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【宇土城降伏】九州関ヶ原8栞44


さて、しばらく登場のなかった加藤清正だが、彼は島津本軍が薩摩に残っている為、その警戒として肥後本国に留まっていた。

同じ東軍の如水とは連携をとっており、如水が豊後へ進軍すると清正も出陣した。

当初は如水のアシストしようと、清正も兵3000を派兵した。

だが1600年9月15日に、如水が大友軍を倒したので(石垣原の戦い)予定変更。

隣国で、西軍で、大っ嫌いな小西行長の本城・宇土城を攻撃することにした。


加藤清正イメージ画像

小西行長は関が原本戦のために本国を離れていて、宇土城には留守番だけ。

とはいえ加藤清正が攻撃してくるかも・・・ってことで精鋭の一部を宇土城に残しての出撃でした。

宇土城の城代は小西行景(こにし ゆきかげ)小西家・三家老の一人にして、小西行長の弟


留守番だけだから楽勝と思いきや、清正は意外に手こずった( ̄ω ̄A;アセアセ

宇土城は現在では埋め立てられて平地になってるけど、当時は湿地帯だったらしく、足場が悪くて攻撃しづらい城だったようだ。

さらに清正対策のために留守番となっただけあって、小西・弟は名将だった。

「正面がダメなら海からだ!」と清正自慢の水軍で攻撃。

小西・弟は同じく水軍を出して、海戦で清正の水軍に勝利する。

小西家の水軍は、もともとは天草国人一揆で改易になった国人衆を吸収したものです。

だから肥後近海は庭みないなもので、さらに「朝鮮の役」の遠征でスキルアップ(=^・ω・^=)v ブイ

小西行長が朝鮮上陸一番乗りに大いに貢献してます。

清正も水軍充実に努力してたと思いますが、やはり小西水軍のほうが練度・経験に「一日の長」があったのでしょう。

宇土城の防御戦でも、小西・弟は敵味方の双方から絶賛を受けるほどの、鮮やかな采配を振るった。

結局、加藤清正は宇土城を武力で落とす事が出来なかったんです


宇土城が降伏したのは、関ヶ原本戦での西軍敗北、そして主君が処刑されたことを知ったからです。

城代の小西行景は「これ以上の抵抗は無意味」として降伏。

彼は城兵の助命を条件に切腹しました。

宇土城の落城は「10月8日」「20日」「23日」と諸説ありました。

ですが2004年になって清正が家臣にあてた文書が発見、解読。

宇土城落城が「10月13日」で、ほぼ確定となったそうです。

宇土城は関が原以降に加藤清正が接収~将来の隠居城として改築~その後、幕府の命令で破却されてます。

そのために「小西時代の宇土城」の構造はハッキリ判りません。

熊本城の宇土櫓も「宇土城からの移築説」は近年は否定されてます。

清正は小西の家臣を多数、再雇用してるけど、なにせ小西家はキリシタン大名として有名で、家中にキリシタンが多数いた^^;;

清正のキリシタン嫌いに閉口し、加藤家を離れた人もいたようです。

さて、これで「九州の関ヶ原」の大勢は決定しました。

後に残るのは西軍残党の掃討戦です。そのクライマックスである「江上表・八院合戦」は書庫を別に改めて語りたいと思います。

ここからは番外編?「如水は果たして天下を狙ってたか」を、シオなりに推理したいと思います^^b


長政と如水が連携してた・・・とシオが推測するのは如水自身の動きもあります。

親子が連携してたのを匂わせる使者の往来があったんですが、その出典が探せない~~毎度の如くド忘れトホホ)

とにかく中津の留守番だった如水が本国をカラにするには、中津のセキュリティが安全であることが前提になるからです。

隣の筑前・小早川秀秋は、公式には西軍所属でした。

にも関わらず如水が中津をカラにして出陣している。

ということは、小早川が西軍を裏切り長政に接触した時に(実際の交渉は家老二人)、それぞれの本国同士も相互不可侵の約定を交わしてるんじゃないかなぁ~

と、想像してるんです。

つまり、如水は関ヶ原前後の長政の行動を把握していた(てか、そもそも如水の指示で長政が動いていた・・・の方が自然かも)

