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【そうだ!龍造寺にしよう~龍造寺VS有馬4】龍造寺隆信「展」の巻4

1562年(1563年説あり)6月半ば、睨みあう有馬と龍造寺の軍が遂に激突し、まずは初戦で龍造寺が勝利を治めた。
すると有馬サイド(or中立)だった国衆が、龍造寺へと寝返り始める。

これ(龍造寺勢の勝利)に佐留志の前田志摩守、その息子・前田家定も有馬と手切れすべく、有馬の佐留志代官・高場新右衛門を切って、加瀬(嘉瀬?)の館へ居た隆信へその首級を持参した。
隆信はこれに喜悦し、佐留志の新田60町と砥川にある5町を前田に下賜した。


佐留志の前田は(例の首だけで暴れた魔法使い)高木謀殺の時に、龍造寺に加担して協力してました。
が、前田のいる佐留志・・・江北町はガチ六角川流域で、須古城のある白石町の近く。
更に有馬から代官が派遣されてたってことは、佐留志も有馬領だったみたい。

ということで、前田は有馬配下としての立ち位置をキープし続けてたみたいです。
ですが龍造寺勢の勝利を見て、有馬と手切れする決断したってとこでしょうか^^

更に上松浦の鶴田因幡守、鶴田越前守、田代因幡守も大友方である波多鎮と手切れして龍造寺に加担した。

・・・・・・・・・・・???ヽ(。_゜)ノ ????
まず因幡守が二人いるのは気にしないでね(・∀・)
田代氏に関してはコアすぎてデータが見つかりませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

で、この時点で鶴田因幡守だと、後に波多氏未亡人・真芳に殺される直。
鶴田越前守は、この年代なら直の実弟で勇将の前(すすむ)です。
「大友方である波多鎮」って、すごいザックリしたくくりだな~( ̄ω ̄A;アセアセ

北肥戦誌は東肥前(つまり佐賀県)の記述は、多少の差異・誤記は別にして流れとしては大体網羅してます。
が、西肥前(つまり長崎県)に関する記述となると、とたんに質・量ともに落ちます^^;

上松浦や西肥前サイドにあって北肥戦誌にない記述とか、かなりあります。
逆に北肥戦誌(または他関連史料)にあって、西肥前サイドに欠落してる記述もあるわけで^^;
とにかく無いものは無い(`・ω・´)キリッ

史料そのものが戦火などで消失・欠落してるので、どうしようもないんです。(←と、自分に言い聞かせてる・爆)
むしろ北肥戦誌(九州治乱記)は、江戸期編纂の二次史料としては精度が高く、良くまとまってる方です。

人物・波多親2
(悩める波多鎮)

それはさておき、話を戻します。
波多氏で男子がいないまま当主死亡した為、家督で揉めたのは波多氏リサーチで記事にしました。
この「有馬VS龍造寺」の時期は、波多氏未亡人・真芳が実家である有馬氏から養子を貰い受け、強引に波多氏新当主として鎮(しげし)に据えた頃です。

上松浦党全体からも有馬からの養子当主に相当反発されたらしく、元服するにあたって大友義鎮から偏諱を受けました。
それが波多鎮です。
両鶴田(本家兄・分家弟)は、波多一族から当主を迎えるべきと主張し、波多未亡人・真芳と対立してたんです。

とまぁ、対立の経緯は判るんですが・・・・・・・・・・・・
そのために両鶴田が、龍造寺に寝返るか・・・となると別の問題になる。
龍造寺に加担したら、両鶴田は上松浦党全体を裏切る事になるので、政治的に孤立しちゃいます。
この後の両鶴田の動きからみても、ちょっと考えづらいです~~~^^;

個人的に鶴田寝返りは釈然としないんですが、武家家伝のサイトだと局面が動いたキッカケは、田代・鶴田・波多・・・つまり上松浦衆に寝返りが出た為だと書いてるので、何か根拠(出典)があるのかもしれません。

最も北肥戦誌では波多が寝返った事にはなってないです。
この後に波多鎮は、重臣・日高が謀反を起こした為に岸岳城を退去し亡命する羽目になります。
上松浦情勢は混沌としてます。

