1586年8月6日~高橋統増夫妻が、島津軍の人質となる!

残った宝満山城の家臣たちは茫然~どうしようもなく降伏するほかなかった。

島津の行動には「島津上層部と家臣間の連絡ミス」と「戦だ!空請文は当然でごわす!と開き直った」の2説あります。

卑怯にも騙し討ちした島津軍だが、彼らは彼らで本当にに急いでいて焦っていたんです。

さらに北上した島津軍は、統増の兄・宗茂が守る立花城に迫りました。

何度も言ってるが宗茂はムコ殿!「実弟を助けたい」という個人的感情を出すことはできない。

それに立花城は主君・大友氏の筑前における重要な拠点。ここで敗北するわけには行かない(`・ω・´)キリッ

宗茂の籠城戦は20日間に及んだ。


立花宗茂

島津軍・総大将の忠長は、宗茂が優れているとはいえ、所詮・20の若造と舐めていた。

宗茂は単に城に籠もるだけでなく、奇襲をかけて島津本陣にまで肉薄したり、「降伏します」と嘘を言って時間を稼いだり~

と、島津軍を巧みに翻弄した。

そして遂に島津軍の元に関白・秀吉の「援軍が来る」という報告が届き、タイムアウト!

島津軍は撤退を余技なくされる。そう紹運に二週間粘られたタイムロスが最後まで影響したんです。

秀吉が徳川家康を臣従させることに成功し、やっと身軽になって九州征伐に来るのは翌年の4月。

その間、ず~~~~~~~~~~~~っと!弟・統増夫妻は島津の人質のままだった^^;

宗茂は愛する弟を助けたい気持ちを押し殺し黙々と戦い続け、奪われた岩屋・宝満山城を奪い返す。

1587年4月1日~宗茂は筑前の戦況報告のために、重臣・薦野増時(こものますとき)を秀吉のいる豊前へ派遣する

関白・秀吉は、自分の援軍が遅れたせいで宗茂の実父が死に、さらに弟夫妻が捕虜になったままなのを不憫に思っていた。

やってきた薦野増時に島津との交渉を命じる。

この交渉が見事成功!統増夫妻は10ケ月に渡る人質生活から解放される。

ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ←小躍りする名将~宗茂の喜びは大変なもので、薦野に立花姓を与えたのです。


立花家紋

弟夫妻の離婚説は、兄弟の父が戦死した岩屋城にからんでます

舅の筑紫広門が島津の人質になった時に、岩屋城の秘密を島津へ洩らした・・・このことを知った統増と妻の仲に亀裂が走って離婚したのだ・・・という異説

岩屋城は単独で戦う城ではなく、宝満山城と防衛シフトを組んで戦う城だ。

だから「岩屋城を捨てて宝満山城へ引き上げて~」と宗茂らが紹運の籠城を止めようとしてたの。

従って「岩屋⇔宝満山城」間には、連絡用の秘密の間道があったはずなんです。

筑紫が漏らす秘密となったら、その間道か、もしくは城の水脈の位置のいずれかだろう。

とはいえ「そのヒミツを筑紫が洩らしたのか?」となると、そこが疑問なんです^^;


人質になってた筑紫は、島津撤退で隙が出たのを幸いと、幽閉先の寺から自力脱出。

島津に奪われた城と領地を自力で奪還し、秀吉から大名に取り立てられてます。

その後は、ずっと立花家の与力大名として側にいて、関が原でも一緒(もち統増も一緒)

弟夫妻はポンポコ5人の子宝に恵まれて、いつ揉めてるんだ???(-ω-;)ウーン

てな感じで、夫妻が本当に離婚したかどうかも判らない異説なんです。

できれば弟夫妻には通説とおりのラブラブでいて欲しいし、筑紫裏切り云々の噂が実際に出たのだとしても、そのピンチを乗り越えて夫妻は絆を強めたと思いたいです。


統増「父は忠義を貫き城を枕に死に、兄は父に恥じぬ活躍してるのに~~~~~・゜・(PД`q。)・゜・(激ウツの人質生活10ケ月」

不可抗力とはいえ、人質になったことは統増にとって大きなトラウマになった。

統増は、父の応援ができず死に遅れたことを悔やみ続け、殉死も考えるほど思いつめたようです。

やがて立ち直った彼は、父が死を持って教えた「忠義」と「本気で戦う」ことを継承しました。

統増は「二度と後悔しないために」常に激戦地・最前線で戦い、兄・宗茂を助けます。

やがて名将・宗茂が「我が弟ほど大剛のものはいない^-^ニコニコ」と、手放しで自慢するほど優れた武将に成長しました。

弟は亡き父に勝るとも劣らない、名将の兄・宗茂を生涯、師父に接するがごとく敬っていたそうです。

さて、名将・宗茂の人となりを御理解いただくために、彼の家族・周辺の人物を長々紹介させて頂きました。

いよいよ宗茂の関が原に戻ります「次回、蛍の光・大津の意地」それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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