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【薩州家_島津義虎までの その四】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。


自分はドン久豊以降の島津氏奥州家(宗家)当主では、忠昌が一番好きです。
頑張って頑張って、ついに力尽きた悲運の当主だと思います  (゜-Å) ホロリ

文明8(1476)年、薩州家2代目・国久が島津宗家11代目・忠昌に叛旗を翻し挙兵!
これに豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応した。


えっと~忠昌から見る親戚関係におきかえると・・・
父の従兄弟(薩州家2代目)が謀反して、それに伯父(相州家初代)と祖父の弟(豊州家初代)が便乗しましたとさ♪

挙兵した薩州家2代目・国久は、大隅国分城に侵攻したんですが、忠昌が援軍に駆け付けると撤退しました。
宗家当主といっても若年です。
忠昌の年齢(数え14)と経歴(元々僧侶、父の死去で還俗し相続)から推測するに、これが初陣っぽい。

薩州家の国久が謀反したのは、宗家と政治的に対立したからなんですが、
数え14歳の忠昌と個人的でも政治的でも遺恨があるとは・・・ちょっと想像しづらい。
だから宗家宿老の方針に対立したんじゃないかな~~と、。
それなのに少年当主・忠昌が出陣してきたんで、本意じゃなくて撤退したのかな~~と。
想像ですよ。想像♪

他の分家も挙兵したため、忠昌は一時は伊集院に避難したんですが、相州家が鎮圧されると豊州家も降伏。
が、薩州家2代目国久は兵は引きあげたけど降伏もしない半独立状態になります。
この戦国初期の時点で、宗家には薩州家を武力で押さえつけるだけの力がなかったのでしょう。
もう他人と思って割り切るしか・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

日向飫肥城を巡って伊東氏とガチンコに突入するのは、忠昌の代から始まります。
もともと若年が当主になった~~ヒャホーイ♪ヽ(*´∀`)ノチャンス到来っとばかりに伊東氏がムズムズしはじめまして、
それに対応するために家臣で島津支流の新納(にいろ)氏と伊作の久逸(忠昌の叔父)が、日向へ派遣されてたんです。

ところが伊作・島津久逸と新納が味方同士で大ゲンカ!!Σ(´Д`;)マジかよ
色々重なって怒りのあまり伊作・島津久逸は日向・伊東氏に寝返る! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
文明16(1484)年「第一次飫肥の役」は、伊東祐国と島津久逸の連合軍による飫肥城攻撃で始まる
これに呼応し国衆である祁答院氏、入来院氏、菱刈氏、北原氏が蜂起したので、たちまち大乱。
結果として飫肥城は新納が守りきるんだけど、実は一度落城してるとか、してないとか、記録が錯綜するほど混乱したらしい。 
というのも、亡き父の従兄弟である豊州家2代目・忠廉までが忠昌に叛旗を翻したから (゚ロ゚屮)屮 えぇっ!

この状態を憂いて動いたのが、半独立状態で超然としていた薩州家2代目・国久です
国久~~~カッコイイので大文字なのです (人´∀`).☆.。.:*・オジサマ素敵♪
国久は水俣の相良為続(12代目)を訪ね、二人で豊州家を説き伏せて宗家当主・忠昌に帰順させることに成功します。

この飫肥の役の頃、忠昌は22歳の若者に成長していました^-^
が、心労からか病身多病でして、京都から名医・竹田法印昭慶を招いて療養中でした。
そんな状況で忠昌は大乱鎮圧のために、名医のドクターストップを振り切り、出陣しています。
忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや!」
と医者のドクターストップを退けています(出典:島津歴代略記)


薩州家・国久が、忠昌の状況や島津当主としての覚悟を何処まで知っていたかは、判りません。
ただ、薩州家ファンの妄想としては、
知った上で忠昌を当主として認めて、豊州家の帰順説得に動いたんだ~と萌える夢を見たいところです 川* ̄д ̄*川ポッ

つまるところ、忠昌と国久に萌えなんですな( ゚Д゚)y─┛~~
島津の混乱は、まだまだまだまだ続くのだが、それは・またの話 by^-^sio 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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