西軍がIF勝っていたら~


三成は頭数をそろえるために、戦後の報酬の約束を大盤振る舞いしてるので、論功行賞で必ず揉めるでしょう。

総大将が外交オンチ毛利輝元・副大将が自家の御家騒動を治められなかった宇喜多秀家・実質盟主が人望のない石田三成ではまとめきれない。

また、後顧の憂いを断つために、三成は必ず徳川250万石の完全解体を要求すると思います。

東軍が負けた場合に、徳川家を無傷で残すはずがない。

「関ヶ原」の後には「関東討伐」が始る・・・・としても、西軍の足並みが揃うか・・・となると、かなり怪しい。

TOPが徳川家康一人の東軍と違い、西軍は船頭が多過ぎる。
(家康の徳川家臣団は、内部に多少の軋轢らしきものがあっても、家康がニラミを利かせてる限りは崩れない)

如水が天下に野心を持ち、九州で集めた兵力で何事かを為そうと思えば、突っ込みどころ満載の西軍を勝利に導く方が、面白い工作が思うままできるはずです。

だが史実の如水は、徹頭徹尾(表向きは)東軍として行動していて、一度もブレたことは無かった。

果たして如水の目的は何だったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

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【如水、うち来る?富来(とみく)城】石垣原の戦い/九州関ヶ原7栞43

前回、臼杵城の太田一吉を中立と書きましたが「違うガチ西軍」と言う方もいます。

太田が甥を東軍(如水軍)に派遣したのではなく、如水の甥が臼杵城へ向かったのを史料読み間違えだ~と、黒田家子孫のHPにありました^^;

さらに太田一吉は細川家の杵築城も攻撃している・・・ともHP(黒田武士の館)は唱えています。

HPには出典元の記載が無いので、シオ検索では確認できませんでした。

いずれにせよ情報が錯綜してるみたいです。

実のところ「中川の旗を田原紹忍が盗んだ」って話も、田原が「佐賀関の戦い(中川VS太田)」で戦死した今となっては死人に口なし。

江戸期を生き残った中川家が、関ヶ原当時を言い訳するために「大名として残らなかった大友家」を都合よく利用した可能性も否定しきれません。

それほど大友家は、各方面(毛利とか伊東とか)に言われ放題だったんです。



如水が攻撃した富来城は、元々は大友家臣・富来氏の城でした。

富来氏は大友氏の鎌倉下向に随行した譜代中の譜代家臣。

ちなみに富来城は大分県国東市の海沿いにあります。

郷土史オタなら国東市・・・と聞くと「大友家分家筆頭・田原氏」を連想することでしょう。

富来氏は、大友家最大勢力だった田原氏を抑えるほどの実力がありました。

その大友内部の微妙なミリタリーバランスが崩れるのが、御多分に漏れず「耳川の戦い」

島津軍に大敗北した戦いで、他の大友家臣同様に富来氏も当主と嫡男が戦死しちゃうんです。
・゜・(PД`q。)・゜・(←実は大友家臣団ファンの管理人)

庶流が残り、富来氏は「朝鮮の役」にも出陣してます。ですがそれも主家の大友家改易でドボン・・・il||li _| ̄|○ il||l

富来氏は僅かな希望をかけて「佐賀関の戦い」に出陣し(田原紹忍と一緒だったらしい)戦死。

ツテが無くなり本当に武家としては没落・・・生き残りは国東の地に姓を替えて土着したらしい・・・と伝承されています。


天才軍師如水・イメージ画像

大友家改易後の富来城城主は、垣見家純(かきみ いえずみ)。

三成の下で「朝鮮の役」で軍目付の任務してたんで、武断派に超嫌われてました^^;

垣見は西軍として関が原に出陣してましたが、本戦には参加せず美濃・大垣城の守備に入っていました。

だから富来城には城代家老の垣見理右衛門(かきみ りえもん~主君の垣見とは同族)が残ってた。

如水は豊後進軍当初から富来城の包囲をしようとしました(海沿いの城を抑えて確実に制海権をゲッツするためと思われる)

でも細川の杵築城の救援要請があり、いったん富来城の囲みを解きました。

で、その時の富来城は抵抗してません。如水軍は大軍だから素通りする分には関わらない~ってことです。

ホッとしたのも束の間、大友軍を倒した如水軍が再び富来城を包囲したんです。

富来城は「富来浦を見下ろす崖の上に立つ要害の城」と言われていた


まともに攻めたら損害が大きくなると、如水は降伏勧告の使者を出した。

城代家老・垣見の返答は「NO!城は主君の命が無い限り明け渡すわけには参らぬ!欲しくば弓矢に訴えるがよろしかろう!~


主君の垣見家純は、石田三成の仲間という事で武断派から嫌われ、無能・凡将と評判が悪かった。
(ウィキペディアにも、ちと情けない逸話が紹介されている)

