FC2ブログ

大河平氏_16【御家再興編・3島津義弘挟撃作戦】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------
出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------
1564年5月29日、伊東義祐の今城攻撃による玉砕討死で、大河平氏嫡流の姫・ナミは実家を失った。
伊東と組んだ相良家の家臣・皆越家に嫁いでいたので彼女には、戦火が及ぶことがなかったんです。

その相良氏と島津氏・・・元々は祖父母の代から友好関係でした。
その流れで真幸院・北原氏乗っ取りを企む伊東義祐を阻むための盟約を交わしてました。
(※北原兼親が祖母の実家である相良氏へ亡命してた)
ところが1563年に相良義陽が裏切り島津の敵である伊東義祐に寝返ってしまった。

(※相良氏が伊東に寝返った理由については、具体的な記載がないため不明です。)

大河平氏は北原家臣でしたが、北原家が衰退したので島津家から領地安堵を受けてました。
従って、相良家臣に嫁いだ姉・ナミと、兄の病死で大河平の家督を継いだ末弟・隆次は、
相良の裏切りにより敵味方の立場に別れてしまったことになります。

そうなると互いの立場上、大っぴらに連絡を取り合うのもままならないでしょう。

ちなみに皆越(球磨郡あさぎり町)は大河平とは地図上だけだと10kmちょいの近さなんだが、
途中で国見山に白髪岳が聳えてるから相当の難所コースです^^;


ナミが今城落城や一族滅亡の詳細を知ったのは、落城から何日後だったのか、知った時の彼女の反応などは記録になく不明です。
元々はナミを嫁にと所望したのは皆越側からだったのですが、
結婚が家と家とのつながりだったのが現代よりも強く濃かった時代に、
実家の後ろ盾を失ったナミに対し 皆越一族が、どのような態度で臨んだのか・・・(´;ω;`)ウッ

こういう時には決まって「婚家に下女扱いされた不幸説」と「ナミの不幸を労わり慰めた優しい義実家説」の二説あって、
日本人は何故か不幸説が好きです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もちろんコアな郷土史なので、そんな極端な伝承なんて無いですよ。(ヾノ・∀・) ナイナイ
ただ、この後のナミの行動を見ると、、、、不幸説がチラチラ浮か・・・・(._+ )☆\(-.-メ)IFバナ自粛!

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

話を相良に戻して、
八代日記によると、島津との盟約を裏切った1563年の段階では島津は相良を引き留めようとしてたっぽい。
相良義陽の裏切りは、日向記だと4月14日、八代日記だと5月14日、困ったことに両方とも一次史料^^;
引き続き八代日記より---島津は1563年5月5日、6月6日と、二度ほど使僧を遣わし、飯野方面の格護を求めてた。
(格護=歴史民俗用語で薩摩藩の田地を占有または保持する意味)

つまり島津は相良を引き留めるために、真幸院のうち大明司だけでなく飯野も割譲しようとしてたんです。

(飯野城にいる北原兼親を どうするつもりだったかは不明・爆)
ところが相良義陽側が派遣した使者・東出羽守が、義陽の意向とは違う勝手な発言をして、島津側を激怒させたんです。
これが決定的になり相良と島津との友好関係は破たんしました。

東出羽守が何をくっちゃべったか内容は不明ですが、トンずらした東出羽守を相良側の追手が成敗(1564年2月9日)してるので、相当の大胆発言をやっちまったようです(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
島津の怒りは収まらず、相良への報復として天草地方に介入したり大口城攻略(1564年2月11日)を始めた

(詳細は相良編に戻ったらしますね(^ -)---☆Wink)

で、大口城攻略の中心となったのが、猛将・島津義弘。

一方、伊東義祐です。
真幸院を手に入れるべく、あれこれ画策し、数年がかりで北原にチョッカイ出してました。
1564年に今城を落としたまでは良かった。
が、北原家臣が動揺して次々出奔したために、北原兼親では真幸院を維持できないと、北原は伊集院神殿村に飛ばされた^^;
で、代わって飯野城に入ったのが、猛将・島津義弘。

相良義陽------ちょっと島津義弘が邪魔なんだけど------伊東義祐

1568年、どっちが言いだしっぺかは不明だが、相良と伊東はタッグを組んで島津義弘を挟み撃ちにしようと企んだ。
同年、その企みを嫁ぎ先である皆越家を通じて入手したナミは、島津義弘に情報をリークした。

ナミの情報が相良と伊東の企みを砕き、真幸院を巡る伊東と島津の争いは新たな局面を迎えるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_15【御家再興編・2リーク】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------
出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
-------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------
今城跡は毎年5月29日の夕刻には堀切りに於いて、
剣戟や轡(くつわ)の音が聞こえると言い伝えられている。

