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秋月種実13【激突!】謀反ノススメ・弐【侍島の合戦】

1559年(永禄元年)6月、大友義鎮(=宗麟)は、大内氏滅亡以来空席だった筑前と豊前の守護になる

同年11月には室町幕府の軍事出先機関である九州探題に任命
これにより大友家は、北九州を支配する大義名分を手に入れた。
金、地位、名声、名誉、前年には嫡男(義統)誕生。
大友義鎮(宗麟)は、30歳という若さで全てを手に入れた・・・まさにキングオブ九州!

筑紫惟門と秋月種実の謀反は、大友王国が全盛期を迎えた1559年年に起きた。
他の国人が大友の鼻息を窺う中で、かなりのチャレジャーですな( ゚Д゚)y─┛~~

人物・大友宗麟

謀反の狼煙に博多を兵2000で襲い、大友派遣の代官を殺した筑紫勢。
これら一連の軍事行動に対し、秋月が筑紫へ援軍を出したと言われているが、ネット上で詳細データは見つけられませんでした。
が、この後の大友軍の動きを見ると、秋月&筑紫が連携した軍事行動してたのは間違いないでしょう。

大友家が手塩にかけて保護し発展させてきた商都・博多が襲われたと知って、大友義鎮は激怒。
先陣として筑後衆を筑紫に向かわせた。

何度か触れているが、大友家の軍編成では先陣は他姓衆(外様、国人領主)が担う。
先陣は敵と一番先に交戦するので、当然手柄を立てるチャンスなわけで、本来なら買ってでも欲しい役割。

だが大友の場合は、規定路線の先陣なので、手柄を立てても格別な恩賞は期待できない。
サラリーマンが、手当がないのを承知で毎日毎日毎日・・・サービス残業するようなものだ。

先陣は敵と一番先に(以下略)で、当然兵の損耗が非常に激しい。
そのため何度も続けて先陣を務めるのが困難なほどだ。
大友の先陣は、ハイリターン(恩賞)がない、ハイリスクのみの役割となる。
従って先陣となる武将たちのモチベーションには、どうしてもバラつきが・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって筑後衆が選ばれたのは、何といっても「近さ」だろう。
筑前と筑後は、現在の郡県制では福岡県にくくられているように、筑後川を挟んだお向かいさん。
場所にもよるが、女性が徒歩で移動しても、旅程(片道)1~2日ほどなんです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

同年?月、筑後侍島(三潴郡大木町)で筑紫勢と筑後衆が激突!
(あらん、江上・八院の近くじゃないこと( ゚д゚)ンマッ!!)

大友勢・筑後衆
問註所鑑晴・・討死
星野鑑泰・・・・討死
田尻氏一族・・多数討死


大友側は大敗北を喫した・・・・・・・・・・・・

筑紫と秋月は、この勝利に酔う事は許されない。
討ち取ったのは「先陣」です。
このあとには、必ず大友本軍がやって来る!

本軍を率いる大将は、同紋衆(大友の一族、譜代家臣からなるエリート集団)から選抜される。
大友義鎮が選んだのは譜代家臣・田北大和守鑑生(たぎた やまとのかみ あきなり)

役職欄
筑前方分のちに筑後方分

大友義鎮の代で加判衆に任命、一時期は加判衆筆頭

職歴(戦績)欄・・・・それは・またの話 by^-^sio

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秋月種実12【秋月】謀反ノススメ・壱【筑紫】

自分が筑紫氏を知ったのは、実は肥前戦国史ではなく筑前戦国史を調べてて、秋月絡みで知った。
凝り性の自分にしては、珍しく中途半端なリサーチ。

それで余りにも去就がコロコロ変わる筑紫氏を、てっきり強かな国人領主かと・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
尤も、肥前戦国史リサーチに本腰を入れ、改めて筑紫氏を調べたら、更に去就の変化が凄かった^^;
少弐一門の筑紫氏は、一門でありながら何度も大内氏に寝返っている。

それにイラついた少弐命の熱狂家臣・馬場頼周に、筑紫満門が謀殺されたほどだ。
だが筑紫氏の立場に身を置けば、大内に寝返るのは無理もない。
というのも、筑紫エリアは大宰府に近すぎるからです。

筑紫エリアは、ザックリと福岡県筑紫郡~鳥栖市付近あたりで、東に位置する大宰府から直線距離で10~20kmくらいしか離れてません。
さらに不味いことに、大宰府と筑紫エリアの間には、天嶮として自然の盾になるような山河がない(涙目)

大宰府に恙なく少弐氏が治まっている分には無問題。
ところが大宰府を大内に奪われ、大宰府に大内の大軍が駐留するとなると・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

