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23・剛忠(龍造寺家兼)【裏切り?】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
大本は北肥戦誌が基本ベースです^-^

馬場が少弐を見限った筑紫満門を謀殺してスッキリした大永4(1524)
馬場から見て裏切りしてるのが未だいた。

同年3月28日、龍造寺胤久(17代目)が千葉興常より佐賀郡と小城郡の領地安堵を受ける「龍造寺文書105」
千葉興常は少弐のライバル・大内のバックアップを受けている東の千葉氏。
ちなみに嫡流は東。
少弐の一門・横岳から胤勝が養子に入っているのが西の千葉氏。

龍造寺は四年前までは西千葉と繋がりを濃くしていたのだが、この頃から東千葉との関係を強化しはじめたらしい。
四年間の間に何があったのかは記録がないので不明。

馬場から見れば、龍造寺が西千葉から離れて東千葉寄りになるのは十分裏切り圏内だと思うのだが、
馬場はそれどころでなくなった。

同年夏ごろ、西の千葉胤勝が大内へ寝返ったと噂が出たのだ。( ゚д゚)ンマッ!!
え~と、ここで季節の話になるんだが、
昔の北海道を含まない日本の旧暦季節感では4月くらいが既に初夏なんです。
これは中国の暦を日本にそのままあてはめた為に実際の季節感とはズレが生じてます。
そのために江戸期に渋川春海により暦は作り直されています。

噂を聞いた馬場頼周は、これを諌めようと胤勝の老臣3人へ送り状を出した。
だが、大永4年(1524)の夏に「胤勝は頼周の諌めを聞かず大内に通じた」と聞こえた。

諌めたのが逆効果だったんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

馬場頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し晴気城を攻撃。
5月12日に城は落城、千葉胤勝は密かに落ち延び筑前で浪人したそうな( ̄ω ̄A;アセアセ

ここで龍造寺はシッカリ少弐のために動いてる。
うまくやってるな~

大永5(1525)年、千葉興常は光勝寺に小城郡内の土地を寄進「佐賀市史」

寺社への寄進・安堵は安定した実力の証。
龍造寺が東千葉寄りになるのも納得というもの。

同年、千葉喜胤(興常の嫡男)横辺田で有馬に敗れ、大内の助けで小城に帰る「千葉氏略系図」
東へと勢力を伸ばそうとする有馬の動きは断続的にありました。
領地を守るためにも東千葉には大内の力が必要だったんです。

歴代鎮西志によると、この横辺田の戦いで須古の平井氏が有馬へと属します。
須古・平井氏。
もともとは千葉家臣だったのが有馬に属したことで、後に龍造寺を悩ませるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
龍造寺は東千葉とも少弐とも、いい感じの距離感で上手くやってた。
西千葉が寝返ったと噂が出て、馬場が西千葉を追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
須古の平井が千葉から有馬に寝返る

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

22・剛忠(龍造寺家兼)【後編・謀殺、筑紫満門】

本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^

一門でありながら少弐から大内に寝返った筑紫満門。
同じく少弐一門で、筑紫の娘婿である馬場頼周は筑紫満門を謀殺してします。

それは我が子の病気を理由に妻(=筑紫の娘)に文を書かせ、誘き出して多勢で殺すという酷い方法だった。
人物・馬場頼周(黒い馬場頼周:監修様作画)

夫に父と兄弟を目の前で殺された馬場の妻の嘆きは計り知れず、後に夫へ暇を乞い髪を剃って仏門に入ってしまいました。ショボーン..._φ(・ω・` )

同行してた筑紫家臣の生き残りは、大急ぎで勝尾城へご注進~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
筑紫家臣らはリベンジのために綾部城へと向かったが、もとより準備万端の馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!一蹴されてしまう。

馬場が喜びすぎたせいだろうか・・・筑紫満門は死して怨霊となってしまったそうです( ̄ko ̄)
*******************************************************
現代(北肥戦誌が書かれた江戸時代)でも、月が曇り雨暗き夜は綾部城の旧跡に叫喚の声が聞こえ、人心を悩ませている。
或る時、ここの領民が草を刈りそれを馬に積んで乗馬していた際、満門の墓の辺りを通ると、忽ち逆さに落ちて悶絶した。
近くの者は驚き、山伏を呼んで祈祷させると、「我は筑満門という者なり」 と口走り始めた。
更に「昔ここで命を失い、多くの年月が過ぎたと雖も魂は尚も留まりて、折しも今朝卯の刻より猿楽を興行し自らも舞い遊んでいたところ、下々ながら馬に乗り、舞台の前を通るなど奇怪の至りである。だがこれを許し命は助けよう」 と発した。
領民は汗水流して寝入るかと見えていたが、また息をしだした。

