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相良義陽_34【相良と菱刈と薩州家と その2】

≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。

なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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ちと驚いたのが相良氏9代目当主・前続が、島津宗家から妻を迎えてた事です^^
室町期に島津宗家の座を手中にした奥州家ドン・久豊の娘です。
南北朝争乱の荒波を乗り切り、庶流でありながら宗家(多良木相良)を凌駕した人吉相良氏が、着実に力をつけていたのを感じさせます。
とはいえ、さすがに9代目まで遡ってたらキリないんでパス^^;

後に戦国大名となる人吉の相良氏が飛躍する土台を作るのが、室町期の人物で12代目当主・相良為続です。
久々にウィキペディアを見たら記述が増えててビックラした,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
球磨郡誌が近代デジタルライブラリでネット公開されたんでつ ( ̄ko ̄)
が、これが曲者・・・というのは球磨郡誌発刊は昭和前期なんで、最新研究は盛り込まれてないんです。
てことで、参照しつつ慎重に記事にしたいと思います__φ(.. ) メモメモ

ウィキペディアによると相良為続の妻は菱刈道秀の娘とあり、大隅国衆・菱刈氏との繋がりを窺えるのです・・・
が、菱刈氏系図上で菱刈道秀に該当する人物が誰か特定できないし、相良為続嫡男のウィキペディアだと生母の名が記載されていないので、つまるところ詳しいことは不明です ( ̄ω ̄A;アセアセ

相良為続の頃の薩州家当主は2代目・国久 川* ̄д ̄*川ポッ 
島津宗家当主は国内争乱で心身ともに疲れ果て後に自害する11代目・忠昌です。
父の死で庶子・忠昌は12歳で家督を継いだのですが、国久は忠昌が14歳の時に謀反を起こしています。

で、国久謀反の要因に実は相良為続が関わっていたんです。
薩州家シリーズでは話が複雑になるんで紹介しきれんかったです ( ̄ω ̄A;アセアセ

で、国久が謀反を起こす前年(文明7・1475)に、相良為続と国久は同盟した・・・とウィキペディアにあり。
ウィキの元出典は球磨郡誌で、球磨郡誌の出典は江戸期二次史料のようです。
というのも、文明年間の相良氏には一次史料が残ってないから^^b

で、引き続きウィキペディアによると、( )内はシオ補足
(同年)10月、(相良為続が)鹿児島に赴いて犬追物や笠懸などの催しで歓待された。
とあります。

分析、分析・・φ(.. ) メモメモ
まず、当時の力関係と家格からいって、対等の同盟関係とは考えづらい。
傍証になるのが歓待の内容である笠懸(かさがけ)です。
笠懸(かさがけ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のことです。
イメージとしては、テレビで紹介される正月とかに神社とかでやる流鏑馬(やぶさめ)みたいな感じね^^b
ウィキより拝借・笠懸画像

内容も似たような感じらしいんですが、笠懸の方が技術的難易度が高く、でもって儀礼上として流鏑馬より略式なんです。
てことで、相良為続は家格相応の歓待を受けたみたいですね。

ちょっと不思議だったのが薩州家・国久と同盟したのに、赴いたのが鹿児島ってウィキペディア(元は球磨郡誌)の記述です。
なんで?出水(薩州家の本拠地)じゃね?ヽ(。_゜)ノ ?と疑問が~~~~

そもそも国久が相良氏と同盟したのが、国久自身の政治的思惑から来たのか、はたまた島津宗家と相談したものなのかが、判らない・・・
そこまで記述された史料というものが、無いんですよ。

同盟の翌年に国久が謀反してるのを鑑みると、国久単独の政治判断のような印象は受けます。
何しろ当時の宗家当主・忠昌は未だ13歳の少年でしたからね。
尤も、国久が、三州守護職の名門・島津氏の勢力を誇るために、あえて鹿児島に招いて歓待したって事もありえます。

というのは、相良氏という家は、守護職という従来の権威に対し、基本として異を立てず従うからです。
自分の家がピンチにならない程度なら、守護職を主君として立てるのが相良氏の表看板であり家風でした。
ただし、これは置文や遺言などでキッチリ明文化されているわけではありません。
記事内ルールにあるように青色文字表記じゃないですからね (^ -)---☆Wink
ですが、要所要所において肥後守護職を「お屋形様」として従った相良氏歴代当主の政治的判断が、根拠&傍証になるかと思います。
従って、武将としてだけでなく優れた教養人でもあった相良為続相手ならば、島津の守護職&名門アピールは効果あったんじゃないかな~と思います^^

でもって、文明8(1476)年・・・島津国久が島津宗家に反旗を翻した、その始まりのキッカケ・・
相良為続と縁戚の菱刈氏が大口城を巡って揉めた事からなのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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