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【信長の野望/幻の豊薩同盟】柳川藩初代藩主編3栞71

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大友からは名馬を貰ったので島津からは鷹を贈りなさぁい~鷹は日向産限定ネ

薩摩の島津義久の元へ、織田信長から上目線の手紙が来たのは、天正7年(1579年)のことだった


前年の11月「耳川の戦い」で島津に大敗し衰退した大友氏が、織田信長のバックアップを求めたのが始まりだった。

面識のない島津と織田の仲介をしたのは公家で、関白の近衛前久(このえ さきひさ)。

近衛は織田信長の鷹狩り仲間である同時に、島津義久の和歌~古今伝授の師匠だったの。

ちなみに身分の低い豊臣秀吉が関白になるときに、近衛の養子になるという手続きをしています。

でもって島津義久は織田信長を華麗にスルー~

さらに室町幕府・最後の将軍、足利義昭が日向鷹を献上を所望した。

(この時期は信長に京都を追い出され ポニョで有名になった鞆(とも)に仮住まい中~)
(なのに織田と島津の接触を、どこでキャッチしたんだろう?)

ちなみに義昭の仲介したのは、義久の雅の友・細川幽斎。

細川は既に室町幕府に見切りつけて、織田信長に息子・忠興を仕官させていたのだが、足利義昭と完全に切れた訳では無かったらしい。

足利義昭が亡くなった時も、幽斎が葬儀の手配りなどしている。


織田家紋

すぐ調子にのる足利義昭。

信長のシンパ・大友は室町将軍の敵!大友を討て!!

という命令を、信長にバレないように( ̄ko ̄)<チイサナコエ⇒御内書を島津に出してたりする。

その後も織田信長から「大友と和睦しろ」とか「日向鷹まだ?」などと変わりばんこに催促されていたが、島津義久は無視し続けた。

天正8年(1580)8月~遂に仲介なしで織田信長から直接島津義久の元へ手紙が届く。
信長からの手紙(大意)
1)大友との争いを止める事
2)本願寺が信長と和睦(実質の敗北)し、石山(大坂)を明け渡し紀伊(和歌山県)へ退去した事
3)毛利成敗のための兵を出し天下(この場合信長)のために忠義を尽くす事

翌月の9月にも信長から和睦勧告が来るので・・・・・遂に根負けして日向鷹を贈った島津だった( ̄ω ̄A;アセアセ

島津が信長の介入により大友と和睦した正確な年月日は調べきれなかった。

なにせ国境を決めたりとか・人質の交換とか・同盟結婚とか・・・など交渉してた風がなく「口だけ同盟」だったのだ。

とにかく翌年の天正9年(1581)の8月には「島津から大友へ」同盟を祝してと、太刀と馬が贈られている。

この同盟は、大友の領地が豊後(ぶんご)と、島津の領地が薩摩(さつま)なので「豊薩(ぶんさつ)同盟」と呼ばれた



島津家紋

織田信長の天下統一構想のスコープゾーンに、遂に九州が入ったのだ


信長の「九州仕置」の最終構想は、今となっては解らない。

だが関東を例にとると、信長は「反北条サイド」を糾合することにより「関東惣無事」を完成させている。
(信長が本能寺で倒れるまでの僅か3か月間だが「完成した」という実績は残った)

だから九州の場合も「反島津サイド」を吸い上げることで「九州惣無事」を仕上げようとしたのではないだろうか。

天正10年(1582)の[「本能寺の変」で織田信長は殺されるのだが同盟は継続されていた。

大友を庇護するという織田信長路線を、豊臣秀吉も継承したからだ。

もちろん大友氏の方でも上洛し、豊臣秀吉に礼を尽くしているのは云うまでもない。

天正12年(1584)3月に起きた「沖田畷の戦い」で竜造寺に勝利した島津に対し、大友氏は「同盟国」として戦勝祝いを同年・5月に贈っている。

贈ったのは「定家真筆の古今和歌集」和歌好きの島津にピッタリ~贈り物に大友の気合を感じる( ̄ω ̄A;アセアセ

同盟など島津も大友も守ってなどいない。

島津は秋月氏と組んで大友の筑前における領地を攻撃しているし、大友は筑前を拠点として立花道雪などが島津の筑後勢力圏内に侵攻している。

さらに島津配下の日向国人が、大友軍と激突しています。

新たな天下人・豊臣秀吉は自分に従がう大友を残し、九州支配に邪魔な島津を「豊薩同盟を破った罪」によって島津討伐の口実にしようとした。


豊臣家紋

天正13年(1585)10月~秀吉は島津へ九州停戦令を出した


翌年の1月~島津義久は雅の友人・細川幽斎に手紙を書く。

島津「私は豊薩同盟を守ってます。成敗される覚えはありません。どうか貴方から関白殿下に取り成してください」φ(.. ) メモメモ

秀吉の島津討伐は、もはや既定の方針で一個人の外交力でどうにかなるレベルではなくなっていた。

だが細川氏は島津存続のために、この後にも起きる島津の問題に対し仲介の労を取る事になる。
(細川幽斎は一時期、九州の取次だった)

実態がなく外交上の駆け引きのみで存在した豊薩同盟


このまま手をこまねいていれば、全てを失い滅びてしまう・・・島津には戦うしか道は残されていなかった。

「私は同盟を守ってます」そう手紙を書いた同年の7月。

島津は6万の大軍をもって、筑前の大友領に侵攻を開始した。

時間は多くは残されていない、秀吉軍が来る前にカタをつけなければならない。

名将・立花宗茂の実父・高橋紹運は、大友に忠義を尽くす家臣だった。

常に最前線で戦ってきた彼は島津の大軍を引きうけ死闘することになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

※今回の記事は「豊臣政権による惣無事令は存在しない」という竹井英文氏の新説を元に構成しました。
資料にした出典:島津家文書、竹井英文氏著『織豊政権と東国社会』

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^; 
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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