大物同士の激突に、色々混乱してるようなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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ジャンル : 学問・文化・芸術

【策~有馬VS龍造寺】龍造寺隆信「展」の巻3

1562年(1563年説有り)、ついに有馬と龍造寺が激突した。
3月中旬に布陣し、そのまま双方睨みあうまま6月も半ばになった。

松浦家世伝(本伝・道可公伝)によると1563年(永禄6)まで横辺田は有馬領だったらしいんです。
横辺田の百姓たちは有馬の本拠地・日野江(島原半島)が遠くて○役を納めるのがシンドイ(´・д・`)
(○の部分は意味不明・何かの雑役か納税らしい)
で、1563年【6月】に、百姓たちは有馬から龍造寺に寝返った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
しかも百姓らは有馬からの報復に備え、城(砦クラスか?)まで作って武装化してたそうな(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

「有馬VS龍造寺」には1562年説と1563年説があるので、有馬が布陣してたエリア横辺田の百姓衆の動きが興味深いですな( ゚Д゚)y─┛~~
前年の戦の余波で百姓衆が有馬から龍造寺に租税先を変えちゃったのか。
はたまた、1563年の百姓衆の動きが戦端を開いたのか、本伝の記述だけだとどっちともとれるな~^^;

(以下、緑太文字は北肥戦誌より抜粋)
そんな中、有馬に所縁のある馬渡俊光という者が、隆信に対して忠を為さんと、
一族の野田右近允と密談し、有馬へ「隆信を討つから兵を出してくれ」と使いを出した。


リサーチ記事でも触れたけどおさらい^^b
馬渡(もうたい)氏は1533年に後藤純明に攻撃されて、当主(馬渡甲斐守俊明入道笑岩)が討死し、一族バラバラになったんです。
嫡流サイド(戦死した笑岩の子供)は有馬側で御家再興し、須古城主・平井経治と共に六角川防衛ラインの守りにあたってます。

庶流・・戦死した笑岩の叔父の息子たちが龍造寺胤久・胤栄と村中龍造寺に仕えてました。
ここでポイントなのは、策を講じた俊光ってのが「次男」ってとこなんです。
おそらく、この一戦を出世のチャンスと思ったんじゃないでしょうか^^

有馬勢はこれを策と知らず、島原彌七郎に人数を与えて船で砥川まで差遣させた。
この兵船が柳津留に入ると、馬渡俊光は牛尾山に合図の火を上げる。


地図・今回は挫折 il||li _| ̄|○ il||l

これに東から鴨打・徳島数百人、西から野田・乙成勢が出陣、兵船を取り囲み、雨の降る如くに矢を射掛けた。
謀られたと気付いた有馬勢は船を漕ぎ戻そうとするも叶わず、船底に隠れたり、干潟に飛び込んだりと為す術無かった。
佐嘉の地下人らはこれに手を叩き、声を上げて、雄叫びながら武槍で突いて回ると有馬勢数百人が討たれた。
島原は攻撃を払いながら牛津江の大戸ヶ里まで船で逃れながら鴨打勢と戦ったが、有馬勢40余人が討たれた。
但し鴨打勢も50余人が討ち死にした。


>牛津江の大戸ヶ里

んと・・・あ、ここ、ここ⇒佐賀県小城市牛津町勝字大戸ケ里・・・|ぐぅぐる|_ ̄)じぃー
ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー! ガチでクリークだらけだ(爆
干拓もされてるみたいだな~~こりゃ、戦国期とは河川蛇行も変化してるっぽいな。
そもそも六角川と牛津川は現代のように合流してなくて、戦国期は河口が別々の河川なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

現代だと佐賀バイパスや道路で分断されて河川から300m弱離れてるんですが、戦国期は船で行けたみたいですね。
もしくは河川逆流現象で浸水してたかな?
牛津江も逆流現象を解消するための排水機場が作られてるので、往時の雰囲気(自然・景観)はないと思います。

