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大河平氏_9【今城合戦---2・伊東勢の動員】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平氏』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平氏』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。



そうえば、大河平氏に夢中でスッコーーンと忘れた敵側の伊東氏や主君である北原兼親の方。
こっちは完全に史料なしです。
だからこそ「一次史料が見当たらない」なんです。


北原氏はユルユル~と地盤沈下の如く没落して、歴史からフェイドアウトしたので北原氏側の文献って何?って状態^^;
伊東氏はジェットコースターもビックリ急降下の色々重なり・大・没・落( ̄ko ̄)
所領全てを失い、持てるだけの什宝を携え、一族郎党引き連れて豊後へ落ち延び、果ては四国まで亡命するという悲惨な状況。
(伊東家は義祐の三男・祐兵が奇跡の復活で飫肥藩として明治まで存続します)
更にトドメとして、大友氏の天正年間・日向侵攻の際に「理想のキリシタン国造するぉ(`・ω・´)キリッ」
と、神社仏閣破却しまくったんで、日向は一次史料が壊滅四散してるんです^^;
だから、これ以上のものは、ドラえもんじゃないんで出てこないと思ってください^^;


今城を囲んだ伊東勢の兵力も不明なんですが、
『物語り 大河平氏』のみ伊東勢1000名となってますが、根拠は不明です。


さて、ここからは分析IFバナすよおおおおおおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーー!
孫子の兵法によると、攻撃側は籠城側の10倍の兵力が必要だと言われています。
今城の籠城人数は130人
単純に10倍で1300・・・1000だと足りないな~ってなるんですが、
実は「物語り大河平史」では籠城側を108人としているので、
それだと10倍で1000はセオリー通りということになります。

実際に1000だったのか、
判らないながら家譜編纂時に「孫子の兵法」を参照して1000としたのか微妙なところです。

1562年月日不明で、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が兵450をもって大河平城を攻撃し、
大河平勢によってo( ̄Д ̄θ★ケリッ! 撃退されています。

で、この報告を受けた島津義弘が軍功として2000石を加増すると共に、
もっと堅固な城を作りなさいね (* ̄ ▽ ̄)ノ と命じたので、大河平氏が築城したが今城です。


となると、この史料が??になるんですが、
監修様の話だと「どうも城攻めじゃなく、攻撃したのは屋敷の方じゃないか」って話なんです。
伊東勢が陣をしいたのが「屋敷前」って記述になってるそうです。
攻撃時間も夜半から行動しているので、夜襲を仕掛けて撃退されたんじゃないかと言うお話でした。

実際、山あり谷あり川ありの大河平側の地形で、攻撃が何とか可能なのって屋敷側になります。
夜襲=奇襲で城攻めでなく屋敷攻めなら、むしろ450は気づかれるギリギリの人数でしょう。
今城は大河平屋敷近くに築城されているので、「もっと堅固な城を・・・」って島津義弘の命令とも矛盾していません。

従って、『物語り 大河平氏』における伊東勢1000という数字の根拠は不明であるもの、
奇襲ではなく包囲する意図なら、大河平城(屋敷)攻めの兵力450を下回る事はない・・・
という推測が成り立ちます。

つまるところ、シオは敵と味方の動員兵力を検証したいけど、伊東側データがなくて出来ないよーーーー
という状態なわけなんです(´・д・`)トホホ

大元でメインのデータが、大河平氏の家譜(非公開につき未確認)なんだから検証いるの?
って思われるかもですが、全ての史料を一度は疑う、分析するってのがシオ流でして、
さらに記事にしないと脳内整理ができないというオバカなんで、IFバナだだ漏れしてますm(__)m

全て疑う・・・・ですから、今城のような小城攻撃に御大・伊東義祐自ら出陣した・・・って事も実は疑った(爆

人物・伊東義祐橘朝臣幸麿さま提供:伊東義祐イメージ画像

ただ、これを検証しようとなると「当時の伊東義祐が自らの出陣が可能な状況だったか?」
を調べるところから始めなければならない。
ところが、冒頭にあげたように「日向は一次史料が壊滅四散」という状態なんで、検証は不可能。
二次史料においても伊東サイドには今城合戦の詳細記述はないので、
やっぱ参照史料と参照文献の見たまんまを前提とするしかないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

という結論を出す(諦める)ために、論証不可でも、あえて分析をするわけです。
さて、攻撃側兵力の根拠はデータないので検証無理ポ、って決断したところで、
次は籠城側兵力の分析なのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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