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【咎人の勝者~龍造寺VS有馬9】龍造寺隆信「展」の巻9

鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。
これに、敵が良い敵と見定めて左右から信昌を討たんとするが、小河大炊助、百武志摩守、副島右近允が馳せ付けて信昌を救った。


けっつまづいて転んだ殿は、味方の応援で何とかピンチ脱出です( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺勢は退却に難儀し、鴨打左馬大夫、副島式部少輔、野辺田左衛門尉の3人は軍勢の中程から返して、追い縋る敵を追い散らす。
このとき殿軍は龍造寺鑑兼・納富但馬守であったが、信昌もこれに加わり敵をどうにか諦めさせた。


だが、近辺の野伏らが落人狩りを目論見、小田に陣を布き、龍造寺勢を待ち構えた。
龍造寺勢はこれを風聞に聞き「今日(1562年7月28日)は日暮れなれば明日に通るべし、或いは別の道を通るべし」と述べるが、
信昌は「野伏如き何程の事も御座いませぬ(`・ω・´)キリッ 只今より私一人で駆け散らして通りますものを」。
と述べると、隆信は尤もと頷き、鍋島が真前に立ち小田村を真一文字に駆け抜ける。
その威に呑まれ、野伏は悉く山中へと退いた。
龍造寺勢は無事に佐嘉へと帰還を果たす。


人物・鍋島直茂 鍋島直茂イメージ画像
殿~大活躍です~(人´∀`).☆.。.:*・

《別説》
隆信は横辺田へ退却した後、後藤貴明と語らい平井との再戦を企図するも、
「大友騎下の者共が隆信の留守を伺っているため、まず帰城あるべし」との佐嘉からの注進を聞き、
梶峰城へ弟・長信を置いて、佐嘉へ帰還したとも云われる。
また、この戦いは永禄6年(1563年)との説もある。


有馬VS龍造寺・・・隆信は有馬勢に勝利し、多久をゲットしたものの、須古城攻略には失敗し佐嘉へと撤退した。
で、ここで「有馬VS龍造寺1」を思い出して欲しい。
有馬が出陣したのは、そもそも大友義鎮から「少弐氏再興の相談」を受けたからです。

少弐再興において「最大の障害」は、龍造寺隆信であることは言うまでもない。
「龍造寺討伐」とまで言われてた訳じゃないが、有馬にすれば少弐再興を大義名分に六角川を越えて小城&佐嘉へ侵攻する絶好のチャンスでした。
有馬最盛期当主・晴純は1552年に義貞へ家督を譲り悠々自適だったのだが、1562年(or1563年)龍造寺に敗れた事により徐々に勢力が衰えはじめる。

少弐冬尚を亡ぼすまで、隆信の主な活動範囲は東肥前(小城・佐嘉・神埼)でした。
ですが肥前守護職である大友義鎮が、調停機関として「少弐再興」に動き始めたことで、東と西の肥前国衆の運命が大きく交差し始める。

肥前守護職にして九州探題・・・キングオブ九州・大友義鎮が望む「当事者間の話し合いによる調停」は、龍造寺が従わない為に常に不首尾に終わる。
だが大友義鎮という上位権力が存在する限り「堺目静謐(領土・国境問題)」を侵す咎人は龍造寺隆信の方なのだ。

主君を亡ぼすという「下克上ハードル」を超えた龍造寺の前に立ちはだかるキング・大友。
大友が望む調停では、龍造寺が失うものが多過ぎて到底従う事はできない。
隆信の戦いは、新たなステージへと展開するのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【須古城攻略・1回目~龍造寺VS有馬8】龍造寺隆信「展」の巻8

まず須古城攻略は、白石町史と大町町史とでは記録に違いがあります。
白石町史だと攻略数4回、大町町史だと3回。

何度も書いてますが杵島郡大町は、かつて横辺田と呼ばれ1563年まで有馬領でした。
須古城があったのは杵島郡白石町なので、須古城攻略に関しては北肥戦誌と白石町史ベースで進めたいと思います^-^

で、1回目須古城攻略は、この「有馬VS龍造寺」の激突の一環として行われてます。
ちなみに白石町史(&大町町史)では1563年になっており、有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、この辺りから来てるかと推察してます。