これを隆信へ注進すると、隆信は大いに喜び馬渡へ100町を与え、馬渡信光と改名させた。
また鴨打ちへは小城の右原80町を加増し、徳島らにも其々恩賞を与えた。


100町安堵~~120町となってる記録もあります^^/

>馬渡信光と改名させた

おお!隆信の信の字、偏諱を受けたんだ^^オメデトーーー

物事は最初が肝心。
この龍造寺側の勝利で一気に局面が変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【布陣~有馬VS龍造寺2】龍造寺隆信「展」の巻

1562年北肥戦誌曰く(以下、緑太文字は北肥戦誌からの引用)
豊後の大友義鎮は少弐再興の為に資元の三男・政興を立てんと図った。
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多 鎮(親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。


西肥前リサーチで紹介したが、西肥前のキーとなる動きが「松浦党宗家と分家・平戸の争い」だった。
もともとは有馬が介入したのが先なんだけど、松浦宗家(もしくは有馬)が少弐氏にも援軍を頼んだらしい。

当時の少弐当主は「(少弐を再興し五州太守として太宰府でブイブイ言わせてた頃の)少弐政資」でした。
少弐政資は貿易港・博多も抑えて、朝鮮交易でガッポリ稼いでたそうです。
てことで、有馬ら松浦宗家サイド武将は「少弐政資の軍役に応じる」という形になり「少弐被官」という経歴がつくことになる。

松浦政(宗家)は少弐政資の孫娘(高経娘)を正室に迎えてまして、
二人の間に産まれた松浦親(少弐政資から見て曾孫)は、波多興の娘を正室に迎えてました(1518年)

波多興の息子・盛(さこう)の正室が有馬晴純の娘(or孫)真芳で、二人に子がないまま盛が死亡した為、
有馬晴純の息子を養子に迎えた。それが波多鎮(=後の親)です。

ちなみに少弐と大友の同盟関係ですが、両家は婚姻による縁戚関係でした。
少弐政資の嫡男・高経と大友政親(16代目当主、宗麟の曽祖父の兄)の娘が結婚してます。
(ただし二人の間には男子がないまま、少弐氏が大内に敗れて高経が自害する)
で、政資の生き残った息子・少弐資元の正室が大友親治(18代目当主、宗麟の曽祖父)の娘が・・以下略。

てことで過去の被官歴と縁戚関係を芋づる式に辿ると、大友や有馬や波多に「少弐再興の為に働く由縁」が無い訳じゃなく、
介入する為の大義名分は立ってます^^/

家紋・少弐(縁戚の縁戚は、みな縁戚だぁ~広げよう少弐再興の和♪)

父(有馬)子(波多鎮)は同意し、波多家は松浦党に加え、田代因幡守、馬渡甲斐守らに準備させ、
仙巌は嫡子・有馬義直(義貞)に人数を与えて、大村純忠の士卒と共に多久へ向かい、
多久宗利を味方に付けて龍造寺攻略を企てた。


これに西肥前の者達が与する。
彼杵郡の西郷純堯、矢上幸治ら、下松浦の松浦 親(←宗家当主)、山代 清、伊万里 直ら、
杵島郡の平井経治(←須古城主)を始め、白石・永田・吉田・嬉野(宇禮志野)・原・上瀧が、
高来には安徳・安富・神代(←こうじろ、山内の神代とは別人)・島原・多比良・千々石らが打ち出て、
先陣は3月17日に杵島の横辺田まで攻め来る。


これって、どのくらいの動員だったんだろう。
面子だけだと、かなりの兵力になるな・・
あ、杵島の横辺田は前回紹介した杵島郡大町です^-^

隆信はこれを聞き、急ぎ老臣らを集め評定を行い、一族の他に鍋島信房、鍋島信昌(←若き日の殿♪)を始め、
小河・納富・福地らを横辺田へ差し向け、小城郡の高田村に陣取った。


小城郡高田村は、相当古い呼称だったようで、どうやら小城市三日月町付近だったみたい。
高田村は同じく小城市三日月町長神田と水争いした記録が、長神田側に残ってるそうです。
横辺田とは8km弱離れてるので、けっこう遠いな・・・|ぐーぐる|_ ̄)じぃー