だが垣見本人の性格は篤実で、家臣にとってはニなき大事な主君。

富来城は、城代家老の垣見を中心に良くまとまっていたらしい。

いかに要害の城とはいえ、城代家老の垣見は天才如水と大軍相手に10日も粘ったんです


一方、彼らの主君・垣見家純は大垣城で「関ヶ原本戦で西軍が敗北」との知らせを受けて、豊後の富来城宛てに手紙を出した。

垣見家純・最期の手紙~西軍が敗れたので、私が守備している大垣城も何時まで保つか判りませんが、私は逃げずに最期まで守って戦います。もはや生きて逢うことないでしょう。お前達の忠勤に対し、これ以上、酬いてやることができません。だから城を東軍に明け渡して生き延びてください。いままで本当にありがとう・・・^-^。。。。


垣見家純の悲痛な手紙は富来城へは届かず、すでに海峡封鎖していた如水の検問にひっかかった。

如水は富来城へ手紙を届けるとともに再び降伏勧告。

1600年10月2日・・・主君からの開城OKの手紙を見て、城代家老垣見が降伏した


如水は、この垣見理右衛門の戦いぶりに惚れ込んだらしい「ワシに仕えぬか?」と誘った。

だが垣見理右衛門は如水の申し出を断ると出家、主君や一族の菩提を静かに弔ったそうだ。

如水が天下に野心があったか、なかったか・・・如水ファンには悩ましいところだが、いずれにせよ富来城で粘られた10日間のロスが大きかった。

10月1日!石田三成・小西行長・安国寺 恵瓊が京都で処刑


関ヶ原のゴタゴタが長引くのを嫌った徳川家康は、首謀者の処断を早々に行っていたんです。

次回、如水と連携していた加藤清正登場です。それは・またの話 by^-^sio

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【後篇・佐賀関の戦い】石垣原の戦い/九州関ヶ原6栞42

ははは・・・ストックしてた記事・・・ここ数回は全書き直しでつ( ̄ω ̄A;アセアセ




中川秀成は自分が ( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<東軍・とうぐん・TOUGUNN~~~

と証明する必要に迫られた。でなければ西軍として逆に討伐されてしまう。

東軍としての忠義アピールに、一番手っ取り早いのは西軍の城を攻撃することです。

相手が中立だろうと構やしません。態度をハッキリさせないほうが悪いんです。
(当時は中立=西軍とみなされていた)

戦国生き残り椅子取りゲームは早い者勝ち~~^^b

中川秀成が攻撃目標として目をつけた、臼杵城の太田一吉は中立でした。

太田は自分の甥を東軍に、息子を西軍にと出陣させ、自分は病として臼杵城に引っ込んだ。

関ヶ原本戦が「東軍の勝ち」となったのは勿論知ってます。

だから太田も生き残るために「東軍であること」をアピールしなきゃならないはずでした。

ところが・・・

太田:よく来たな若造!元、織田家重臣・丹羽長秀の家臣にして 亡き太閤殿下・馬廻衆だったワシの武勇を見せてやる!!ワ~~ハハハハ!!


てな感じでヤル気満々( ̄ω ̄A;アセアセ

太田は、自分の子供くらいの年齢の中川に対し、降伏開城するのが何としてもイヤだったんです


御家の存亡がかかってる時に意地張ってる場合じゃないはずなんだが、この手の「武士の一分」は戦国武将によくあって、周囲もそれを容認する空気がありました。


実は太田一吉の妻は蜂須賀正勝の娘。

関ヶ原直前に黒田長政が離婚した、元奥方の姉君です。

太田が秀吉の馬廻衆時代だった頃は、縁戚ってこともあり隠居前の如水の下で働き、弟みたいに可愛がってもらった。

その後、太田は才覚を石田三成に見出され、大名として引き立てられたんです。

石田と如水・・・どっちにも恩義がある太田は、西軍か東軍か選べず中立してた。

とはいえ西軍が本戦で負けたら、いつまでも石田に義理立てする必要はない。

若造・中川に降伏するのはイヤだけど、如水が来たら降伏しようと決意し、家臣にも通達していた。

だが、肝心の如水がなかなか来ない~~~~( ̄ω ̄A;アセアセ

如水は富来城で足止め食ってましたil||li _| ̄|○ il||l


如水のほうは、あとで話しますね。

ところで中川に迷惑かけた田原紹忍(田原が中川の旗印を盗んだせいで中川は西軍と疑われた)