大宰府を追われた少弐氏は、筑紫エリアの頭越しに背振山系・肥前側に拠点を移す。
あれよあれよと、気づけば筑紫エリアはVS大内軍への最前線化!!
少弐をモグラ叩きするため奔流のように押し寄せる大内軍に、筑紫単独で抵抗しきれるものではない。

(筑紫にとって)ムカつくのは、少弐は自分がヤバくなると、とっとと逃げちゃう(OR自害でアボン)
なので、本家としても主君としても、到底アテにする事は出来ない(-ω-怒)
少弐が御家再興する間ず~っと、筑紫氏は大宰府に駐留する大内勢からの圧力を受け続けるんです。
生き残るために筑紫は大内配下となる。
この時点で筑紫氏は半ば、国人領主化してたかもしれない。

大内が滅ぶと、北九州で鼻息荒い大友氏配下となった。
もちろん筑紫の本意ではない。
同じく本意でないが、大内滅亡の流れで大友配下となった秋月氏と意気投合。

1557年、筑紫惟門と秋月文種が毛利元就の支援を受けて、大友に反旗を翻したのだが大敗北^^;
秋月の方は既に紹介したので、筑紫の方だ。

秋月文種は家臣の裏切りにより自害したが、筑紫惟門は嫡男・広門を伴い五箇山城を脱出している。
ピンチにおける逃げっぷりの上手さは、惟門だけでなく嫡男・広門にも受け継がれており、
翻ってみるとピンチになると必ず親子バラバラに逃げて御家再興を計る少弐氏を彷彿とさせる。
(さすが一門,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

で、脱出した筑紫惟門・広門親子は、海を越えて山口は毛利元就の庇護を受けた・・・
と言われていたのだが、近年では「基養父のいずこかに潜んでいた」説が有力らしい。

1559年元旦に秋月が攻撃開始し秋月旧領を回復すると、筑紫惟門も行動開始。
同年、筑紫惟門は兵2000を持って大宰府を急襲し大友派遣の代官を殺したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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秋月種実11【秋月・・・始まりの復活・後編】

元旦から戦って大変だな~と思うが、やはり相手が油断してるって点で奇襲にはもってこい。
乾坤一擲的な、ここ一番って時の踏ん張り時には、正月三が日返上なぅ~(´Д`)ノ

ちなみに九州戦国史で元旦から頑張ったのが、
市ではない北九州からエントリー・神代勝利
南九州からエントリー・島津家の高性能ジーちゃん、島津忠良(日新斎)です~^^/



御家再興決行を秋月家譜には、下記のように記されています。
毛利元就 兵三千ヲ出シテ之ヲ援ケ、下ノ関ヨリ航シ、筑前黒崎ニ屯ス。四方ノ旧臣集リ、兵概ニ備ワル

家譜には毛利より兵3千とありますが、ネット上では他に80貫の軍資金提供も受けたとありました。
前回話した元就が種実に与えた領地(知行?)のことを差してると思います。
秋月種実11歳、これが初陣だったと思います^-^
(本記事人物の生年月日はウィキペディアに準拠してるので、家譜に記載された年齢とは異なります)
筑前黒崎とは、現代の北九州市八幡西区黒崎のことで、いまは大人の歓楽街~川* ̄д ̄*川ポッ

大友から派遣されていた守将は、年賀の伺候のためキング大友の王都・豊後国府内に出向いていました。
秋月勢(毛利援軍含む)は、その留守をついて急襲したんです。

ちなみに秋月の古処山城奪還は、1559年説・1561年説・1567年説とあり、
シオが参照している九州治乱記(北肥戦誌のベース)ですと1567年説です。

ただ1567年説だと秋月が引き起こした「筑前騒乱」とゴチャ混ぜになってるように思います。
で、1559年説か1561年説か、迷ったんですが各種サイトで一番多く採択されている1559年説を採択しました^-^

復帰した秋月は、
筑前の夜須(朝倉郡筑前町東小田あたり)上座・下座・加摩(三カ所特定困難)・穂波(飯塚市)・鞍手(鞍手郡&鞍手町もか?)、
筑後の生葉(うきは市)・竹野(久留米市田主丸町)・三原(特定困難、久留米市か?)・三井(三井郡)、
豊前の田川(田川市)と領し、夜襲を駆使して勝利を収め続けたそうです。

ぐぐ~る地図で辿ると宗像氏エリアの宗像市・宮若市と隣接してるのが判ります。
ちなみに肝心要の古処山城は福岡県朝倉市です(=^・ω・^=)v ブイ 

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

古処山城へ復帰した時に種実は、秋月領内に住む小野姓の者を皆殺しにしたと伝えられています。

秋月が一度滅亡した時に寝返った小野という人物は、立花四天王・小野鎮幸の従兄弟とも言われていました。
で、小野の寝返り方に問題がありまして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