さて、前回から続く・・・




7月28日、龍造寺勢は前田家定、井元上野介を案内者に、納富信景を先陣として2000騎をもって、高岳城主・平井経治を攻めるべく福母の南大橋口へ押し寄せる。

えっと・・・ます須古城ですが、位置データは佐賀県杵島郡白石町大字堤(須古小学校)。
江戸期の干拓で戦国期とは海岸線が大きく異なります。
まず戦国時代は牛津川と六角川は合流しておらず、河口が別々。
二つの河川合流地にある河川港・住ノ江は、江戸期開港で戦国期は完全に海の底です。

で、そこから干拓の歴史・地名などから類推すると、長崎本線か国道207号線あたりが戦国当時の白石町における海岸線。(土地名に堤とついてるのは全て江戸期以降の干拓によって新たに造成された部分)
従って戦国時代の須古城は、海から2km前後くらいしか離れてませんでした。

更に須古城には2つの支城がありました。
須古城の西へ500mほどの所に、杵島城。
同じく東へ800mほどの所に、男島城。
この3つの城が連携し、軍事的に機能してました。

ちなみに須古城は別名・高城~♪ヽ(*´∀`)ノ
北肥戦誌にある高岳城って、須古城のことなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

人物・今度こそ平井経治
(龍造寺勢を何度も撃退してるのに、ゲーム内評価だと全数値オール55と低い須古城主・平井経治)

平井経治は当代無双の勇将で、佐嘉勢来襲を聞き出陣、
一族の川津経忠、平井刑部大輔を始め、本田純秀、本田純親、白石純通、湯河・川崎・永池・村田らが大橋口にて出向き、互いに弓・鉄砲を打ち掛ける。


やがて両陣太刀打ちとなって干戈交えるが、龍造寺勢が打ち負けて引き退いた。
平井勢は勝ちに乗り追い縋る。


鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。

Σ(´Д`;)はぅっ!殿のピンチ~~
須古城って丘陵に築城された平城ですが、実は地味に攻めづらい城なんです。
というのも、六角川流域の土壌は別名・ドタ土と呼ばれる泥土でして、平成現代でも宅地には不向き。
でもって六角川も半端なく蛇行してるので、満干潮で発生する河川逆流現象による周辺の浸水は平常運転。

須古城が六角川~有明海・防衛ラインの城でありながら、海岸(戦国当時)と六角川から一定の距離を置いて築城されてるのは、それら地理的要因がある為です。
須古城は、その地理的要因を巧みに利用して築城された要害の城です。
城の搦手周囲にある百町牟田と呼ばれた土地は、ものすごい湿地帯で踏み入れば膝まで没し、普通に歩く事すらままならい土地でした。

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 兜首~~~~~~!!!
転んだ殿を平井勢が狙う!それは・またの話 by^-^sio

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【進入!有馬エリア~龍造寺VS有馬7】龍造寺隆信「展」の巻7

鍋島信昌(後の直茂)は堤尾山に備えを固めて陣を布いた。
えっと・・・さがのお宝文化帳HPによると、江北町佐留志にあった山らしい。
どうも土地開発で削られちゃったらしく、堤尾山らしい山が探せなかった^^;

更に隆信は返す刀で、急ぎ長尾口を塞ぎに掛かる。
これは、逃げ帰って来る大村・多久勢を逃走させない為である。


逃げ場を塞がれた敵(有馬)勢は、山林へと散り散り逃げ惑って行った。
その中に居た案内者・長尾村の倉富米満、波佐間村の田中掃部助は留まって討ち死にした。


多久は有馬エリアだったので、地元の豪族は道案内として出陣してたんですね。
長尾村は町村合併で多久市多久町南多久町に編入されてます。
波佐間は×間違い
羽佐間が○正解~こっちも町村合併で東多久町大字別府羽佐間に編入。

ちなみに1562年の北肥戦誌で別府と出てたら、大分県の別府じゃなくて多久市東多久町の別府な件^^/
同じ肥前国内だからなのか、町村クラスだと他地域と名称が被ってる地域が意外と多いのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