この男、大友軍が「石垣原の戦い」で負けると、ノコノコ中川家に舞い戻った。

どういう神経してるんだか・・・戦死した吉弘の爪垢を呑ませたいぉ o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

諦めが悪いって点では、戦国武将らしいとも言えるのか?・・・( ̄ω ̄)ウ~ム

中川が呆れたかどうか判らないが、とにかく田原の帰参条件として「臼杵城攻撃に参加する」を提示した。

1600年10月3日~太田・中川の両軍は佐賀関で激突


とにかくハッスルした太田軍の強さは半端なかった。

後年は石田三成が取り立てた官僚系家臣だったが、元太閤殿下馬廻衆(親衛隊)の武勇はガチ。

中川側は家老中川平右衛門、田原紹忍(自身の戦死で帰参の希望は潰えた)、柴山重祐(重成の養父)ら230人あまりが戦死し、負傷者も200人以上を出す大敗北。

だが中川秀成は、多大な犠牲を払ったことで家康に(やっと)信用されて、領地安堵することが出来た。

10月4日~~~中川に勝ってスッキリした太田が如水へ降伏の使者を出す^^;

太田を討たなかったのは如水の配慮だったらしい。晩年の太田は京都で隠棲してます。

さて大友軍を「石垣原の戦い」倒した如水ですが、思うように進軍できませんでした。それは・またの話 by^-^sio

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【前篇・佐賀関の戦い】石垣原の戦い/九州関ヶ原5栞41

関ヶ原本戦が、わずか一日で決着したせいで、日本全国の方が困った。

特に困るのが西軍・東軍のドッチにも「いい顔(家臣や息子を派遣)」して、そのくせ自分は中立だった人たちだ。

一刻も早く旗幟鮮明にしなければ、「西軍認定」で東軍から袋叩きにあう(゚ロ゚屮)屮

「九州関ヶ原/石垣原の戦い」の余波・・・「佐賀関の戦い」は、そうして起きた。

東軍で登場するのが中川秀成(なかがわ ひでしげ)、中川清秀の次男です。

兄が「朝鮮の役」で戦死したので家督を継いだ。

が、兄の戦死は華々しいものではなく、朝鮮側に待ち伏せされて不意打ちで死ぬという【士道不覚悟=カッコ悪い】死に方だった。

そのため中川家は危うく改易になるところを、故中川清秀の功績を鑑み、と次男の秀成に領地半分の相続が認められた。

しかも、そのあとで中川家は豊後岡城に飛ばされる。

・・・・・どうも、このあたり意図的な気がしないでもない。

秀吉は、これ幸いと旧織田系家臣を中央から遠ざけたかもです。

意図的といえば、秀吉の選んだ秀成の妻は、ななななんと佐久間盛政の次女・虎姫。

佐久間盛政は柴田勝家の甥で「賤ヶ岳の戦い」で、秀成の父・清秀を討った男です。

親の仇の娘を妻にする・・・島津(親の仇)を助けた立花宗茂よりハードル高いっす( ̄ω ̄A;アセアセ

秀成は「戦に勝敗はつきもの、親は親・娘は娘」と虎姫を受け入れ、夫婦仲は睦まじかった。

だが、姑(虎姫の父に夫を殺された未亡人)は虎姫に心を開くことが出来ず、家臣団も亡き主の仇の娘に反発が強かった。

嫁姑和解説もあるが、とにかく中川家臣団にも遠慮した虎姫は、生涯領地に行くことは無く、姑とも同居しなかったそうだ。

太閤殿下・・・仇同士を娶せるなんて悪趣味~実は故中川清秀への嫌がらせですか?www

ちなみに佐久間家は虎姫の遺言(生前から強く願ってた)で、息子の一人が継いで御家再興を果たす。

佐久間家の菩提寺も建立されて、中川家客分の家として存続し、子孫は現在も大分県にお住まいです^-^




さて、肝心の関ヶ原ですが中川秀成は豊後在国で様子見~保険として西軍に家臣を派遣してた。

どこでもやってることなんで、とやかく言われる筋合いじゃない。

が、家臣の派兵先がチト不味いとこでした^^

中川が家臣を派兵したのは、細川幽斎が籠城する田辺城攻撃陣だったんです~


不味いというのは、戦後処理で一悶着したから^^;