「城への抜け道を教える」とか
「城門の何とか口をコソーリ開けて大友勢を手引きした」などの可愛らしいものではなく、

ガチで種実の父・文種に自害を迫り、強引に切腹させて首を落としたんです。
でもって、ついさっきまでの主の首級を、己の手柄として、ドヤ顔で大友勢に差し出した。

裏切りの誘い・工作した大友勢も、この露骨さにドン引き。
小野の行為を「戦における裏切りによる軍功」とはカウントせず、「武士にあるまじき主殺しの大罪人」とした。

大友勢が裏切り小野を処断しなかったのは、小野鎮幸の従兄弟が史実だったからなのか、はたまた裏切り工作した事への後ろめたさからかもしれません。
とにかく大友勢には、主殺し小野の身柄を引き受ける物好きはいない。
やりすぎて居場所を失った小野は、放浪の末に死亡したそうです。

復活した秋月は、主殺しの小野を探し出して処断しようとしたと思います。
おそらく本人が放浪の果てに死亡した後だったのでしょう。
同姓の者を一族とみなし連座で処刑したと思われます。

小野姓全員だから、親戚でも何でもない無関係で偶々同姓小野さんも交じってたんじゃないでしょうか~~
死んでからも迷惑な裏切り者ですな( ゚Д゚)y─┛~~

秋月家は少年当主を擁して御家再興を果たしたのを見ても、家臣団の結束が固かったようです。
旧臣をまとめた深江美濃守が、よほど出来た人物だったのでしょう。
それだけに「主殺し小野(の一族)処刑」が、秋月復活のデモンストレーションとして利用されたんでしょうね・・・・

さて、御神酒徳利の如く謀反するときは秋月と一緒の筑紫氏。
秋月復活に筑紫も動きはじめたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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秋月種実10【秋月・・・始まりの復活・前篇】

九州戦国史を時系列で辿りつつ記事にする・・・という壮大な企画で進めている当ブログ。
肥前&肥後&筑前戦国史の三本立てで、今回は筑前戦国史における台風の目・秋月種実編を新章にて再開~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ←大蔵系氏族ファン

出典:北肥戦誌、秋月家譜(生年月日が諸説ある場合はウィキペディアに準拠)

秋月種実の父・文種は秋月家譜だと名前が種方となっている。
んで、ウィキペディアだと種実の幼名は黒法師なのだが、秋月家譜だと黒帽子なんです。
実の所、この「不思議の国のアリス」に出て来そうな、一風変わった幼名にDQNネーム?キラキラネーム系?
と、多少戸惑いつつも個人的趣味(爆)で、種実の幼名は「黒帽子」を採択しました(=^・ω・^=)v ブイ



パパ文種は、少弐の一門である筑紫氏と組んで、大友支配から自立しようと謀反して失敗、自害した。
これが1557年のことだ。

大友の秋月討伐に便乗した龍造寺隆信が、寝返って神代勝利(少弐サイド国人)に与した川副衆・鹿江を始末したのが、龍造寺隆信「連」の巻のくだりになります。

秋月は当主・文種と嫡男・春種が死に、本城・古処山城も落城。
家臣はちりぢりバラバラで、これ以上はないっていう没落ぶりで、没落というより一度滅亡したと言えちゃうレベル。
次男の黒帽子(種実)が脱出し、毛利元就の庇護下に入った。
パパ文種には黒帽子に下にも男子がいたが、毛利に預けられたのは黒帽子(種実)だけだったらしい。

僧高韵、ヒソカニ孤ヲ以テ逃レ、周防ニ赴キ、毛利ニ倚ル。
孤ハ即チ種実ナリ。幼名ハ黒帽子トイウ。ソノ周防ニ逃ルルヤ、年僅カ十三。
土豪内田壱岐、力ヲ尽シテ之ヲ奉ジ、タメニ新居ヲ営ム
(出典:秋月家譜)


「孤」というのは一人という意味なので、下の弟たちは違う寺か家臣が預かったかもです。
家譜では年13歳とありますが、ウィキペディアの生年だと9歳で、本記事では9歳説を採択してます。

内田壱岐は黒帽子(種実)が毛利の保護下にある頃からの家臣で、
黒帽子を迎え入れるための居宅を用意したんです。
内田壱岐・内田善兵衛実久は兄弟とされていますが、『本藩実録』では改名した同一人物ではないか?とも言われています。

内田が居宅を用意したのが1558年で、毛利元就の方からは黒帽子(種実)八十貫(800石)の地を与えられました。
まだ元服前(だと思う)ですが、領地(知行?)を拝領したことで、黒帽子(種実)は毛利配下の国人になったと言えます。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

ちなみに1558年2月28日、弘治から永禄に改元
同4月20日島津貴久が蒲生氏を降し、大隅を統一する。
同年に秋月種実の宿敵・大友宗麟に嫡男・義統が誕生する。
あと、相良義陽の婚儀を延期させた彗星が出現したのも、この年だ。

一方、秋月旧領に残った深江美濃守が御家再興のために、旧臣たちと下準備をしていた。
だが、その動きを大友に察知され、やむなく深江は疑いを解くべく自身の息子を人質に出したそうだ。

1559年元旦、秋月が御家再興の幟を揚げたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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秋月種実9【秋月滅亡?!・後篇】

秋月氏の本城・古処山城がある古処山(こしょさん)は現在の福岡県朝倉市にあり、山岳信仰でも知られていて別名が白山。
標高は889M、登山道は整備されてて初心者でも「体力のある方」なら楽しく登山できます。
麓の秋月キャンプ場から約2時間ほどで頂上に着くので日帰り可^^b

だがしかし!舐めては行けない!

