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北肥戦誌【1562年】

●永禄5年(1562年)

豊後の大友義鎮は少弐再興の為に資元の三男・政興を立てんと図った。
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多 鎮(親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。
父子は同意し、波多家は松浦党に加え、田代因幡守、馬渡甲斐守らに準備させ、仙巌は嫡子・有馬義直(義貞)に人数を与えて、大村純忠の士卒と共に多久へ向かい、多久宗利を味方に付けて龍造寺攻略を企てた。

これに西肥前の者達が与する。
彼杵郡の西郷純堯、矢上幸治ら、下松浦の松浦 親、山代 清、伊万里 直ら、杵島郡の平井経治を始め、白石・永田・吉田・嬉野(宇禮志野)・原・上瀧が、高来には安徳・安富・神代・島原・多比良・千々石らが打ち出て、先陣は3月17日に杵島の横辺田まで攻め来る。

隆信はこれを聞き、急ぎ老臣らを集め評定を行い、一族の他に鍋島信房、鍋島信昌を始め、小河・納富・福地らを横辺田へ差し向け、小城郡の高田村に陣取った。
これに千葉胤連も家人を催し、蘆刈の鴨打胤忠、徳島土佐入道道可、徳島長房、徳島信盛を始め、今川の持永盛秀以下、空閑・粟飯原・桃崎・橋本も龍造寺に加勢の軍を出し、丹坂口へ打ちだした。
これに有馬は横辺田に陣を張ったまま動かず、6月も半ばとなった。


そんな中、有馬に所縁のある馬渡俊光という者が、隆信に対して忠を為さんと、一族の野田右近允と密談し有馬へ、隆信を討つから兵を出してくれと使いを出した。

有馬勢はこれを策と知らず、島原彌七郎に人数を与えて船で砥川まで差遣させた。
この兵船が柳津留に入ると、馬渡俊光は牛尾山に合図の火を上げる。
これに東から鴨打・徳島数百人、西から野田・乙成勢が出陣、兵船を取り囲み、雨の降る如くに矢を射掛けた。
謀られたと気付いた有馬勢は船を漕ぎ戻そうとするも叶わず、船底に隠れたり、干潟に飛び込んだりと為す術無かった。
佐嘉の地下人らはこれに手を叩き、声を上げて、雄叫びながら武槍で突いて回ると有馬勢数百人が討たれた。
島原は攻撃を払いながら牛津江の大戸ヶ里まで船で逃れながら鴨打勢と戦ったが、有馬勢40余人が討たれた。
但し鴨打勢も50余人が討ち死にした。

これを隆信へ注進すると、隆信は大いに喜び馬渡へ100町を与え、馬渡信光と改名させた。
また鴨打ちへは小城の右原80町を加増し、徳島らにも其々恩賞を与えた。


これに佐留志の前田志摩守、その息子・前田家定も有馬と手切れすべく、有馬の佐留志代官・高場新右衛門を切って、加瀬の館へ居た隆信へその首級を持参した。
隆信はこれに喜悦し、佐留志の新田60町と砥川にある5町を前田に下賜した。

更に上松浦の鶴田因幡守、鶴田越前守、田代因幡守も大友方である波多鎮と手切れして龍造寺に加担した。
中でも田代は上松浦の居館を立退いて、佐嘉領である小城の内納所村に移住している。
その引き払いの際に波多勢と戦い、嫡子・左京亮、田代主殿助、田代彌三郎、田代源五左衛門、田代新左衛門、田代藤次兵衛らが討ち死に、次男・越後守が負傷している。
更に、前田家定の手引きで、杵島郡・横辺田の郷士である土井・井元・田中らも龍造寺家に従った。