この時期の細川忠興は、愛妻ガラシャを失って、いつも以上に普通じゃなく、各方面(身内含む)に八当たりしてました。

細川忠興は父には「開城だなんて、みっともない!ざけんな!城を枕に討死しろよ!」と怒ってた。

かと思えば「オヤジを攻撃した諸将は全コロス!」と息巻き、周囲が忠興を宥めるのにメチャクチャ苦労したらしい。

結局、忠興は取次だった井伊直政の面目をブッ潰し、田辺城攻撃の総大将を自害に追い詰めてます。(他の諸将は幽斎の和歌の弟子だったりと、人脈フル活用で何とか助かった)

「ガラシャの死」は東軍諸将に戦への覚悟を決めさせたものなので、徳川家康も細川忠興の暴走が止められなかったようです^^;

中川が関ヶ原本戦の結果を知って慌てて「ワシは東軍です!」って取り繕うとしたんだけど、忠興が騒ぐから徳川家康の機嫌が中々直らなかった( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに中川にとって不幸が重なった。

中川家の客将に田原紹忍(たばら じょうにん)という人物がいました。

元大友家家臣・・・というだけでなく大友家の分家・武蔵田原家の当主です。

大友家が豊臣秀吉に改易されると、田原紹忍は中川家に身を寄せたんです。

岡城自体が、そもそも大友家家臣志賀家の城でして、新たに任地に赴く中川秀成としては旧大友家臣の持つ情報が欲しかったのでしょう。

その田原紹忍・・・能力的にはアレなんですが、旧主・大友氏への忠義はあった。

大友義統が西軍として挙兵すると、田原紹忍も中川家を飛び出し馳せ参じた。

ここまでは「いい話」・・・・ここから中川家にとって「悪い話」になる。

田原紹忍は、中川家を出る時に、世話になった中川家の旗印を盗んだんです

中川家「ギャァァ!旗ドロボーー!

母里(黒田家老)松井(細川家老)有吉(同家臣)「やや、あれなるは中川家の旗・・・中川も西軍に加担したか~大殿(如水)へ報告だ~

大友義統「さすが叔父上(田原紹忍)グッジョブ♪~


ったく、田原紹忍ってセコイとこに智慧が回るというか、ろくなことしない男ですな( ゚Д゚)y─┛~~
武家が旗を盗まれただなんて ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー 言い訳にしても酷すぎる。

てことで、黒田如水も中川家が西軍だと思い、加藤清正に中川攻撃を命じる。

中川「ひーーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~~~~」

彼は加藤清正に人質を差出し、必死に言い訳・・・もとい弁明。

清正も完全に信じたわけじゃないが「先に(大嫌いな小西行長の)宇土城を攻略する」と、ひとまず中川攻撃を保留にした。

如水は違う城を攻撃中~清正は宇土城に張り付いてる・・・中川は今のうちに身の潔白?を証明する必要に迫られた。

てことで、中川は中立を決め込んでた太田一吉の臼杵城を攻撃したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【嗚呼、よしな川悲話】石垣原の戦い/九州関ヶ原4栞40

「石垣原(いしがきばる)の戦い」は、九州における「関が原の戦い本戦」に匹敵する。

これは単に東軍が西軍に勝ったというだけではなく、九州における豊臣政権の支配力が大きく衰退することを意味するからだ。

そして天才軍師・黒田如水は、東軍が勝ったら後に豊臣政権がどうなるか解った上で行動しているとシオは推測してます。

西軍・大友義統に攻撃を受けた杵築城(細川家の飛び地)。

城を守る松井康之(筆頭家老)と有吉立行は、東軍の如水へ援軍を要請。

如水は混成軍から母里以下3000を派兵した。

援軍到着の知らせに大友義統は杵築城の囲みを解いて、西南24k先にある立石城に入った。

松井・有吉・母里らの軍議の結果、如水本軍を待たずに攻撃し石垣原を押さえよう!という事になった。

東軍~母里率いる黒田軍3000名!有吉率いる細川軍200名!他の援軍200名の計3400!

西軍~豊後の元大名・大友義統の大友軍2000名(900という説あり

1600年9月13日、石垣原の制圧を巡って両軍が激突した!!