(※本藩人物誌では合戦は5月30日)

さて、滅びたと思われた大河平一族でしたが、わずかですが生き残りがいました。

今城で討死した八重尾の末子・与次郎(12歳)は手習いのため狗留孫山寺に修行に行っていたため災疫を免れ、
島津義弘に取り立てられ木浦木(小林市)の旧領を与えられ、北方辺路番の任務についた。名を八重尾重紹とした。

八重尾氏は史料ですと菊池氏庶流となってたんですが、どうも違うみたいです^^;
大河平氏との系譜上におけるつながりは判りませんでした。
ちょっと気になるのが「いつ取り立てられた」なんですが、そこまで突っ込むのは野暮かもしれませんね^^;
ついでに気になるのは「末子」てことは兄は・・・・いえ、なんでもありません(´・`)

系図・大河平氏
同じく討死した大河平隆堅(隆次の叔父)の次子・堅重(6歳)は商人に扮した家人に救いだされた。
6歳にして家とパパンを失っちゃったのか・・・さすが戦国(-ω-;)ウーン
隆重少年は次子・・つまり次男でして、系図にある嫡男兄・隆光も今城で討死です。
系図をみると兄・隆光には子供がいなかったようなので、隆重少年は大事な生き残り。
御家再興の切り札になるかもよ?(*´pq`)クスッ
(隆重少年、その後は別記事にて紹介します^-^)

さらに、いま一人・・・生き残りがいました。
それが少年城主・隆次の姉姫・ナミです。
隆次とナミは4歳違いですので、今城落城時点で彼女は19歳~花の盛り・・川* ̄д ̄*川ポッ 

ナミは球磨郡の皆越家に嫁いでいたので、戦火の巻き添えを逃れることが出来ました。
今城の落城や一族郎党の討死により、ワンピースじゃないナミは実家を失ったんです・゜・(PД`q。)・゜・

え~っと、何度も言ってるが大河平ファンなので、
実はナミ姉さまに関しても「かなり美化された脳内イメージ設定」がありまして・・川* ̄д ̄*川ポッ 
その気になればナミ(だけ)で妄想小話いけちゃう~~萌バナはファン限定で・・(._+ )☆\(-.-メ)自粛!

ナミが嫁いでいた皆越氏は球磨と日向の国境を守る地頭職を代々務めた家柄でして、
全盛期の北原が相良領に侵攻した時も、撃退するために一役買ってるし、
義陽の代で叔父である上村三兄弟が謀反を起こした時に、誘われたが毅然と断る相良配下の国人でした。
(ただし八代日記=一次史料では謀反側に従ったとあり、断ったとするのは南藤蔓綿録=二次史料)


皆越地頭は六郎左衛門ではないので、ナミの夫は皆越家の一門クラスじゃないでしょうか。
とIFバナする根拠なんですが、
大河平氏が八代から真幸院に入るときに、皆越氏に大変世話になったそうなんです。
で、ナミを嫁にと所望したのは皆越側からだったそうな。

世話の具体的な中身はワカランチン~ヽ(。_゜)ノ
推測するなら、大河平が真幸院に行くってとこがポイントになります。

皆越氏は相良と北原の国境の地頭で、北原氏に脅かされた過去から、現地情報を欲しかったのかな~と。
大河平と縁戚関係になれば、主家である北原家の内部事情も多少は漏れ聞こえてくるでしょう。
その逆も然り。
ナミが皆越に嫁げば、皆越の主家である相良の動きも入手できます。
そしてナミは、その危険なスパイ行為をやってのけたんです!

今城落城から4年後の1568年、大河平氏嫡流最後の姫・ナミは、
嫁ぎ先の皆越家から入手した相良氏の軍事情報を島津義弘にリークする

このナミによる軍事情報リークが、大河平氏御家再興の契機となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_14【御家再興編・1主家崩壊】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------------------
出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
-------------------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------
援兵8人だが、大河平隆次と些細な事で不仲になったという主君・北原兼親(飯野城主)という可能性がないかな~
とも思ったが、やっぱワカラン(´・д・`)

そうなると北原兼親は
「万が一の時は自分が援軍しますから~と言って島津派遣兵を撤兵させておきながら、
その万が一がきたのに、隆次への意趣返しで援軍送らず今城を見殺しにした残念な主君」
という事になる。

実は、検証前の初見の段階でシオは、そう受け取ったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
残ってる記録(だけ)を読むと、そういう評価づけになっちゃう^^;
ほんとにそうだったのかな・・・(-ω-;)ウーン