古処山は途中から勾配40度という恐ろしい急坂なんです^^;
こんなところに城を良く建てたなぁ~という天険でして( ̄ω ̄A;アセアセ
後年、豊臣秀吉も「ここを攻撃せずに済んで良かった」と音をあげたほどの急坂でした。



1557年(弘治3年)秋月種実の父・秋月文種は、大友氏から離反し毛利元就の傘下に入ろうとした。
それを怒った大友義鎮は、同年5月に毛利元就に抗議の手紙を書いているが、と同時期に出兵命令も出していました。

戸次鑑連、臼杵鑑速、吉岡長増、田北鑑生を始めとした軍勢が府内を発し日田へ着陣。
大友配下の筑後勢も合力せんと、蒲池鑑盛、田尻親種らも出陣。

大友義鎮は秋月文種だけでなく、文種に呼応して加担した筑紫惟門(つくし これかど)も成敗するつもりで、まず古処山城を攻撃させた。
大軍に為すすべもなく、支城にいた種実の兄・春種が戦死してしまう。

古処山城攻撃で活躍したのが戸次鑑連(べっき あきつら)・・・後の雷神、立花道雪だ。
秋月編では判り易いように道雪(どうせつ)の呼び名で統一しますね^-^

道雪の家臣に「江上・八院合戦編」で紹介した小野鎮幸(おのしげゆき)がいます。
その小野の従兄弟で小野九郎衛門という者が秋月家に仕えていました。
小野は親戚コネで接触し、従兄弟を裏切らせることに成功(=^・ω・^=)v ブイ

家紋・大友 大友家紋ロゴ

寝返った小野九郎衛門だが、その裏切り方は「城内に兵を引き入れる」と言った可愛らしいものじゃなかったらしい(汗
同年7月19日(北肥戦誌では13日)、小野九郎衛門は古処山城を落ち延びた秋月文種を追い込んで詰め腹を切らせたんです(´;ω;`)ウッ
種実の母親も共に自害し古処山城は落城しました。

意気揚々&ドヤ顔で、昨日までの主の首級を持参して来た小野九郎衛門に、豊後勢がドン引き。
彼を受け入れる陣営はなかった。
居場所を失くした小野九郎衛門・・・かといって裏切り者となった彼は秋月に留まる事も出来ない。
あてどもなく放浪した末に亡くなったそうです。。。。

同日、豊後勢は筑紫も討たんと山隈原に陣を布き攻撃、岩屋城・若杉城の両城が同日に落ちる。
筑紫惟門は嫡子・広門を伴い五箇山に入った。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

城のあちこちから火の手があがり、周囲の山からも黒煙が見えた事だろう。
父・文種は、自害の前に種実と種実の弟二人を脱出させた。
古処山城は大友軍に接収され、秋月種実は9歳にして帰る城を失い、滅亡の惨めさを知る。

この戦いで没落した秋月家は、史料が散逸し一族の系譜が一部不明になる。
種実の年齢にも諸説があるのだが、本記事では9歳説(天文17産まれ)を採用した。

脱出した種実と弟たちは(弟の年齢も不明)、秋月家臣・深沢が守り毛利家へ預けられた。
深沢は同行せず秋月に残り、種実が再起する日に備え準備することにしたんです。


毛利元就が秋月の遺児を保護したのは、もちろん善意などではない。
北九州を毛利の物とするため「秋月家の御家再興」を利用できると考えたからです。

毛利家の領地、山口で種実は4年間を過ごしました。
この期間中に元就の長男・隆元(30代半ば)と、種実(食べ頃の10代)は「義兄弟(衆道関係)の契り」を交わしたとも言われてますが、シオは史料未確認です^^;

筑紫ですが、昔は「山口に亡命した」とされていましたが、現在では北肥戦誌の記述にあるように五箇山に潜んだ説が有力です。
話としては、広門と種実が幼馴染の方が面白かったのにネー(*´・д・)(・д・`*)ネー


さて、秋月種実「序」の巻は、これにて終了。
肥前・龍造寺隆信編に戻ります。
実は隆信は、秋月滅亡に便乗して行動を起こしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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