一方、馬渡に謀られた有馬勢は大いに立腹し、7月2日に島原弥助を大将に、安富貞直と安徳直治の家臣、高来・杵島の軍勢が、須古の平井経治の勢と共に砥川村へ攻め込むべく大橋を越えんとしていた。
これに佐留志の前田志摩守、別府の相浦河内守、砥川の泉市之介・森田越前守・江口慶林らは急ぎ居宅より出陣し、大橋口で敵勢を防ぐ。
前田勢は進み過ぎて主従18人が討ち死にするが、有馬勢は大橋口を破れず、北側へ進み両子山の北に在る由利岳に陣を構えた。
ここへ、多久に陣を布いていた大村勢も集まり、近いうちに小城に攻め入らんとしていた。


これらに千葉胤連の家臣らが打ち掛かるが、寡兵の為に打ち負け引き退いた。

隆信はそれを聞き、弟・信周、従弟・鑑兼、鍋島信房、納富信景、その弟の納富治部大輔信純(彦鶴の夫)に人数を与えて丹坂口へ先行させると、自らもそれに続いた。
隆信には鍋島信昌、小河信友、百武兼通が随身する。


7月25日、有馬勢が、由利岳から小城を捕るべく丹坂へと攻め入った。
これに今川の持永盛秀、持永長門守、持永清兵衛、栗原甚助、大曲彦三郎、岡の大塚盛家、板屋九郎太郎、平井の粟飯原宮内少輔、粟飯原新七郎、鳥巣大蔵允、西郷の空閑刑部左衛門、江頭主計允、津野の橋本兵部少輔、橋本左近允、橋本右近允 他、近辺の豪族らが集まり、江頭筑後守を先陣にして丹坂口を守る為、東西の郷へ陣を布く。また、丹坂の北・姫御前塚を峯村の千葉家旧臣・峯 吉家、その弟・峯民部少輔、峯甚左衛門、峯次郎兵衛ら主従83人で固め、西の谷を越えて右原境に陣を布いた。

有馬勢の一手がこれに対する。
峯一族はこれを防ぐべく奮戦するも、大将の峯吉家は7ヶ所の傷を被り引き退く。
だが、これを見て逆に奮闘、峯甚左衛門は無双の剛の者で、石の狭間から矢を射掛け、有馬勢23人を射殺した。
有馬勢は疲労夥しくなり引き退いた。


丹坂口では乱戦となり、有馬勢が競り勝ち西郷まで攻め入るが、佐嘉勢と小城勢に打ち負けて潰走していった。
佐嘉・小城勢は余勢を駆って、丹坂峠を越えて右原へと有馬勢を追い詰める。
有馬勢は慌てて川に飛び込み、次々と溺死していった。
有馬勢は、安徳直治の勢から安徳直徳、安徳彌左衛門、安徳日向守、安徳兵部左衛門、安徳八郎次郎、安徳太郎左衛門、大窪金右衛門、長野土佐守、長野四郎左衛門、長野三郎左衛門、大塚次郎兵衛、菅太郎兵衛、河口忠兵衛、小瀬八郎左衛門、池副孫三郎ら18名、安富但馬守勢から数十人など、有馬勢から沢山の討ち死にが出た。
隆信は時を置かず、同日の7月25日に多久宗利の下多久の梶峰城を攻める。
このとき宗利は丹坂へ出陣中で留守であり、城はあっさりと落ちた。


鍋島信昌は堤尾山に備えを固めて陣を布いた。
更に隆信は返す刀で、急ぎ長尾口を塞ぎに掛かる。
これは、逃げ帰って来る大村・多久勢を逃走させない為である。
逃げ場を塞がれた敵勢は、山林へと散り散り逃げ惑って行った。
その中に居た案内者・長尾村の倉富米満、波佐間村の田中掃部助は留まって討ち死にした。


隆信は多久城へ入り兵馬を休める。
有馬の敗残兵は杵島の横辺田へ退却、楠久津に籠って、須古の平井経治と塚崎・武雄の後藤貴明へ加勢を請うた。

隆信が多久の城を落として以後、龍造寺家に降参する者が相次ぐ。
一方、梶峰城を失った多久宗利は直に須古へ出向いて、平井経治を頼った。

7月26日、隆信は後藤貴明へ使いを出し、
「これより多久より横辺田へ陣を移し、有馬の残党を残らず討ち果たす心算である。このとき我らと敵対しないで頂きたい。もしまた有馬へ加勢されるならば、御辺と一戦に及ぶのみである」と申し送る。
隆信はその返答を待たず杵島へ陣替えした。
貴明はいまだ返答をしなかった。

