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大河平氏_12【今城合戦---5・総攻撃】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平氏』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平氏』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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地図・今城

伊東勢は川(地図・川内川)を渡って大挙して城下へ迫った。
が、大河平勢が伊東勢の頭上めがけて松の大木や岩石を綱を切って落とした為、忽ちにして谷底へ折り重なって落ちた。
川は伊東勢の血の朱に染まった。
やがて攻めあぐねた伊東側は、坂の下方面へと引き始めた。


しかし、大河平勢で軽挙なる者が退散する伊東勢へ向け矢を放った。
それが屏風岩に当たってポテっと落ちた。
「ん?ヽ(。_。)、」
伊東勢の者がそれを拾ってみれば、なんと的矢(まとや)であった。


解説しよう(`・ω・´)キリッ
的矢(まとや)とは、文字通り「的に当てるための矢」でして戦闘用ではありません
神事や祭事などに使う為の矢なんです。これに手を出すということは・・・察してください・゜・(つД`。)・゜


話続く・・
伊東勢は城兵の矢玉が尽きたのを悟り撤兵を止める。
しかし今城が攻め難いことには変わりません。
そこで今城南西の上の原から永野方面へ迂回して兵を進め 、
そこにある永野城を攻撃すると城主の永野仲左衛門を捉え、案内させた。


ちなみに渓谷の関係上、ぐるっと迂回しているんですが、
地形無視で地図上のみで俯瞰すると今城の川向いの西にあったりするwww


城主・永野は
「今城は北のみ攻めやすい間道であり、他の三方は何れも要害で如何なる方法でも落とす事は叶わない。
しかし北方は第一・第二・第三と三つ堀はあるが陸続きなので、茅を刈って(堀を)埋めれば突進できる」と述べた。


永野仲左衛門は元々この地の豪族です。
永野が伊東勢を案内したとするのは『飯野古事記』が出典。
それによると、伊東に一味したために永野に住まうことが憚られ、その後は三ツ山(後の小林)に住んだとしている。


但し、『大河平休兵衛隆賢 聞書』には、伊東勢との戦いの際に永野仲左衛門は家来十名と共に討ち死にしたとある。

一方、『本藩人物誌』には、長野(永野?)仲左衛門という義弘と共に飯野入りした家臣があり、
この人物は大口城攻めで大敗した際に死去したとされている。


ウィキペディア(出典・えびの市史上巻)だと、永野城を落として捕えた城兵から、今城の情報を聞き出したとなってます。
なんか、どの説でも共通してるのは「伊東にやられて落城した」って事なんで、
基本として酷い目にあってる永野城なのでした^^;

地形を利用した天然の要害だった今城の、唯一の攻略ルートが伊東勢にバレた!!
今城の命運が風前の灯となったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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