200余年の星霜は送ると雖も、その魂は尚も青苔に残る事、不思議な次第である・・・と北肥戦誌は結んでいる。
*******************************************************

馬場の忠義には私心はないであろう。
だが、裏切り者を決して許さず、相手を滅ぼすために謀を巡らすのが、果たして少弐のためになったのだろうか?
相手にも言い分がある以上、馬場の行動は恨みしか残さない。
相手が返す復讐の刃は、馬場の何より大切な少弐に降りかかるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

22・剛忠(龍造寺家兼)【前編・謀殺、筑紫満門】

本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^

少弐氏を支えた忠臣の二大柱が、馬場氏と横岳氏だろう(どっちも一門)。
そして少弐氏再興に最も情熱を注いだのが馬場頼周(ばば よりちか)です。

少弐のためなら手段を問わない。
少弐を裏切る者は許さない。
たとえ、それが縁戚であっても・・・です。
この一途さは、肥後阿蘇氏の忠臣・甲斐宗運を彷彿とさせる(宗運の方が苛烈だけど^^;)

ただ少弐氏が、滅亡寸前(当主と嫡男が自害)になった時に、一門でありながら少弐氏を裏切った者がいる。
それが東尚盛と筑紫満門。
そのうち、筑紫満門が馬場頼周の岳父(妻の父=舅)だった。



馬場は舅の裏切りにブチ切れそうなのを堪え、
時折「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。

歴代鎮西志によると少弐と筑紫は和睦したとあるのだが、馬場の行動を見るに筑紫を信用していなかったのだろう。
馬場は、筑紫を誅殺すべく呼び出そうするが、婿の気性を知ってる満門は馬場の呼びかけに応じない。

そんなこんなが続いて1524年(大永4)1月中旬。
馬場の子(=筑紫の孫)が疱瘡を患った。

馬場は妻女(=筑紫の娘)に向って云う
「おことが父である満門は、我らに異心あるものと疑い、ずっと訪ねてこない。
我らには些かも別心などない。
いま子供が疱瘡で痛がっているのを、おことより知らせて父を招き、孫らを見舞う様に誘ってくれぬか」


馬場の妻は、夫が血を分けた我が子の病を謀略の種に利用しようとしているなど夢にも思わない。
急ぎ文を認めると父へと送った。
筑紫は1月18日に、息子二人と家臣らを召して馬場の綾部城へ赴いた。

人物・馬場頼周
(黒い馬場頼周:監修様作画)

孫の寝所を筑紫が見舞うと、後ろめたい気持ちがあったのか馬場が挙動不審,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
その様子を見て夫の謀略に気付いた馬場の妻だが、この期に至ってはどうにもならず、ハラハラと涙を零した。
筑紫は孫の容体に気を取られ、色々不自然な娘夫婦の様子に気づかなかった。

実は筑紫満門は陰形の術「木の葉隠れの妙法」を会得してたそうな。
(マジかよ・・・でも北肥戦誌に書いてるんだもん(´・д・`))

そのため馬場は筑紫を討ち漏らす事がないようにキッチリ合図を決めてた。
そして広間に座ってた筑紫と息子たちに襲い掛かり討ち取ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

21・剛忠(龍造寺家兼)【龍造寺17代目・胤久】

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出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

永正17(1520)8月、龍造寺胤和が死亡。
弟・胤久21歳。17代目として家督を継いだ。
「佐賀市史年表」
北肥戦誌によると兄の未亡人を娶り家督を継いだそうだ。
よくある話じゃないか~~(*´○`)o¶~~♪

ちなみに死んだ胤和は龍造寺隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)の父。
だから胤和は肥前のクマーの祖父^^
新当主・胤久は隆信から見て大叔父にあたります^-^

