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龍造寺家兼_1【時代は室町・五男坊】

史料整理できた分を連載開始~マイペースヽ(*´∀`)ノヨロシクなぅ
見切り発車とも言ウ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
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竜造寺が大河ドラマになったとして、第一部のクライマックスは何と言っても「一族抹殺のピンチ」だろう。

生き残った竜造寺家兼が、90という齢を過ぎてのリベンジ成功。

もしかしてリベンジ戦史・世界最高齢記録登録も夢じゃない?(そんなのがあったとしてだが)

ジーちゃん・・・自前の歯は残ってたんか?髷は残ってたんか?
等々~アフォな考えが脳裏を過ぎる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

掴み?の冗談はさておき、一族抹殺のキッカケは「竜造寺が大内へ寝返った~と疑われたから」

なのだが、では本当に寝返ってたのか?となるとハッキリしていない。

では「何故に竜造寺は疑われたのか?」(-ω-:)ウーン

竜造寺の「裏切り」を少弐に讒言したのは、少弐一門の馬場頼周だ。

ジーちゃんのリベンジ力の余りの迫力に、馬場はババを引かされ悪役・小物イメージが染み付いてしまった。

だが、器量や方向性はさておき、馬場の少弐への忠義は真正ガチ。

その忠義者の鋭い嗅覚が、竜造寺から異質なものを嗅ぎ取ったのだろう。

馬場が感じた竜造寺の中にある異質なもの・・・それは即ち、管理人が最初に抱いた素朴な疑問・・・

疑問というのは「そもそも竜造寺は少弐の家臣だったのだろうか?」という基本的な事です


                    
竜造寺家紋

てことで、いつものごとく「遡ってリサーチしよう~」ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

遡ってるうちに肥前千葉にハマった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもお蔭で知ったのですが、竜造寺当主は肥前千葉家から何度か偏諱(へんき=名前の一字拝領)受けています。

さらに肥前千葉の要請で、竜造寺当主自らが出陣しています。( ゚д゚)ンマッ!!

主持ちの者が、他家から偏諱を受けたり、勝手な軍行動をとるなど有りえません

少弐が勢威あれば少弐に従い、肥前千葉が隆盛なれば肥前千葉と行動を共にする

ちなみ大内に便乗した過去もあり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

竜造寺家は少弐の純然たる家臣ではなく、室町体制における被官(ひかん・緩やかな支配関係)なんです

歴史ファンが増えた現在、ウィキペディアでも「竜造寺は少弐の被官」とキッチリ紹介されているが、
一昔前までは竜造寺は「少弐の家臣」で括られてた説明が多かった^^;

初めからウィキペディア見れば早かったんだが(爆)「自分で調べないと納得できない」のでアレコレとネットサーフィンしてました^^;

余談はさておき、
本音はともかく建て前では、主君と運命を共にする家臣とは違い、
被官は相手(この場合は少弐)が弱体化すれば、新たに興った者の被官となる「選択の自由」がある。

被官の立ち位置としては江戸時代における外様大名みたいな感じで、
被官が累代仕えていても「譜代家臣にはなれないし」「身内とは思われないし」「配下(子分)は、どこまで行っても配下」です。

少弐一門の馬場は「譜代でもなく、家臣でもなく、ましてや身内でもない」から「竜造寺を疑った」

「ただの配下」であるべき竜造寺の力が大きくなりすぎたから、恐れたんです。

                    


竜造寺は鎌倉期には活動しており、肥前国小城郡竜造寺村の地頭に任ぜられた事から「竜造寺姓」を名乗った。

祖は大宰大弐の高木氏と言われているが、高木氏の詳しい事は解ってない。

これが事実なら、祖先の役職だけだと「竜造寺は少弐の上司」になる( ゚д゚)ンマッ!!

国人オタのシオとしては「竜造寺村の地頭」
という言葉の響きに「とてつもなく国人臭」を感じる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

「地頭の竜造寺」・・・出自は別にしても地域密着・土着勢力であった竜造寺家の本質は国人といっても差し支えないだろう。

結論を言うと竜造寺家も、筑前の秋月や大隅の肝属のように「国人が戦国大名化した武家」なんです

国人は自分が生き残るのが最優先!力あるものに従属はしても、心を預けることはない

逆に召し使う方から見れば、裏切りの危険性を常に孕む抜き身の刃のようなものだ


国人の竜造寺は、肥前千葉から少弐の被官になるのだが、単純に右から左へ切り替えられるものではない。

肥前千葉が東西に分裂したことで、竜造寺家における対外政策にも影響したんです。

それは、おいおい語るとして、肝心の家兼だ。

1454年(享徳3)?月?日~家兼は13代目竜造寺康家の五男坊として生を受ける

五男と書いたが、実は第二子が女子なので、生まれた順番だと第六子になります。

もちろん家督に縁なんて~~考えなくてよーーーい。って位置。

肥前千葉家でいうと7代目胤鎮の代で、肥前千葉家は「国主様」と仰がれる全盛期を迎えていた。

応仁の乱が始まった時には、家兼は13歳で元服してたかは微妙な年齢^^

多感な年頃の家兼クンは、同盟関係だった肥前千葉と肥前今川が争うのを見て育つ。(勝つのは肥前千葉)

一方の少弐はライバル大内に水を開けられ、徐々に衰退して行くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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