(* ̄○ ̄)ゝ「監修さま~北原が援軍送るのが物理的に無理だった可能性ってないですかぁぁ」
監修様「可能性の話ですけど、相良勢が伊東の囲い番してたなら、飯野城からの援軍は阻まれますね」
「囲い番」って聞きなれない言葉で、検索しても将棋や囲碁しか出てこない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
御当地(南九州?)独特の戦国軍事用語だったみたい^^;
つまり「囲い番」って、城を囲む攻撃側が逆に包囲されて逃げ場がなくなることがないように、支援する軍勢のことなんです。
確かに、それやられたら北原兼親は援軍したくても出来ないです。
今城や周辺の城が落ちたら、飯野城への圧迫がMAXになって、北原はピンチになるんで、不仲がどーのって場合じゃない。
IFバナとしては、物理的に支援できなかった・・・というのが一番自然です。

地図・今城

さて、1564年5月29日に今城(と、永野城)の落城により、北原家臣が動揺した(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
同年?月、後難を恐れた踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らは北原家より相次いで出奔する

話変わって、今回の地図は監修様提供なんですが、恒例の「シオ(手書きの)ぬくもり戦国地図がないな~」
と思ってくださる奇特なファン様・・・すいませんm(__)m

真幸院(現・宮崎県えびの市)は、シオのキャパを超えました・・・(´・`)トオイメ。。。
なんと真幸院だけで45も城や陣跡があるんです~~ぇえっ!(゚ロ゚屮)屮

それだけ城や陣や砦があるってことは、それだけ家臣に分知できたってことでして、
「真幸院が肥沃な土地」というのは、決して誇張された国自慢ではないのです。

で、踊城は霧島市牧園町・・の何処にあるか詳細不明^^;
高原城も えびの市内じゃなくて西諸県郡高原町・・・・なんだけど、
高原城は砦一部が壊されて現在の宮崎自動車道があるために、やっぱ城の正確な位置は判んなくなっちゃってます。
「後難を恐れて・・」とあったので、真っ先に高原城の位置を調べたらビンゴ。

高原城は えびの市のチト南東に位置してて、伊東氏エリアである小林市の方が近いんです。
なるほど・・・ビビって出奔するはずですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、高原城の白坂下総介という人物は「北原兼親を当主に擁立しよー(・∀・)ピコーン★」と発案した人物でして、
島津家老である樺山善久に保護を求めて、島津の支援をとりつけたいわばパイプ役だった人物です。
高原城の白坂下総介の「その後」は不明です。
『本藩人物誌』に「出奔シテ守護方ニ参シ樺山善久ニ倚テ降ルトイフ」
とあるので、初めに保護を求めた樺山に仕えたものか、「ト言フ」って事は、ハッキリしてないって事の訳で、
つまりところ「出奔した北原家臣ら、その後は不明です(`・ω・´)キリッ」

北原家中が混乱ガタガタぶりは、島津側に傍証があります。
『本藩人物誌』によると「北原兼親が伊東に寝返るとの風聞が立つ」とあります。
この風聞は「えびの市史にはない」ので、何処まで本当なのかは今となっては判りません。
えっと、やっぱ同年11月に、吉松城の北原左衛門尉(兼親の叔父)が
「秘かに伊東氏と相良氏に通じ飯野から島津氏を追いだそうと画策していた事が露呈したため出奔してる」
んです。
で、前述の風聞~という流れです( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく、北原家臣の寝返り&相次ぐ出奔に、島津当主である貴久は
「北原兼親では真幸院を維持するのは無理」と判断を下し、
同年11月、薩摩の伊集院神殿(こどん)村(現・鹿児島県日置市)に30町の領地を与え移住させる。

最盛期は1万の兵力だった北原氏は、この時から独立した領主でなくなり、島津家臣へと転落します。

同年11月8日、猛将・島津義弘が飯野城に入る
飯野城は、その後23年もの間、島津義弘の居城となり、島津ファンの認識では「飯野=義弘」な件~^^/
なにやら11月が盛りだくさんですが、兼親の移住が義弘の飯野入りの、前なのかor後なのかは不明です。

個人的に北原兼親タンが気の毒だなーーと思うのは、実子がいなかったことです(´・д・`)
で、島津家老だった伊集院氏から、養子を貰いうけたとこまでは、良かったんですが、
その伊集院氏が謀反を起こしまして・・・( ̄ko ̄)<庄内の乱デス

