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大河平氏_5【擁立当主・北原掃部介兼親】

北原家督乗っ取りを企んだ伊東義祐に対抗するため、島津・北郷(ほんごう)・相良の三氏により擁立された当主・北原兼親。
盟約を結んだ三氏のうち、相良義陽が伊東へ寝返り脱落。
不穏な空気が漂う真幸院(現:えびの市)で、最前線の今城を守る城主が兄の病死によって少年当主・隆次に代替わりする。

その隆次と主君である北原兼親が、ささいな事で不仲になる。
「ささいな事」と伝えられるだけで、実際には何があったかは判らない。
北原兼親は島津義弘へ
「飯野城(北原兼親在城)と今城(大河平隆次が城主)は余り遠くないため、(伊東が攻撃してきても)すぐさま今城を救援できます。ですから今城配備の島津兵は撤収しても大丈夫です」
と、言上し島津兵を引き揚げさせてしまう。

てなとこまで紹介したら、某さまからコメントが・・・「北原兼親が島津義弘へ進言した文書は残っているのですか」
シオ「・・・・・・・・^-^;え? アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ あれれ~」
シオ「監修様ぁぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーーーーー! これって出典なんでしたっけ~~」
   「えびの市史と小林市史と大河平氏末裔の記録だっけ?改まって聞かれると自信ない件~~」
監修さま「市史の方は元出典判りませんが、島津側で出典見つけました↓」

『本藩人物誌』
春三月飯野地頭職北原掃部介兼親ヨリ致言上
趣有之三百余ノ御番兵被召上置候トナリ


原文!Σ(´Д`;) ん~~~~っと、
春三月 飯野地頭職 北原掃部介兼親より言上致す
趣有り この300余の御番兵 召し上げ置かられ候となり・・・かな?

「趣有り」の中身が肝心な部分の気が・・・・・il||li _| ̄|○ il||l
本藩人物誌の巻末参照史料で、更なる元出典として可能性が高いのが黒木播磨覚書
こっちは確認しきれなかったけど、この覚書が島津側の大元出典なら、飯野郷士の記録した一次史料なんで、かなり精度は高くなるそうな。

言上内容こそ書いてないけど、「北原の言上」によって島津が番兵を引き揚げた事実は、島津側の記録にもあったということです。
となると、残る問題は「北原兼親の発言の底意」が何だったか・・・だ。

通説では、健気に戦った14歳の少年当主に同情的で、主君である北原は「家臣へ意趣返しした残念な当主」扱い。
島津兵が引き上げた時に、北原領内では「北原自身が伊東に寝返ったのでは?」と噂されたそうです。
無理もありません。
自分で国境の守りを手薄にするって、あんまり聞かないもん^^;

でも、そもそも戦略的にヤバそうな提案なら、猛将・島津義弘が撤兵にアッサリ首を縦に振らないはずです。
逆に島津義弘が、北原の言上を不自然に思わない場面は、何だと思います?
それは、「北原兼親自身が、伊東兵との合戦で采配を振るい手柄を立てたいと望んだ時」じゃないでしょうか?

系図・北原
ありのままの~~北原系図,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

北原兼親は祖父・茂兼の代に家督争いに敗れて亡命し、相良氏に寄宿した筋金入り?の居候。
平ったくいうと「産まれも育ちも人吉の水で生きてきた」わけです。

従って、当主といっても北原自身の家臣は身辺にいる者くらいのはずで、北原家臣の殆どが、北原兼親と初対面だったことでしょう。
ちょっと雰囲気としては江戸期の嫡男が、当主になって初めて国許入りするのと似てるかも。
北原家臣らが、器量の知らぬ兼親を主君と仰ぐのは、ひとえに彼の後ろ盾が島津氏だからに他なりません。

伊東の陰謀で反対派が粛清された時に、北原家臣の多くは島津氏を頼りました。
大河平氏、家祖の隆屋も島津氏から領地安堵を受けてます。
大河平氏、2代目隆利が伊東勢と戦い撃退した時も、島津義弘から加増を受けてます。

領地安堵も武功に対する加増も、主君である北原兼親の特権事項です。
上位者である島津氏へ、手柄を立てた誉の家臣を紹介するのは、主君である北原兼親が仲立ちする事です。
それが出来なきゃ主君とは言えないぉ。。。(´;ω;`)ウッ

君臣の関係を本来の状態に戻し、飾りでなく実のある主君となるには、北原兼親自身が己の器量をアピールしなければならない。
北原が「自分で、やってみたい!頑張るからやらせて(-人-)☆彡オネガイ!」
となれば(そういう話が好きそう⇒)猛将・島津義弘「良き御覚悟、ガン( ゜д゜)ガレ」となりませんか?

これは、監修様から色々御教授頂いた話を元にした推測。
「北原兼親がダメ当主でなかった場合」に想定しうる状況です。
論証はできません。何故なら北原側の言い分(言い訳?)を記した資料がないからです。

もっとも、北原言上前の2月から島津は大口城攻撃を始めてるので、兵力が不足気味だったのかも。
北原が自力で守ってくれるほうが助かるって事の方が、撤兵の要因かな?

いずれにせよ、資料なしで論証できなければ通説は覆らない。
北原兼親の「残念な当主」としての評価は、過去も未来も、歴史がある限り刻まれ続けていく。
そして少年当主・大河平隆次にとっての現実は、援軍のないままに壮絶な籠城戦へと突入する。

次回「当家代々の忠義は鎖鍮(さやく)の如く!」それは・またの話 ・゜・(つД`q。)・゜・
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

なるほど^^

島津も兵力分散を避けたかったので、兼親の申し出は渡りに船だったのか^^

ちょっと編集します

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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