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北肥戦誌【1561年】

●永禄4年(1561年)

9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、
「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」。と伝えさせた。

勝利も龍家を追い出し、肥前を平定せんとの野心があり、これに河浪駿河守を送り出し、応じる旨を伝えさせた。

隔して9月13日、勝利は熊川の城で勢を整え7000余騎で河上に出張った。

勝利は三瀬武家、三瀬安家、古河佐渡守、古河新四郎ら2000余騎を引き分け、淀姫大明神の西の総門を本陣とし、

大手宮原口には嫡子・神代長良を大将として神代蕃元、神代豊後守、神代兵衛尉、福島勝高、福島利高、中島鑑連、千布家利ら3000余騎を、

大明神の前・南大門には勝利の次男・神代種良を大将に、松瀬宗奕、松瀬能登守利宗、杠種満ら1300余騎を、

川の東・都渡岐口を三男の神代周利には八戸宗暘を付け、西川伊予守らの他、千葉胤誠の家臣らを合わせて1500余騎を布陣させた。

(勝利は平地では自軍が不利であると、山内へ誘い入れようと考えていたらしい。)


龍造寺勢も8000余騎を率い鶏鳴に出陣、軍勢を三つに分け、東の都渡岐口へは実弟・信周、従弟・鑑兼、小河信友ら2000余騎、西の南大門には納富信景を大将に2500余騎、隆信は3500余騎で宮原口へ押しかかる。

まず大手宮原口から戦が始まり、旗本勢の先陣・広橋一祐軒信了は士卒を励まし、
「一歩も退くな、掛かれ!」と下知するも、神代勢の勢いに南の方へ瓦解し広橋も討たれんとした折、二陣の者らは大いに憤激し自ら采配を上げて馬廻り衆を急いで先陣と入れ替え、二陣の大将・福地長門守信重も500余騎で入れ替わる。

隆信は予てより「先陣の敗は二陣の不覚、先陣の勝は二陣の手柄」と定めていた。

それ故の二陣の奮起であった。

これに神代勢より武藤左近将監という者が名乗りを上げて福地と突き合うも、福地の槍に胸板を貫かれ討ち死にした。

大庭石見守は神代中務丞を、納富越中守・北島河内守や、空閑光家も軍功を得た。

また戦いの半ば、神代の都渡岐の陣から裏切り者が出て、大将の勝利三男・周利が刺殺された。

その為、ここの神代勢は瓦解、八戸宗暘も手傷を負って退いた。

信周の勢はこれらを打ち捨て、川を渡り納富が攻める南大門に加勢に加わり、勝利次男・種良の横合いに攻め掛かる。

種良は「一足も退くな! 駆け入りて皆討ち死にせよ! これを破られらば、勝利を得るはより難儀となる、進め、進めぃ!」と叱咤する。

これに家臣・松瀬能登守、馬場四郎左衛門らは佐嘉勢に討ち入り悉く討ち死に、種良も御手洗橋の辺りで組み伏せられ討ち死に、南大門の神代勢も瓦解した。

龍造寺勢はこれも討ち捨て、勝利本陣の後方を取らんとする。

勝利は支え兼ねて八反原の方へ引き退いて行った。

唯一、宮原口の長良のみ健在で、旗本勢と叩き続ける。

これに竹藪を隔てて戦う箇所があったのだが、佐嘉勢の馬渡信喜がこれを見て堀の岸を伝え寄り、藪越しに突き出された槍を6 、7本奪い取った。

更に龍造寺家臣・水町信秀らも奮戦により、長良は遂に討ち負けて山内へ退き始めた。

龍造寺勢はこれに追い縋る。

長良は血塗りの長身の槍を振り回し、敵を振り切るが逃れ難く見え榎木の下にて腹を切らんとする。

が、福島周防守、福島伊賀守、福島弾正忠、福島新三郎、神代兵衛尉、梅野源太左衛門、中島上総介らが長良を逃すべく敵に打ち掛かる。

そして次々と討ち死にし、江原石見守は生け捕りとなった。

その隙に神代備後守は長良に走り寄って自害を押し留めると、藪の茂みに長良を隠すと自らは敵に打ち掛かる。

備後は福地長門の家人三名を討ち取ったが、福地勢に討ち取られた。勝利らは、落人と見て群がり来る野武士らを追い払いながら熊川の城へと戻った。

長良もその夜に熊川へと辿り着く。

隆信は鉄布の無念を晴らせたと大いに喜悦し、勝ち鬨を上げると、下於保村にて生け捕りとした者らを処した上で佐嘉へ帰陣した。

一説に勝利次男・種良は生け捕りとなって処されたとも、江原石見守は処される際に、不意に立ち上がると太刀取りを蹴り倒して、その喉笛を食い千切ったとも謂われる。

隆信は神代領を悉く没収し、山内の処々に代官を置き、空閑光家を山内の抑えにと朽井村へ移した。

一方、神代勝利は長良と話合い、山内から逃れて本意を達すべしと、妻子を伴い大村の波佐美へ逃れて大村純忠を頼った。

純忠はこれを迎え入れ、家臣の朝長純利(後に?大村氏主席家老)を付けて、これを守らせた。

勝利の家臣・中村壱岐守は山内に残っていたのであるが、勝利を帰城させたく思い、16歳の嫡子・外記と共に山内・摩那子山の代官・田中兵庫助の屋敷に忍び入り、兵庫助を斬り殺し屋敷に火を掛けた。

これに近辺の領民が驚き馳せ集まると、中村父子は闇に紛れながら、不意に現れては領民を斬り殺しては隠れ、また現れては斬り殺して隠れ、また声を上げては手を叩くなどした為に、辺りは騒乱に至った。

他の代官らもこれに騒ぎ始める。

中村父子は山内を駆け回り、仲間を募ってこの代官らを追い出した。

これを勝利らに告げると大いに喜び、12月中旬に三瀬城へと帰還した。

100日も掛からず帰還した勝利に、山内の領民らは大いに喜んだ。


またこの年(永禄5年かも)、隆信は小田鎮光、江上武種、犬塚尚重と和睦した。

鎮光には正室の連れ子・於安を嫁がせ婿とし、武種には次男を養子とする約定を交わした。

尚重は元々妹婿である。昨年、隆信の為に本領・蒲田江を去り他国にあったが、和融により戻るに至った。
(但し小田鎮光のみは、永禄2年1月11日に領地に復帰し5,000町を有して隆信へ和を申し出たとの説もある。江上も少弐冬尚自害の前年の起請文の際とも。)




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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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