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渋谷氏_3【祁答院(けどういん)前編】

なかなか義陽に戻れない~( ̄ω ̄A;アセアセ

自分が祁答院(けどういん)を始めて知ったのは、島津四兄弟の三男・歳久公がキッカケでした。
歳久公は官位である左衛門督の唐名である「金吾」殿と、通称されることが多かったのですが、
元亀年間から祁答院を領した事により「祁答院」殿とも呼ばれていたのです。

歳久公・・・祁答院殿・・・・カッコイイ~川* ̄д ̄*川ポッ 
と刷り込まれた萌えバカです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

宗家(=伊作)島津氏が薩摩国を(再)統一するにあたり、障害となったのが渋谷一族でした。
「東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏」のうち、室町中期に没落したのが鶴田氏
渋谷四氏と総称された「東郷氏、祁答院氏、入来院氏、高城氏」のうち、戦国初期に没落したのが高城氏
ちなみに「高城」は「たき」と読みます^^/(←調べるまでシランカッタ人)
高城氏を攻撃したのは薩州家2代目・国久です。
敗れた高城氏は同族の祁答院を頼り、以後、祁答院家老として続きます。

戦国初期の文明14(1482)年、東郷重理(12代)・祁答院重慶(10代)・入来院重豊・菱刈道秀・北原立兼らが島津氏討伐を謀ります。
(※このころの入来院氏は、島津宗家に逆らってた^^;)

で、そのグダグダのまま、文明17(1485)年、渋谷一族VS島津氏の『文明の大合戦』が起きます。
高城氏が島津国久に敗れて滅ぶのは、この時なわけです^^/

領国統治がままならず、悲観絶望し宗家当主・忠昌が自害するのが永正5(1508)年。
入来院氏が島津宗家に帰順するのは、永正7(1510)年に隈之城を与えられた頃くらいかと思います。

で、入来院に書いたように島津勝久・薩州家・伊作家の三つ巴の中で、入来院は娘を嫁がせた伊作サイド。
薩州家・実久に o( ̄Д ̄θ★ケリッ! と追い出された島津勝久は祁答院に逃げ込んだ^^;
勝久なりに何とか復権しようとしたらしいんですが、もはや人心を失ってしまってて無理で、最終的にママン実家である豊後・大友家へと亡命した訳です。

祁答院と東郷は、宗家争奪戦で勝者となった島津貴久・日新斎に帰服せず、抵抗を続けます。
渋谷ファミリアが厄介なのは、大隅の国衆と抵抗タッグを組むことです。(その中に菱刈も入ってる^^)

で、この抵抗タッグに雪窓夫人死去から島津貴久と不協和音になった入来院重朝が参戦。
【渋谷ファミリア】ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!【大隅国衆】

転機となったのが、天文23(1554)年「岩剣城の戦い」で島津貴久が勝利を治めた時。
ちなみに島津四兄弟のうち「義久・義弘・歳久」が初陣デヴュー(*´pq`)
日本戦史上で初めて鉄砲が使われた城として有名です^-^

普通、名門の子弟の初陣となると「必ず勝てるような局面」を御膳立てしてから出馬を促すものなのです。
が、兄弟たちの初陣デヴューは、
祖父である日新斎が「兄弟のうち誰か死なないと落とせない(それくらい激戦になる)」と言わしめるほど過酷なものでした。

弘治3(1557)年には大隅国衆・蒲生氏を破ったことで、大隅国のほうが一先ず何とかゴールが見えてきます。
んが!
それでも薩摩の祁答院と東郷は帰順を拒み、更に抵抗を続けます( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな祁答院氏ですが、実は薩州家と縁戚関係でして不和から「衝撃的な事件」が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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