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相良義陽_42【相良と菱刈と薩州家と その10】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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えっと~~前回
>菱刈氏が「薩州家VS伊作」に関わりがあったかは不明です。
>薩州家と縁戚関係だけに菱刈が無関係でいられたかは、かなり疑問ではありますが、菱刈側にはデータが残っていません。


と、書いたように「菱刈側にはデータない」です・・・が、
相良側に「それっぽいデータがある」んです。
それも飛びっきりの一次史料「八代日記」に!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

とはいえ「日記」だけに、前後がなくて唐突に記述が出て来るんで「事情が、いまいち判らん」のですが~( ̄ω ̄A;アセアセ
天文二(1533)年正月十九日 平和泉為請取打立候、中途ニササヘ候、是ハ祁答院ヨリ長唯御渡候
同廿五日 薩州より平和泉知行
二月十日 菱刈より平和泉ニ手形、城つめ
四月廿二日 菱刈ニ和与之後、始使僧御遣し候
六月七日 平和泉ニ一番之人数立候
同廿三日 平和泉ニ二番衆立候
十月三日 長種菱刈ニ 御行候、同五日ニ平和泉・菱刈御渡候、同十一日ニ長種菱刈より御帰候
(出典:八代日記)


読み下しってほど難しい文章じゃないけど、見やすさ重視の超意訳で__φ(.. ) メモメモ

天文2(1533)年1月19日、平和泉の請(う)け取りの為に打立・・出発しました。
途中でササ(酒?)を、是は祁答院(けどういん)より長唯(=相良16代目・義滋)へお渡ししました。
1月25日、薩州家より平和泉を知行
2月10日、菱刈より平和泉に手形を与え城詰とする(←ニュアンス意訳なんでチト怪しいっす)
4月22日、菱刈に和与(わよ=和睦)の後、始(初?)めて遣いの使僧を送りました。
6月七日、平和泉に一番衆が入りました。
6月23日、平和泉に二番衆が入りました。
10月3日、上村長種が菱刈に行きました。
10月5日、平和泉を菱刈に渡し、11日に長種は菱刈より戻りました。

1533年というと、菱刈+相良の連合軍が大口ゲットした三年後のことです。
で、黒幕じゃね?と自分が推測している薩州家・重久(=3代目)が存命の頃。

宗家は、薩州家にのせられた宗家・島津勝久が伊作を裏切り守護職に復帰してた頃。
調子にのった島津勝久は「伊作と和睦すべき」という分家や国衆の申し出をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!してます。
つまり「薩州家VS伊作」で、薩州家が優勢だった時期です。

平和泉というのは地名でして、薩州家は自領の一部を相良へ知行したんです。
くどいようですが、これは出典:八代日記で相良側の一次史料です。
相良側の方で『知行』と書いているということは、相良では薩州家を上位者とみなしているってことで、
上位者から知行を受けたってことは、本来であれば被官関係になったのを意味します。

が、その後の流れが・・・・むむむ~(。_゜)ノ
なので、日記の記述者が薩摩国守護代の家柄である薩州家に対し「敬意を払った書き方」をしてるだけかもです。

あ、薩州家のお使いで相良へ届け物した祁答院って人名っす^^
このころなら祁答院重武が当主か実権握ってたころで、彼は勢力拡大にハッスルした当主なんで、必然的に島津宗家に対し反抗的でした。

で、菱刈と和与(=わよ・和睦)って4月に書かれているんですが、1530年から3年の間で何時の間に揉めてたんですか?ヽ(。_゜)ノ へっ?
で、で、10月に薩州家から知行された平和泉を相良では、菱刈に引き渡しちゃってるんです。Σ(´Д`;)

しつこいけど、この八代日記が書かれた頃は「薩州家の勢いブイブイ」な時期です。
当主・菱刈重州の祖父・薩州家の重久が存命です。
「日記に書かれた知行という言葉」が「額面通りに被官関係を指すならば」
相良の勝手で菱刈に渡すことは出来ません。
日記は簡素ですが「菱刈へ渡すのを薩州家が了承してたはず」です。

ですから日記内にある「和与」というのは「菱刈と相良のみを指すのではない」「島津も絡んでる」という推測が成り立つ
菱刈・相良・島津が絡むトラブルというとズバリ大口城。

ものすごく大胆なIFバナですが、平和泉と引き換えに、菱刈は大口城を島津勝久へ返還したんじゃないでしょうか。
このころの島津勝久と薩州家は表立った軋轢はないころで、勝久の親政に協力するのはアリな頃です。
そうすれば、薩州家は「表向きは宗家の顔を立てつつ」「相良も菱刈も自分のシンパに取り込み出来ます」(*´ー`)ムフフ

とはいえ、これ、かなり強引な推測^^;
八代日記は、日記だけに自分が興味あるか関係したことしか書いててくれないし(´・д・`)
菱刈の後に入った島津家臣の西原氏は経歴不明で、いつから大口に入ったか皆目わからんし(´・д・`)
菱刈側じゃ、な~~~~んも記録残ってないし(´・д・`)

伊作島津が反撃開始で、薩州家が形勢不利になったころ・・・相良と薩州家の関係にも変化があったのだが、それは・またの話 by^-^sio
 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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