これに千葉胤連も家人を催し、蘆刈の鴨打胤忠、徳島土佐入道道可、徳島長房、徳島信盛を始め、
今川の持永盛秀以下、空閑・粟飯原・桃崎・橋本も龍造寺に加勢の軍を出し、丹坂口へ打ちだした。


丹坂口・・これは丹坂峠の入り口で、小城市小城町だから隆信が布陣した高田村(三日月町)の1km未満という近所^^
どうも地形が土地開発で変遷してるようで、峠らしい跡が見当たらない^^;

目印としては丹坂峠古墳なんだけど、遺構は専門外なんで判りません。
とりあえず古墳を目印に辿ると丹坂口の位置は、小城市小城町栗原です^^
ん~~~これは旧長崎街道沿いじゃなくて、唐津線・・・多久方面になるかも。

これに有馬は横辺田に陣を張ったまま動かず、6月も半ばとなった。

実は最近読んだ北島先生の論文で知ったんですが、横辺田は1563年(永禄6)までは有馬領だったそうなんです。
(出典:松浦世伝---道可伝)
つまりお互いに自分のエリアから出ないで挑発しあってたわけでして^^;

睨みあうまま長陣となった両軍に変化が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【エリア横辺田~有馬VS龍造寺1】龍造寺隆信「展」の巻1

肥前国における西と東の最前線・・・・一番、判り易いのが六角川を目安にする事です。
で、彼らが激突する時に、しばしば史料に登場するのが「横辺田」という地名です。

なんで肥前の皆さん、ここでばっかり戦うのでせうか・・・
今更なんだが、やっぱり気になって【ぐーぐる】__φ(.. ) 検索検索

横辺田という地名は現代では残って無くて、杵島郡大町になります。
で、江戸時代は代官所がありました。
代官所がある場所って、色々便利な要衝地の事が多いです。

(-ω-)ん~~どう要衝地なんだろう・・・
検索しても具体的なものが出なくて、ちょっと苦労しましたがヒントは旧長崎街道でした。

横辺田は旧長崎街道が通ってて、横辺田から半径7km四方に小城市、多久市、白石町、武雄市と通じてます。
集合離散?するには持って来い。

さらに河川から程よく距離があるので、逆流現象による浸水の心配がない。
ちょっと北に行けば山野なので、地形を利用し布陣可。
山野から下がれば平坦な土地で適度に広く、陣を展開するのに丁度(・∀・)イイ!

六角川流域は有明海の満干潮からくる逆流現象で湿地帯や泥土が多く、
足元を気にせず人馬が駆け回れるバトルフィールドは、自ずと限定されます。
それが「エリア横辺田」でした。

1562年(1563年説有り)有馬VS龍造寺隆信の本格的ガチンコが起きるのだが、
その始まりの引き金を引いたのは、キングオブ九州・大友宗麟だった。


人物・大友宗麟

豊後の大友義鎮(宗麟)は、長年同盟関係だった少弐氏再興のために、資元の三男・政興(つまり冬尚の弟)を立てんと図った。

少弐氏が中々滅びないのは、ご本人が子沢山・亡命し慣れてる~というだけでなく、神輿として担ぎ出す勢力が必ずあるからです^^;
自分は九州専門なので他の土地は知らないんですが、九州という地方は守護の権威が失墜するのは早かったと思います。
ただそれはそれで、地域によってバラつきがあるんですけども^^;

更に「守護職はOKだけど、探題職に従うのが(´・д・`)ヤダ」って気持ちも大きい^^;
これはやはり九州が南北朝の争乱を引きづり過ぎたからではないかな~とボヤンと思ってます。

が、失礼ながら遠国(京都から遠いという意味)なので「守護職という権威を敬う気持ち」も色濃く残ってます。
(と言いつつ北肥後だけは完全にフリーダムだったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
この矛盾する状態が、名門といわれる武家が中々滅びない事の最大の理由だと思います。

それと大友が少弐再興を言うのは、上位権力者である大友の義務というか・・・
とにかく九州探題にして肥前守護職である大友氏は、同じく守護職に連なる名門少弐氏を保護すべき立場なんです。
少弐氏本人が大友に直接噛みついて来ない限りは、バックアップし続けたと思います。

だからこそ少弐という武門の家が持つ「守護職の権威」に対し、最後のトドメを指すまで手を緩めなかった龍造寺隆信は新しい時代の英雄だと感じます。

北肥戦誌曰く
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多鎮(後の親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。


大友義鎮が有馬にコンタクトをとったのは、肥前で龍造寺に対抗できる勢力というだけではないかもです。
西肥前リサーチ期間に知ったんですが、かつて有馬氏は少弐氏被官(ひかん=家臣)だった過去があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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あとがき・・・

依怙贔屓を承知でいうと、神代勝利公は山岳戦における天才だったと思います。

平地がダメってわけじゃないんですが、いかんせん龍造寺より動員能力が劣るのは、遮蔽物のない平野部では何ともカントモですから( ̄ω ̄A;アセアセ

「和睦の思惑」で書いた勝利公が嫡男・長良公に胸中を明かす下りは、
真田昌幸が幸村に胸中を語る場面を彷彿としませんか? 川* ̄д ̄*川ポッ 

あ、記事は噛み砕いて書いてるだけで自分の創作じゃないです。
基本、三瀬村史と北肥戦誌がベースです^^b
自分の推測の時は、推測って前置きするか、○○と思うな~とか書いてます^^b

歴史は調べれば調べるほど、諸要因を見つけちゃうんでIFが難しくなるんですけども。
ぶっちゃけ勝利公が長命されていれば、龍造寺隆信の東肥前制覇が頓挫してます。
だって山内武士団&領民は、龍造寺に従うのはo( ̄Д ̄θ★ケリッ!です。
譲って同盟関係までなんです。
だから龍造寺は「東肥前の制覇まで至らない期間」がズルズル~と続くことになる。


結果としては同じかもですが、龍造寺の勢力拡大スピードが緩む分、肥前戦国史は我々が知っている歴史とは差異が出て来ると思います。
てか川上合戦で山内が勝ってたら、東肥前の覇者は勝利公だったぉ・・・(´;ω;`)ウッ

英雄とは、現実の辛さを忍耐させ、10年20年先の未来に架かる夢・・・手に掴めないはずの虹の煌きを、人々に追いかけさせる事が出来る人物です。
そういう意味では、神代勝利公は紛れもなく英雄でした。
だからこそ、肥前の熊と畏れられた龍造寺隆信のライバルたりえたんです。

ぶっちゃけ、龍造寺隆信と神代勝利公の絡みが余りにも多いので、カテゴリタイトルを龍造寺隆信編にする事に違和感を覚えたほどでした。
それで、勝利公の死を扱う本シリーズのみは、神代勝利公編にした次第です。

港町育ちで道産子の自分には、山岳地帯のイメージが全くわかず(@@)コマッタ!
とにかく三瀬村史や北肥戦誌に出てくる地名は片っ端から検索し、位置関係や地形の変化の歴史等々を徹底して調べました。
そのおかげで思いもかけず拾った逸話などがあり、消化するのに嬉しいやら大変やらで、今となっては「学ぶ楽しさ」を再確認した充実した時間でした。

現在の自分の記事スタイルが概ね定まったのも、勝利公を調べるために培ったスタイルです。
そういう意味では、亡き神代勝利公に感謝しています。
勝利公を調べなければ、これほど東肥前を知る機会はなかったでしょう。

神代家に関しては、まだまだ語りたいことはあるのですが、
勝利公亡き後の事になるので、龍造寺隆信編の中に折り込みたいと思います。

今度は西肥前のリサーチなので、暫くはリサーチ記事が続くと思います。
何せ、この通り拘りのシオなんで徹底して調べます(`・ω・´)キリッ
ブログ運営はマイペースになりますが、何卒、宜しくお願いします。

最後に三瀬村史・富士町史をWEB公開して下さってる佐賀市に、心から御礼を述べて終わりたいと思います。

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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