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大河平氏_16【御家再興編・3島津義弘挟撃作戦】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1564年5月29日、伊東義祐の今城攻撃による玉砕討死で、大河平氏嫡流の姫・ナミは実家を失った。
伊東と組んだ相良家の家臣・皆越家に嫁いでいたので彼女には、戦火が及ぶことがなかったんです。

その相良氏と島津氏・・・元々は祖父母の代から友好関係でした。
その流れで真幸院・北原氏乗っ取りを企む伊東義祐を阻むための盟約を交わしてました。
(※北原兼親が祖母の実家である相良氏へ亡命してた)
ところが1563年に相良義陽が裏切り島津の敵である伊東義祐に寝返ってしまった。

(※相良氏が伊東に寝返った理由については、具体的な記載がないため不明です。)

大河平氏は北原家臣でしたが、北原家が衰退したので島津家から領地安堵を受けてました。
従って、相良家臣に嫁いだ姉・ナミと、兄の病死で大河平の家督を継いだ末弟・隆次は、
相良の裏切りにより敵味方の立場に別れてしまったことになります。

そうなると互いの立場上、大っぴらに連絡を取り合うのもままならないでしょう。

ちなみに皆越(球磨郡あさぎり町)は大河平とは地図上だけだと10kmちょいの近さなんだが、
途中で国見山に白髪岳が聳えてるから相当の難所コースです^^;


ナミが今城落城や一族滅亡の詳細を知ったのは、落城から何日後だったのか、知った時の彼女の反応などは記録になく不明です。
元々はナミを嫁にと所望したのは皆越側からだったのですが、
結婚が家と家とのつながりだったのが現代よりも強く濃かった時代に、
実家の後ろ盾を失ったナミに対し 皆越一族が、どのような態度で臨んだのか・・・(´;ω;`)ウッ

こういう時には決まって「婚家に下女扱いされた不幸説」と「ナミの不幸を労わり慰めた優しい義実家説」の二説あって、
日本人は何故か不幸説が好きです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もちろんコアな郷土史なので、そんな極端な伝承なんて無いですよ。(ヾノ・∀・) ナイナイ
ただ、この後のナミの行動を見ると、、、、不幸説がチラチラ浮か・・・・(._+ )☆\(-.-メ)IFバナ自粛!

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

話を相良に戻して、
八代日記によると、島津との盟約を裏切った1563年の段階では島津は相良を引き留めようとしてたっぽい。
相良義陽の裏切りは、日向記だと4月14日、八代日記だと5月14日、困ったことに両方とも一次史料^^;
引き続き八代日記より---島津は1563年5月5日、6月6日と、二度ほど使僧を遣わし、飯野方面の格護を求めてた。
(格護=歴史民俗用語で薩摩藩の田地を占有または保持する意味)

つまり島津は相良を引き留めるために、真幸院のうち大明司だけでなく飯野も割譲しようとしてたんです。

(飯野城にいる北原兼親を どうするつもりだったかは不明・爆)
ところが相良義陽側が派遣した使者・東出羽守が、義陽の意向とは違う勝手な発言をして、島津側を激怒させたんです。
これが決定的になり相良と島津との友好関係は破たんしました。

東出羽守が何をくっちゃべったか内容は不明ですが、トンずらした東出羽守を相良側の追手が成敗(1564年2月9日)してるので、相当の大胆発言をやっちまったようです(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
島津の怒りは収まらず、相良への報復として天草地方に介入したり大口城攻略(1564年2月11日)を始めた

(詳細は相良編に戻ったらしますね(^ -)---☆Wink)

で、大口城攻略の中心となったのが、猛将・島津義弘。

一方、伊東義祐です。
真幸院を手に入れるべく、あれこれ画策し、数年がかりで北原にチョッカイ出してました。
1564年に今城を落としたまでは良かった。
が、北原家臣が動揺して次々出奔したために、北原兼親では真幸院を維持できないと、北原は伊集院神殿村に飛ばされた^^;
で、代わって飯野城に入ったのが、猛将・島津義弘。

相良義陽------ちょっと島津義弘が邪魔なんだけど------伊東義祐

1568年、どっちが言いだしっぺかは不明だが、相良と伊東はタッグを組んで島津義弘を挟み撃ちにしようと企んだ。
同年、その企みを嫁ぎ先である皆越家を通じて入手したナミは、島津義弘に情報をリークした。

ナミの情報が相良と伊東の企みを砕き、真幸院を巡る伊東と島津の争いは新たな局面を迎えるのだが、
それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

>飯野方面の格護

5月はともかく6月も・・・飯野を捨てても相良の裏切りを阻止したかったのか・・
(北原兼親はどうするつもりだったんだ^^;)

>原文

おお!ありがとうございます!!
なるほど、何を言ったかは不明ですが、相良義陽の意向と違う事を勝手にべしゃくったのか^^;

>東出羽守

あ、読む人がついていけないと思って、相良編で紹介するつもりだったんです^^
ちょっとザックリすぎたか^^;
もう少し補足して編集します^^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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