前回も話したが、石垣原(いしがきばる)という土地は、日露戦争における旅順・203高地か天王山のような場所。

そこを「制圧した方が勝つ」という戦略的要地でした。

当然、どちらも譲らず激しい戦いになりました。

地元有利で大友軍は激しく抵抗し、数では有利とはいえ寄せ集めの東軍(黒田軍自体が寄せ集めな上にに更に他家との連合軍)

そのため「一気に大友を踏み潰す」ということが出来ず、2陣・3陣と兵力を投入しなければならないほどの激戦でした。


黒田家紋

大友軍の方は兵力を二つに分け、右軍・左軍と軍を展開していた。

その将の一人に吉弘統幸(よしひろ むねゆき)という勇将がいました。

吉弘(名前っぽいけど名字)は、主君・大友が秀吉によって領地没収されると、一族を養うため 大友の元家臣で一大名として独立してた立花宗茂(たちばな むねしげ)に仕えていました。

(立花宗茂と吉弘は従兄弟の間柄^^)

旧主・大友が西軍として行動しようとしている情報を、地元コネでキャッチした吉弘。

彼は涙ながらに旧主を諫め、必死で止めたんです オネガイ( ̄人 ̄;)ヤメテ~~

でも御家再興のニンジンに目がくらんだ大友の決意を変えることが出来ませんでした。

(毛利輝元に幼い3男を人質にとられていた、という裏事情もありました)

吉弘は「この上は旧主と共に行動するしかない」と立花に別れを告げて、大友軍に身を投じたのです。

石垣原の決戦の日、吉弘は「もはや大友に勝ち目はない」と死を決意しました。

大友に兵の余力はありません。いまが手一杯の一張羅なんです。

だから例え目の前の黒田軍3000+他400を撃破できたとしても、その後に押し寄せる如水本軍に勝てる見込みが無い。

「同じ死ぬのなら、せめて石垣原で死に花を咲かせよう」と思い至った。

吉弘は大将で旧主である大友に、累代仕えたことの礼と永遠の暇乞いをし別れを告げました。

そして一手を率いる将でありながら、わずか20~30騎の供で最前線に出てしまいます!

ベテランの猛将・母里と有吉は、この絶好のチャンスを見逃さない!!

激しい戦闘の末、黒田二十四騎の一人・井上が躍り出て、ついに吉弘を討ち取った!!

指揮官の一人である吉弘を失った大友軍は動揺し、大きく崩れ敗北!立石城に逃げ込んだ!

大友義統:もぉダメよ!終った!切腹よ!それしかないわぁぁ!!


大騒ぎする大友義統を残った家臣が必死で宥め、抱きかかえるように麓の寺へ連れて行き出家させた。( ̄ω ̄A;アセアセ

実は黒田軍の将・母里の妻は大友義統の妹だったので、縁戚コネにスガって降伏することにしたんです。

大友の降伏を母里と如水は受け入れました。

大友義統は、如水の助命運動が効いて死罪だけは免れた。

さらに意外にシッカリ者だった大友~事前に長男を徳川家に人質に出していた「保険」が成功。

息子の代で高家(こうけ・武家典礼を司る家)として家名存続が出来ました(=^・ω・^=)v ブイ


金宗院跡にある吉弘の墓

戦死した吉弘統幸の首は罪人として石垣原で晒されていました。

吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は不憫に思い、首を取りに石垣原まで行きました。(こっそり盗んだらしい)

帰り道に風呂敷から血がしたたり落ちるので、首を取り出し川で首を洗っていると、死んでる統幸の首が目を開き言いました。

「ああ 和尚よしな(吉名:やめなさい)」

「ぅひゃぁ!(゚ロ゚屮)屮」住職は驚き、寺に帰り手厚く供養をしました。

以来都甲川の事を「よしな川」と呼ぶようになりました。

地元に残る民話で、写真と話の提供はブログ友の東高家男様です^-^
http://blogs.yahoo.co.jp/muneshigetatibana

大友が旧臣を集めてると知った時に、如水は「東軍にしなさい」って忠告してたんですけどね・・・

東軍になっていれば2~3万石の小大名でも残れたかもです。

まぁ結果として高家で家名は残せたのだから、吉弘は全くの無駄死にでは無いでしょう。


とにかく、西か東か迷ってた九州の大名たちも、この戦いの結果を見て大きく東軍に傾き、如水軍による豊後平定の動きが加速していきました。

1600年9月15日~大友が黒田軍に降伏したこの日~関が原本戦で西軍が敗北したことを、如水は未だ知らない・・・

それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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