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相良義陽_26【後篇・裏切りの波紋】

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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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えっと・・・ぼちぼちと再開しますφ(.. ) カキカキ
内容的には大河平氏編と被りますが、ブランクあるんで(自分の)おさらいがてら行きま~す♪ヽ(*´∀`)ノ

相良氏と島津氏は、祖父母の代から友好関係でした。
ぶっちゃけ内紛だらけの島津は相良と争ってる余力なんて無かったんです。

伊東氏の真幸院・北原氏家督乗っ取りに対抗し、島津が担ぎ出したのが北原兼親なのは大河平氏編で説明した通りです。
北原兼親は相良家へ亡命してたので、島津から相良へと打診があり、北原支援のための盟約を交わします。
それが永禄5年(1562年)6月21日のことでした。


で、その盟約の証として、相良家の亀徳姫と島津義弘が婚姻した・・・・
したんだが、実は亀徳姫様が島津義弘に嫁いだ時期がハッキリしてないんです。

島津氏と相良氏の友好関係は、相良義陽の裏切りにより破綻したために、亀徳姫は離縁されて出戻ってます。
でもって、その出戻った時期も不明なんです^^;

何というか、江戸期小藩になった相良にとっては、亀徳姫の事は裏切りの顛末と共に黒歴史になったようで、記録が凄い少ないんです( ̄ω ̄A;アセアセ
婚姻期間はMAXの推定で、盟約を交わした1562年から1568年の間。

1568年までという根拠は、島津義弘が熱愛し下級武家の出ながら継室に迎えた宰相殿が1569年に男子を産んでるからです。
ただ1568年は8月に相良と伊東が、義弘不在の飯野城挟撃作戦しようとしてるくらいなんで、
亀徳姫と義弘の夫婦関係も既に破綻してた可能性が高いです。

あ、書き忘れ~~亀徳姫は相良義陽の異母妹です^^/
相良義陽が、自分の身内や子女を使った政略結婚したのは、後にも先にも亀徳姫一人です。
相良義陽の裏切りは、大河平一族のみならず、島津義弘に嫁いだ亀徳姫も巻き込んだ訳です。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作・相良義陽イメージ画像

義陽が島津を裏切った理由は史料には記録されておらず、真相は不明です。
過去記事ストックではアレコレと推測してるんですが、我ながらグダグダになってるんで書くの止めた(´・д・`)

義陽が裏切りの軍事行動したのは1563年、日向記だと4月14日、八代日記だと5月14日
大河平編で紹介したように、この時点では島津は相良を引き留めようとしてたました。
そのために島津では真幸院のうち、飯野地方を相良に割譲しようとしてます。

ところが義陽が島津へ派遣した使者・東出羽守が、義陽の意向とは違う勝手な発言をして、島津側を激怒させてしまい、
友好関係は完全破綻します。


相良側では追手を放ってトンずらした東出羽守を成敗しているので、
義陽としても島津と完全に手切れになるのは本意じゃなかったのかもしれません。
異母妹の亀徳姫が島津義弘に嫁いでましたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

使者が勝手な発言しちゃうところを見ると、相良家では外交方針が一本化されてなかったみたいです。
史料的に裏付けとなるバッチリと書いたものがイマイチ不足・・・行間を読み取る作業になるので解釈が難しいっす(-ω-;)ウーン

これは相良家の内部が複雑な二元統治だったことと関連するかもしれません。
相良領のうち、八代は純然たる家臣ではなく国人の連合体でした。
それで相良家の当主は、球磨と八代を往来し二元統治してました。

でもって人吉相良は元々は分家でして、宗家は多良木相良氏だったんです。
南北朝の争乱で、宗家と分家の逆転現象が起きて、後に人吉相良によって多良木相良は滅ぼされます。
多良木衆は相良家臣として吸収されるわけですが、元々は多良木の方が上という感覚が残ってるのか、
人吉と武功を張り合う気概・気風があった・・・・っぽいです( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって相良氏全体ですと、島津をヤッチまお~ぜ!って武闘派な主戦派と、現状維持の穏健派がいた・・・ぽい^^;
このあたり、史料的な典拠を出すのが難しい~~~~~~~だって空気だもん!!

さらに言うと、義陽には同年同月同日生まれという異母弟がいたんです。
しかも義陽も異母弟(亀徳姫の同腹兄)も生母は家来筋。
そのため、義陽が正式に嫡男認定されたのは、誕生から数年後の1548年に奉行衆の決定という手順を踏んでます。
義陽の父・晴広も養子だったので、相良当主としては血統が弱い部分を補完するために、
義陽は義理伯母にあたる千代菊を正室にしてます。

1564年で相良義陽は数えで25歳。
当主として若すぎるということはないのですが、上記諸事情が積み重なった事で、義陽が家臣たちをまとめるのは容易ではない状況だったと、推測してました。

この1564年に相良義陽は、阿蘇氏家老の甲斐宗運と接触しはじめるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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