隆信は多久城へ入り兵馬を休める。
有馬の敗残兵は杵島の横辺田へ退却、楠久津に籠って、須古の平井経治と塚崎・武雄の後藤貴明へ加勢を請うた。


くどいようだが、杵島郡は有馬エリア。
横辺田はガチ有馬領で、地元の百姓は1563年まで有馬へ租税を納めていた。

隆信が多久の城を落として以後、龍造寺家に降参する者が相次ぐ。
一方、梶峰城を失った多久宗利は直に須古へ出向いて、平井経治を頼った。


7月26日、隆信は後藤貴明へ使いを出し、
「これより多久より横辺田へ陣を移し、有馬の残党を残らず討ち果たす心算である。
このとき我らと敵対しないで頂きたい。
もしまた有馬へ加勢されるならば、御辺と一戦に及ぶのみである(`・ω・´)キリッ」

と申し送る。
隆信はその返答を待たず杵島へ陣替えした。
貴明はいまだ返答をしなかった。


後藤貴明「・・・・・・・・(ノーコメント)」
これは、もう返答のしようもなかっただろう( ̄ω ̄A;アセアセ
有馬からは援軍要請、龍造寺からは脅しかけられ・・・

てか、そもそも後藤貴明からすれば、有馬に恨みはあっても援軍する謂れがない。
でもでも龍造寺が~~~~~~~

「有馬VS龍造寺」・・・それは、後藤貴明の人生後半における苦衷・苦悩が始まった年だった・・・
いっそのこと強い方・勝った方に、さっさと鞍替えできる程度の小勢力なら悩まずにすみます。
塚崎・武雄の後藤クラスとなると、大物のどっちからもアテにされたり狙われたりで、進退が凄い難しい(-ω-;)ウーン

然る処に隆信の後方より有馬・大村の残兵が、鬨を上げて切り掛かった。
隆信は元来より機微万化の大将であり、これにも全く動じず、先備を即座に後方へ繰り出して有馬勢に対した。
敵は所詮敗残兵であり、再び打ち負けて敗走した。


いつも思うんですが、隆信は「ヽ(。_゜)ノ へっ?」とか「はぅっ!( Д )  ゚  ゚」てな感じの顔文字とは無縁。
とにかく、どんな事態でもビックリとか驚愕とか、動揺するって事が殆どないです。
たぶん、きっと、、、少弐の裏切りで父や一族が討たれた時に、一生分のビックリの感情を出し切ってしまったのでしょう・・・ (゜-Å) ホロリ

隆信が北方という場所へ陣を移す。

あ~馬渡エリアの北方町っすね(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
ちょっと不思議に感じてる事なんですが・・・・
この有馬VS龍造寺で白石町の須古城・平井経治が出陣してるのに、同じ有馬サイドで北方町の馬渡氏(本家)が北肥戦誌に出て来てないんです。
馬渡氏の庶流は龍造寺配下でして、有馬に計略しかけて初戦における龍造寺勢勝利に貢献してます。
これに絡んで何かあったのか・・・単純に後詰だったのか・・・北肥戦誌だけでは馬渡本家の動きは判りません。

後藤貴明は猪熊半助を使者に、隆信勝利の祝儀を述べさせると、隆信は北方の陣を払い横辺田へ引き、福母山に陣を布いた。

どうやら隆信が北方町に陣を布いたのは、ノーコメント後藤への脅しだったみたいですね。
北方町も塚崎も同じ武雄市内だから、後藤の本貫地の目と鼻の先まで隆信は陣を進めてたんです。
これ以上は知らんぷりは出来ない~~と、後藤貴明が使者に祝儀の口上を述べさせ、龍造寺に敵対するつもりがないのをアピールすると、それに満足して龍造寺は即移動。

隆信が次に移動した福母は、北方よりも横辺田(杵島郡大町=当時、有馬領)に近いです。
有馬エリア内を転々と移動する龍造寺隆信。

山内の神代勝利公との戦いの時といい、沖田畷の時といい、敵エリアにガンガン入る「肥前の熊」さんなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【反撃の有馬~龍造寺VS有馬6】龍造寺隆信「展」の巻6