然る処に隆信の後方より有馬・大村の残兵が、鬨を上げて切り掛かった。
隆信は元来より機微万化の大将であり、これにも全く動じず、先備を即座に後方へ繰り出して有馬勢に対した。
敵は所詮敗残兵であり、再び打ち負けて敗走した。

隆信が北方という場所へ陣を移す。
後藤貴明は猪熊半助を使者に、隆信勝利の祝儀を述べさせると、隆信は北方の陣を払い横辺田へ引き、福母山に陣を布いた。


7月28日、龍造寺勢は前田家定、井元上野介を案内者に、納富信景を先陣として2000騎をもって、高岳城主・平井経治を攻めるべく福母の南大橋口へ押し寄せる。
平井経治は当代無双の勇将で、佐嘉勢来襲を聞き出陣、一族の川津経忠、平井刑部大輔を始め、本田純秀、本田純親、白石純通、湯河・川崎・永池・村田らが大橋口にて出向き、互いに弓・鉄砲を打ち掛ける。

やがて両陣太刀打ちとなって干戈交えるが、龍造寺勢が打ち負けて引き退いた。
平井勢は勝ちに乗り追い縋る。
鍋島信昌は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。
これに、敵が良い敵と見定めて左右から信昌を討たんとするが、小河大炊助、百武志摩守、副島右近允が馳せ付けて信昌を救った。


龍造寺勢は退却に難儀し、鴨打左馬大夫、副島式部少輔、野辺田左衛門尉の3人は軍勢の中程から返して、追い縋る敵を追い散らす。
このとき殿軍は龍造寺鑑兼・納富但馬守であったが、信昌もこれに加わり敵をどうにか諦めさせた。


だが、近辺の野伏らが落人狩りを目論見、小田に陣を布き、龍造寺勢を待ち構えた。
龍造寺勢はこれを風聞に聞き、今日は日暮れなれば明日に通るべし、或いは別の道を通るべしと述べるが、
信昌は「野伏如き何程の事も御座いませぬ。只今より私一人で駆け散らして通りますものを」。と述べると、隆信は尤もと頷き、鍋島が真前に立ち小田村を真一文字に駆け抜ける。
その威に呑まれ、野伏は悉く山中へと退いた。
龍造寺勢は無事に佐嘉へと帰還を果たす。別説に、隆信は横辺田へ退却した後、後藤貴明と語らい平井との再戦を企図するも、大友騎下の者共が隆信の留守を伺っているため、まず帰城あるべしとの佐嘉からの注進を聞き、梶峰城へ弟・長信を置いて、佐嘉へ帰還したとも云われる。
また、この戦いは永禄6年(1563年)との説もある。


前年の神代勝利復帰に、隆信は手をこまねく。
止む無く隆信は策を巡らし、勝利に叛意を抱く者を求めてこれを討たしめんとする。
すると、山内に西川伊予守という力量ある者があったが、隆信の求めを承諾した。
西川は、密かに友人の三瀬又兵衛へ協力を求める。
しかしながら又兵衛はこれに同心せず、父の長門守へこれを告げる。
長門はこれに驚き、勝利に此れを告げると、勝利は三瀬又兵衛と中野新十郎に西川伊予が重陽の禮に出かけた処を討ち果たさせた。隆信は以後、計略を思い留まる。

そしてこの冬、納富信景の仲介で隆信と勝利は和談に至り、勝利の嫡男・神代長良の娘・初菊を、隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)に嫁がせる旨の約定と、両家ともに害心あるまじき由を神文として取り交わした。以後は山(山内)と里(佐嘉)の間は平安となった。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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