北原養子は謀反側じゃないから残ったけど、謀反の一族の出だから出世コースから外れた?みたいな?
次に北原氏が記録に出た時は「諏訪兼安の付衆中」ってことで、島津直参どころか陪臣にまで転落 Σ(´Д`;) はぅ!
あとは記録から消えて、歴史上からはフェイドアウト・・・
もしかしたら膨大な島津史料の何処かに埋もれてるかもですが、陪臣クラスとなると皆目見当も・・・(´・д・`)ハァ・・

リベンジのチャンスを掴めなかった北原氏と明暗を分けたのが、
今城落城で滅亡したはずの大河平氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_13【今城合戦---落城】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------
今城が伊東勢に降伏せずにだ玉砕を選ん理由は、史料的には判らない。
一族会議したとか記録に書いてないから。

個人的に想像するだけなら、大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、そこは自粛でwww
一つだけIFバナ言うなら「伊東義祐が人として信を置けない」の一語に尽きるだろう。
当主が死亡したのをチャンスとばかりに、
全く血縁のない当主未亡人の親族が、財産目当てに乗り込み不埒な悪行三昧。
(次期当主候補を殺したりとか、伊東に反抗しようとした家臣を騙し討ちとかとか)
水戸黄門が「もぅいいでしょ」と印籠を出し、桃太郎侍が「ひとぉーつ」と数えだし、暴れる将軍が「三位入道、ワシの顔を忘れたか」(想像し始めたら楽しくなってきたんだがwww)
と、出てくるようなベタベタの家督乗っ取りにドン引かない人はいないだろう^^;

推測だけするなら、これまた大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、キリないんで手短にwww
同じ実力者でも、伊東氏と島津氏・・・
どっちが一族の後事を託せるか・・・となると、やっぱ島津なのです。
自分が、そう思う理由を語り出すと、これまた「いくらでも話し続ける事が出来る」ので、
まぁ、ここは軽く飛ばしてくださいな(笑

地図・今城

伊東勢は北の間道ルートより攻撃を開始。
少年当主・大河平隆次は「もはやこれまで(T^T)」
と、叔父の大河平隆堅や同じ菊池氏庶流の八重尾重視らと共に城門を開いて討って出る。
しかし、衆寡敵せず、全員が討死する。


戦死者は「物語り大河平史」によると、
一族6名に家臣94名、援兵8人の計108人とある。

イベントパーティ公式発表では130人・・・(._+ )☆\(-.-メ)出典『本藩人物誌』では130名!
で、「物語り大河平史」は、この戦死者数内訳と共にに戦死者名を列記してるんです。

他と違い「物語り大河平史」だけが、やたら細かい。
もしかして~~ですが、元出典の家譜だけでなく、墓石や菩提寺過去帳とかから、
著者の方が追跡調査した内容を記述してるかもしれません。
あるいは家譜の記述通りで、いわば「大河平側の記録」なのかもです。
このあたり家譜と文献を比較することが出来ないので、何とも言えないです。

それと、内訳で気になる|援兵8人|_ ̄)じぃー
出典より原文引用:
以下は其時援兵として守居、死之士衆
橋口越後坊、春口兵左衛門、二宮兵部左衛門、仝次郎五郎、興松興一兵衛、野添新左衛門、永野仲左衛門、楠田主馬


でもって「どこからの援兵」かも書いてないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
てか7番目の永野仲左衛門って、あなた永野城の城主じゃなかったんですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
裏切ったり討死したり今城で玉砕したり、記録上で忙しい人ですな( ゚Д゚)y─┛~~
要潤に特別な方法で潜入してもらってインタヴューして欲しいwww

この援兵に関しても大河平ファンなんでいくらでも熱く妄想・・・以下略
実は妄想が爆走するのを抑えるために、推敲に時間かかったんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

監修様の追跡リサーチでも援兵8名の事は詳細不明でした。
ただ可能性として想像できるのが菊池庶流・八重尾重視って人物が、そもそも純然たる菊池庶流じゃないっぽいんです。
山之神神社(えびの市となりの小林市)由来によると、八重尾氏が土着したのって寿永3年(1184)鎌倉時代より前で、菊池氏ちゃうねんΣ(´Д`;) うあ゙
八重尾重視が養子か婚姻の関係で、大河平一族にカウントされてるかも。
となると八重尾の家臣は純然たる大河平家臣じゃなくなるから、援兵としてカウントもありえます。
(監修様のIFバナ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ)

あと永野仲左衛門が同一人物なら、伊東の攻撃で永野城落城後に脱出して、今城に入ったとか?
いずれにせよ一次史料がないので、これ以上の確認は無理で、名前が判ってるだけでも凄い事です^^;
氏名が伝承されるって事は、大河平の人々がキチンと慰霊・供養してた証ですから(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