1562年(1563年説有り)3月から対陣。
6月に龍造寺配下・馬渡信光の計略にハメられ、初戦で有馬が敗退。
旗色を見た国衆が、龍造寺へと靡き始める。
このまま引き下がる有馬じゃないよ~~イザ!龍造寺へ反撃だ(=^・ω・^=)v ブイ

7月25日、有馬勢が、由利岳から小城を捕るべく丹坂(へと攻め入った。

由利岳~場所特定不可・両子(ふたご)山の北側辺りらしい
丹坂~~小城市小城町栗原(土地開発前は峠でした)

これに今川の持永盛秀、持永長門守、持永清兵衛、栗原甚助、大曲彦三郎、岡の大塚盛家、板屋九郎太郎、
平井の粟飯原宮内少輔、粟飯原新七郎、鳥巣大蔵允、
西郷の空閑刑部左衛門、江頭主計允、津野の橋本兵部少輔、橋本左近允、橋本右近允 他、近辺の豪族らが集まり、
江頭筑後守を先陣にして丹坂口を守る為、東西の郷へ陣を布く。


細かくですいません~~全員、龍造寺サイドの国衆です( ̄ω ̄A;アセアセ

また、丹坂の北・姫御前塚を峯村の千葉家旧臣・峯 吉家、その弟・峯民部少輔、峯甚左衛門、峯次郎兵衛ら主従83人で固め、西の谷を越えて右原境に陣を布いた。


姫御前塚の姫御前とは、阿蘇惟直の妻の事です^-^
夫である阿蘇惟直は南北朝の争乱で足利尊氏に従ってたのが敗れて自害しました。(詳細略)
で、奥方の姫御前は夫の慰霊のために阿蘇から小城までやって来たところ、追手の千葉氏に探索され自害したそうです。
(民話伝承だから細かい政治情勢とは差異があるかも^^;)

姫御前を世話していたのが峯一族で、自害した姫の亡きがらを瓢塚に祀ったそうです。
峯(峰)部落では現在でも桜の咲くころにおにぎりや小豆を供え、「姫御前さん祭り」をしているそうな。

姫御前の髪は黒く美しかったといわれていた。
「瓢塚の水滴を髪につけると髪が黒くなる」と言い伝えられ、若い娘や婦人たちは競って水滴をつけるという風習もあった。

また、姫御前は瓢塚の中でお産をされたとも言い、峰部落に行く谷の所を「赤子谷」という。
そのへんでは赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるとも伝えている。
(出典:小城町の民話)

峯村そのものは、丹坂と同じく小城市小城町栗原の一部だったらしい(町村合併で正確な位置特定不可)。
峯一族は有馬勢と龍造寺勢が激突した丹坂のガチ御当地豪族です^^/

有馬勢の一手がこれに対する。
峯一族はこれを防ぐべく奮戦するも、大将の峯吉家は7ヶ所の傷を被り引き退く。
だが、これを見て逆に奮闘、峯甚左衛門は無双の剛の者で、石の狭間から矢を射掛け、有馬勢23人を射殺した。
有馬勢は疲労夥しくなり引き退いた。


おお~姫御前を祀った純朴な峯一族が、有馬勢を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと撃退です^^

丹坂口では乱戦となり、有馬勢が競り勝ち西郷まで攻め入るが、佐嘉勢と小城勢に打ち負けて潰走していった。
佐嘉・小城勢は余勢を駆って、丹坂峠を越えて右原へと有馬勢を追い詰める。
有馬勢は慌てて川に飛び込み、次々と溺死していった。


右原・・・川の側~~|ぐ~ぐるMAP|_ ̄)じぃー
小城市小城町池上に上右原と下右原があります。どっちの右原かまでは特定不可。
で、この位置関係だと有馬勢が飛び込んだ川とは牛津川です。
牛津川を越えさえすれば、そこは多久・・・有馬エリアでした・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

有馬勢は、安徳直治の勢から安徳直徳、安徳彌左衛門、安徳日向守、安徳兵部左衛門、安徳八郎次郎、安徳太郎左衛門、大窪金右衛門、長野土佐守、長野四郎左衛門、長野三郎左衛門、大塚次郎兵衛、菅太郎兵衛、河口忠兵衛、小瀬八郎左衛門、池副孫三郎ら18名、安富但馬守勢から数十人など、有馬勢から沢山の討ち死にが出た。

「名のある武将+牛津川を越えて有馬エリアに逃げ込もうとした溺死者」ですから、有馬勢から100名単位の戦死者が出たと思います。

隆信は時を置かず、同日の7月25日に多久宗利の下多久の梶峰城を攻める。
このとき宗利は丹坂へ出陣中で留守であり、城はあっさりと落ちた。


六角川防衛ラインを突破する為の重要拠点・・・多久が龍造寺の手に落ちた・・・!
隆信は更に有馬エリアへと食い込んで行くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【布陣その2~龍造寺VS有馬5】龍造寺隆信「展」の巻5

中でも田代は上松浦の居館を立退いて、佐嘉領である小城の内納所村に移住している。

田代って上松浦党だったん?
山代の誤記かと思ったが、そうでもないらしい・・・|ぐーぐる|_ ̄)じぃー
みっけ!松浦市御厨町田代・・・ここだ!

で、ここを引き払って納所村に腰を据えたんだ・・・凄いなぁ。
本貫地を離れるなんて当時じゃ大変な事だったろうに・・・
有馬と龍造寺の激突の余波が、それだけ大きかったって事ですね。。。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
北肥戦誌では小城の内ってなってますが、現代の納所村は町村合併で多久市東多久町に入ってます。

その引き払いの際に波多勢と戦い、嫡子・左京亮、田代主殿助、田代彌三郎、田代源五左衛門、田代新左衛門、田代藤次兵衛らが討ち死に、次男・越後守が負傷している。

(´Д`;)うわぁ・・・かなり一族が討たれてるな・・・
「移住している」って記述してるから、生きて無事に龍造寺エリアに入った者がいたんだろうけど。。。

更に、前田家定の手引きで、杵島郡・横辺田の郷士である土井・井元・田中らも龍造寺家に従った。

へ~~~松浦家世伝(うち本伝・道可公伝)にある「百姓おとなの龍造寺への寝返り」って、このことかな?
(ただし道可公伝では永禄6年(1563年)の事になってます)
って、佐留志の前田が手引きしたんかぃ!

一方、馬渡に謀られた有馬勢は大いに立腹し、
7月2日に島原弥助を大将に、安富貞直と安徳直治の家臣、高来・杵島の軍勢が、須古の平井経治の勢と共に砥川村へ攻め込むべく大橋を越えんとしていた。


人物・今度こそ平井経治 須古城主・平井も出陣です^^/

これに佐留志の前田志摩守、別府の相浦河内守、砥川の泉市之介・森田越前守・江口慶林らは急ぎ居宅より出陣し、大橋口で敵勢を防ぐ。

前田勢は進み過ぎて主従18人が討ち死にするが、有馬勢は大橋口を破れず、北側へ進み両子山の北に在る由利岳に陣を構えた。

う~ん、両子山は見つけたけど、由利岳や大橋が判らないな~
とにかく両子山は、多久と小城の間にある(小城の方に近い)山です。
大橋ってあるところを見ると、牛津川に関連してそう^^

ここへ、多久に陣を布いていた大村勢も集まり、近いうちに小城に攻め入らんとしていた。
これらに千葉胤連の家臣らが打ち掛かるが、寡兵の為に打ち負け引き退いた。


ありゃ、千葉胤連勢が負けちゃった ( ̄ω ̄A;アセアセ

隆信はそれを聞き、弟・信周、従弟・鑑兼、鍋島信房、納富信景、その弟の納富治部大輔信純(彦鶴の夫)に人数を与えて丹坂口へ先行させると、自らもそれに続いた。

丹坂口なら判る~小城市小城町栗原だ^^
にしても有馬勢が陣を構えた由利峠がワカランな~そんなに離れてないと思うけど・・・

隆信には鍋島信昌、小河信友、百武兼通が随身する

ついに龍造寺隆信が本陣を動かした・・・!
鍋島信昌・・・後の佐賀藩祖・鍋島直茂は、この時25歳の若さだ。
でもって龍造寺四天王・百武がキタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

最初の布陣から2度目の再布陣。
龍造寺隆信は有馬勢との決戦を決断していたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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