永正11年(1514)に胤久は、西千葉・胤勝から偏諱を受けて胤久と名乗ってます。
この時は未だ14歳だったから、元服の時の名乗りだったのか|史料|。 ̄)じぃー

更に龍造寺当主になった翌年、永正18年1月11日。
龍造寺胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となります。
「龍造寺文書104」
ということで龍造寺17代目は西千葉と縁が濃い当主でした。

ウィキペディアによると、胤久は龍造寺家兼の傀儡当主だったとありますが、もしそうなら家兼は物凄いしたたかな人物だと思います。
自分は胤久自身の意志で動いているんじゃないかと思うんだけど・・・(-ω-;)ウーン

西千葉が肥前で頑張る中、かつて少弐一門で今は大内サイドの筑紫氏も力をつけてきました。
大永元年(1521・改元は8月23日)、筑紫満門は焼失してた宝満の上宮を建立する「北肥戦誌185頁」
大永3年(1523)閏3月27日には神崎郡櫛田社を修造し遷宮を行っている「佐賀市史年表」
神様関係で寄進や安堵は武将の実力の証。

少弐氏の忠臣・馬場頼周は、実力のある筑紫満門に「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。
歴代鎮西志によると同年の大永3年に筑紫満門と少弐資元が和睦したことになってます。
だが、その後の馬場の行動を見るに、どうも筑紫は少弐に服属しなかったようなのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・龍造寺胤久(次男)兄の死で家督を継ぎ17代目となる
・胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となる(胤の字も西千葉からの偏諱)
・少弐を裏切って大内に服属したのが筑紫満門

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

20・剛忠(龍造寺家兼)【大友、家督相続】

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「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

筑後・星野氏の大友に対する謀反は永正10(1513)に鎮圧された。
このことは大友の筑後統治に大きく影響する。

これで落ち着くかに見えた大友だが、今度は元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こした。
嫡男である義鑑を廃して、13代目の六男を立てようとしたのだ。
ちなみに義鑑の父・義長は19代目^^;
13代目が子だくさんだったのは別にして、あまりにも庶流すぎて失敗するはずだ。
だいたい13代目の六男は出家してて、大友当主になる野心ゼロでした^^;

「田尻家文書20」によると、この謀反に筑後蒲池氏が呼応してたらしい。
筑後は未だ不安定だったのだろう。
で、翌年永正14(1517)11月、朽網親満に呼応した蒲池、黒木、川崎ら筑後国衆が蜂起。
永正15(1518)に朽網親満が大友義長に討伐軍に敗れているので、おそらく筑後で蜂起した国衆も鎮圧されただろう。
同年3月6日に筑後・田尻治種が大友義鑑から上妻群薬丸12町を安堵されている「田尻家文書21」
ちなみに朽網も、このあと記録から消えるので死亡したと見られている。

同年8月、大友氏19代目・義長が死亡。
※大内義興が京都から周防に帰った年。
家督を継いだ大友義鑑は未だ若年(数え17歳)だったので、祖父・親治が死亡(大永4)するまで補佐を受けた。

で、死ぬ前に大友義長は「大友覚書条々」という遺言みたいなものを残した。
全文はシオも知らないんだけど、その中で特徴的なものがある。
二、筑後星野氏に対する警戒
三、肥後対策、特に阿蘇惟長への対策
つまり大友では肥後統治と筑後統治をセットで考えていたんです。

阿蘇惟長は大友の傀儡として肥後守護職の家柄である名門・菊池氏の家督を継いだのだが、
菊池家臣とソリが合わず(誰とも合わない菊池家臣www)惟長本人が嫌気がさして地元・矢部に帰ってしまった。
いったん阿蘇家を出た惟長が出戻ったせいで阿蘇家が揉めるんだが、それは相良氏篇で書いてるので割愛。

大友義長は「もし再び阿蘇惟長が肥後そのものを欲することがあれば、筑後統治も意のままにならなくなる」と警戒してたんです。

この筑後と肥後の統治をセットで考える政策は義長死後も続きます。
なぜなら肥後で何か起きるたびに、筑後で呼応した国衆が蜂起するからです。

ということで筑後とセットである肥後・相良氏を通じて肥後戦国史を扱ってるわけです^-^b
で、大友の筑後に関わる数年間を話したところで肥前に話を戻すのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こし呼応した筑後国衆も鎮圧される。
大友氏19代目・義長が死亡し義鑑が家督を継ぐ
大友氏は筑後と肥後の統治をセットで考えていた。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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