参照文献より続き
今城の北にある第三の堀は人馬で埋まったと言う。
伊東軍も苦戦しており兵500余人を失うに至っている。
戦は卯の刻(午前五時~七時)に始まり申の刻(夕刻とあるので午後五時前頃か)まで続いた。


残った大河平城士らの妻子 は捕えられ、今城は伊東家臣・米良重方に任された。

家紋・伊東(伊東家・家紋ロゴ)

米良重方・・・須木城城主。三ツ山地頭。全国的な知名度はアレだが知勇兼備の武将。
この数年後だけど、米良が築城途中だった小林城を島津兄弟(義久・義弘・歳久)が攻撃してるんだが、
米良重方は弟と共に奮戦し、猛将・島津義弘を負傷させて撃退したという経歴の持ち主。

(義弘サァ・・・一軍の将なのに、また最前線で斬り合ってたみたいですネ・・(;´ー`))

米良重方は、更に後年の「木崎原の戦い」で伊東勢の殿軍を務めて討死してます。
その首級は島津義弘自らによる首実検後に米良家菩提寺へと返還された。

義弘「良き敵には礼を尽くすでごわす(`・ω・´)キリッ」
首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、
首が送り届けられた時の首桶は小林市指定・有形文化財です。


緑文字部分はウィキペディア参照です。
あ・・・本筋から離れてゴメン。
だって~~~名前だけしか載せないのは勿体ない武将なんだもん~~~ 川* ̄д ̄*川ポッ萌ッ 
伊東義祐・・・やり方はともかく、伊東家も最盛期なんで、伊東家臣も(・∀・)イイ!

一族6名に家臣94名・・・この討死内訳を見ると、
今城による玉砕で大河平氏が滅亡したのがハッキリと判る数字だ。

ここから先は「再興・大河平氏」のための道のりになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

大河平氏_12【今城合戦---5・総攻撃】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m


出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平氏』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平氏』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
 傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。

≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------

地図・今城

伊東勢は川(地図・川内川)を渡って大挙して城下へ迫った。
が、大河平勢が伊東勢の頭上めがけて松の大木や岩石を綱を切って落とした為、忽ちにして谷底へ折り重なって落ちた。
川は伊東勢の血の朱に染まった。
やがて攻めあぐねた伊東側は、坂の下方面へと引き始めた。


しかし、大河平勢で軽挙なる者が退散する伊東勢へ向け矢を放った。
それが屏風岩に当たってポテっと落ちた。
「ん?ヽ(。_。)、」
伊東勢の者がそれを拾ってみれば、なんと的矢(まとや)であった。


解説しよう(`・ω・´)キリッ
的矢(まとや)とは、文字通り「的に当てるための矢」でして戦闘用ではありません
神事や祭事などに使う為の矢なんです。これに手を出すということは・・・察してください・゜・(つД`。)・゜


話続く・・
伊東勢は城兵の矢玉が尽きたのを悟り撤兵を止める。
しかし今城が攻め難いことには変わりません。
そこで今城南西の上の原から永野方面へ迂回して兵を進め 、
そこにある永野城を攻撃すると城主の永野仲左衛門を捉え、案内させた。


ちなみに渓谷の関係上、ぐるっと迂回しているんですが、
地形無視で地図上のみで俯瞰すると今城の川向いの西にあったりするwww


城主・永野は
「今城は北のみ攻めやすい間道であり、他の三方は何れも要害で如何なる方法でも落とす事は叶わない。
しかし北方は第一・第二・第三と三つ堀はあるが陸続きなので、茅を刈って(堀を)埋めれば突進できる」と述べた。


永野仲左衛門は元々この地の豪族です。
永野が伊東勢を案内したとするのは『飯野古事記』が出典。
それによると、伊東に一味したために永野に住まうことが憚られ、その後は三ツ山(後の小林)に住んだとしている。


但し、『大河平休兵衛隆賢 聞書』には、伊東勢との戦いの際に永野仲左衛門は家来十名と共に討ち死にしたとある。

一方、『本藩人物誌』には、長野(永野?)仲左衛門という義弘と共に飯野入りした家臣があり、
この人物は大口城攻めで大敗した際に死去したとされている。


ウィキペディア(出典・えびの市史上巻)だと、永野城を落として捕えた城兵から、今城の情報を聞き出したとなってます。
なんか、どの説でも共通してるのは「伊東にやられて落城した」って事なんで、
基本として酷い目にあってる永野城なのでした^^;

地形を利用した天然の要害だった今城の、唯一の攻略ルートが伊東勢にバレた!!
今城の命運が風前の灯となったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
490位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
92位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR