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大河平氏_11【今城合戦---4・公称130人】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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ふと思ったが130人という数そのものが、大河平氏側からの自己申告かもしれない。

一般に公開されていない大河平氏の家譜だが、
家臣の家譜って編纂すると主家に献上する事があるんです。
(佐賀藩の場合は戦功書を定期的に提出させてた)
となると数字を盛る子孫補正が入る事は、大いに有りえます。

ただ、あんまり荒唐無稽な数字だと、いくらなんでも主家である島津もモヤモヤしちゃうでしょう。
だから、実際より少し多くて、かつ不自然でない数字。
もし後から盛ったのがバレても、事実誤認程度すむ丸っきりウソとは言えない数字・・・

それは島津の援軍が撤兵する前に、
常番として今城に詰めてた人数じゃないでしょうか?

上記参照史料には、島津の援兵300人が、どういう風に配置されていたか記載されていません。
今城は大河平城より規模が小さいので、300人全員が収容可能か怪しいです。

(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン と悩んでいたら、
監修様から助け舟(*´ー`)つ「居住地・大河平屋敷で、今城と大河平城の分かれて守備してたパターン」どぞ~

おお!さすが!リアリティーある推測!
戦国時代の山城って、イザって時の詰城で、通常は麓で館を構えて起居してたんです。

地図・今城

(大河平勢?人+島津援兵300)÷3(今城・大河平城・大河平屋敷)=今城常番兵100~150人(推定)
てことで計算上ですが、本藩人物志に記載された130人に近い数字が出ます。

古文書学上での話なんですが、こういう常勤の番兵の時って勤務日報みたいな記録をするんです。
で、勤めが無事終わった者には「証判」が渡されます。
それは鎌倉も室町も戦国も江戸も変わりません。
武士が奉公した証明ですから、書式は時代によって変化しても必ず出すんです。
ただ、城が破却されちゃうと、そういった文書類もシュレッダーなんで残らないだけ(´・д・`)

本藩人物志の130人の言いだしっぺが誰かは判りませんが、
(残ってる可能性はゼロ%に近いけど)今城の常勤人数の記録を参照したか、
もしくは今城と同程度の規模で常勤人数を参考にしたなら、数字を盛りつつ実態に近い数字になる(*´ー`)ニヤニヤ
まぁ130人の話は、もういいです。どっちみち何が根拠かなんて辿れないし(´・д・`)IFバナにしかならん

もっと気になるのは
参照史料には、島津の援兵300人が、どういう風に配置されていたか記載されてない事
初めに感じたのは「この300人の滞在費用・・ぶっちゃけ糧秣は何処が負担したのだろう?」です。
島津ってことはないでしょう。今城だけに支援したら他の城将からクレームが出そう。
それに大河平氏は島津義弘から2000石の加増を受けたばかりなんで、此の上更に糧秣を・・・とは言いづらい(´・д・`)

江戸時代の軍役として1万石で300人なんですが、地域や時代によってもマチマチで一概には言えません。
概算の目安と比較しても大河平氏のみで、島津援兵の糧秣を負担するのは財政破たんするレベル。
今城合戦は5月29日・・・・作物の収穫前です。
撤兵した島津兵300の食糧は、おそらく領民の備蓄食料を絞り出して捻出してたでしょう。
大河平勢が各々一食分減らして、島津勢に融通するような事態まで陥ってたかも。
更に狭い地域に壮健な男子が300人も増えたんです・・・風紀の問題が・・・・ゴニョゴニョ

本来であれば、そういった実情に対し、大河平氏の元々の主君である北原兼親が配慮すべき立場です。
が、大河平に対し何か支援物資を送ったのかどうか等は、記録にありません。

些細な事で不仲になったという北原兼親と大河平隆次ですが、
根底には島津援兵への糧秣問題があったんじゃないでしょうか。

だって、耕作地が少ない大河平じゃ、領民をどれほど絞ったところで知れてるわけで、
イキナリ300人分の糧秣調達は絶対無理なんです・゜・(PД`q。)・゜・

飯野城に入って思いもかけず当主となった北原兼親に、飯野の財を惜しむ気持ちが、僅かでもあったとしたら?
それに伊東が来襲する時の為に、飯野城だって備蓄しておきたい。
となると、北原兼親が援軍撤兵を島津義弘に言上した真意は・・・って事になるが、さすがに想像がすぎるので自粛。

いずれにせよ島津の援兵300人に細かく触れると、いろいろドロドロした実情に筆が及びかねないので、
主君が見る機会があるかもしれない、「家譜には記載できない部分」になるわけです。
そして、くどいようだが、敵も味方も主君も家臣も一次史料なしだから、真実は永遠に闇の中(´・д・`)

さぁ~分析もIFも終わり!話を戻すぞ~~

今城を囲んだ伊東勢。
伊東義祐は使僧を二度送って降伏勧告をしたんですが、
城主で当主の大河平隆次15歳は二度とも拒絶(`・ω・´)キリッ


怒った伊東義祐は全軍に総攻撃を命じたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

ラジャです^^/

本文のニュアンスを修正しました^^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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