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相良義陽_48【薩州家・島津義虎の相良エリア・長島侵攻_後編】

≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
イメージ・花
相良義陽の豊福城攻略が、薩州家・島津義虎の長島押領と何処まで連動しているのか、詳らかになる史料はない。
時系列の流れだけで言うと、相良義陽は「制海権のキーとなる天草氏のピンチ」よりも「豊福城攻略」を優先させたことになる。
豊福城は父・晴広が攻略に成功してたのを、義陽の代で失ったので何としても取り戻したかった・・・らしい。
(※義陽の動きを見てると、そうじゃないかな~って印象を受けるんです)

とはいえ天草地方の混乱を黙って見てるだけ・・・というのも不自然。
なので、上津浦氏・大矢野氏(同じ天草国衆)が天草支援に回ったのは、相良氏からの指示じゃないか・・・と言う推論が出てくる。
が、残念ながら天草地方は(も)史料が非常に乏しいので、この間の情勢が判るような書簡などは残っていません(-ω-;)ウーン

永禄8(1565)年、初めに変化が起きたのは【別の局面】でした。
6月6日、阿蘇の家老・甲斐宗運が攻撃してた隈庄城が落城
この攻城戦に援軍していた相良氏の負担が軽減~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
6月13日~名和氏に奪われていた豊福城を遂に攻略成功
名和氏と歴代に亘り、獲ったり獲られたりを繰り返していた豊福城を制したのは相良義陽だ!(=^・ω・^=)v ブイ
人物・相良義陽(もみあげが立派な相良義陽イメージ画像)

さらに、もう一つ・・・・相良氏にとってラッキーな事態急変が起きます。
薩州家で内輪もめ!
同年7月8日、島津義虎が叔父・忠兼を殺す!
義虎の命令で長島を攻略した叔父・忠兼だったんですが、その華やかな軍功を妬む者があり、義虎に讒言したんです。
義虎の方でも、叔父・忠兼の功績が大きすぎちゃって疑心暗鬼になり、讒訴を信じて忠兼を謀殺しました。

それ以来・・・無実で死んだ叔父・忠兼の  ヘ(ー▲ーヘ)(ノー△ー)ノヘ(ー▲ーヘ)(ノー△ー)ノ祟りじゃぁ~~
出水の領内で疫病と飢饉がフルコンポ。
やがて叔父が無実だったのが判明した。
後悔した義虎は叔父の鎮魂のために若宮神社を建立したそうです。

この義虎の叔父・忠兼ですが、鹿児島県史・別巻、諸氏系譜_島津薩州家には記載されていません。
それで血縁関係の方は確認とれていません。
祟りうんぬんは鹿児島神社庁HPに記載されていた若宮神社の由来参照ですが、讒訴の内容とか肝心の詳細は伝承されてないようです^^;

天草地方のグダグダが、もっと長引けば相良にとって大きな打撃になったはずなのだが、
薩州家の領内・人心が落ち着かず、せっかくの戦果を長島以上に拡大することが出来なかった。

とはいえ、薩州家が島津宗家に帰順した以上、それに対する備えを怠ることは出来ないわけで、
相良義陽にとっては神経がイラつくことには違いない。

そんな中で豊福城攻略に成功した義陽は7月21日に球磨・人吉へ凱旋帰還。
長女・虎満も誕生し、父となった。
天草地方が収まり、豊福も攻略成功した事で、義陽の中で気持ちの変化が起きたのだろうか。
かつて謀反し降伏恭順した叔父たちの粛清を始めるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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