FC2ブログ

【薩州家_島津義虎までの その六】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。


えっと~義虎のパパ・実久が出てきたところで宗家11代目・忠昌に戻る^^;

相続早々に桜島が大噴火(海底隆起で島が出来ちゃうレベル)し、
分家が謀反したり裏切ったり、日向・伊東氏の飫肥侵攻(一次と二次)と息つく間もない忠昌の治世。

伊東勢に勝利し、謀反した分家が世代交代と、ホッとしたのも束の間で、次は島津家老二人が謀反なぅ。(←鎮圧してます)
とどめに大隅の国衆・肝付兼久が謀反を起こし、この鎮圧に忠昌は失敗します  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

頑張って頑張って頑張って・・・ついに忠昌は心の底から疲れ切ってしまったのでしょう。
永正5(1508)年2月15日・・・宗家11代目島津忠昌・・・突如として自殺。享年46歳
死に臨み忠昌は、西行法師の歌を吟じた。
”願はくは 花のもとにて春死なむ 其きさらぎの 望月のころ”
旧暦の2月は現代の3月・・・忠昌は桜を見ることが出来たでしょうか・・・涙ドバーッ(┬┬_┬┬)

忠昌には正室との間に三人の息子がいました。
忠治、忠隆、忠兼・・・うち忠治、忠隆が相次いで亡くなり、庶家を継いでいた三男・忠兼が、まさかの宗家相続。
時に永正16(1519)年
で、忠兼の宗家相続前か後か時期不明ですが、薩州家の姫(4代目の娘)を正室に迎えています。

ということで、再整理~~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
①永正7(1510)年、伊作の島津忠良(後の日新斎)と薩州家三代目・重久の長女・御東が結婚
②宗家14代目当主・忠兼と薩州家4代目忠興の娘が結婚
③薩州家4代目忠興の嫡男・実久と薩州家3代目・重久の次女五女が結婚
三人揃って、正室は薩州家の姫!

つまり、縁戚関係は↓になる
伊作・島津忠良>>義兄>>薩州家・島津実久
宗家14代目・忠兼>>義兄>>薩州家・島津実久宗家14代目・忠兼

えっと・・・忠良は宗家・忠兼の義伯父になる・・・かな?( ̄ω ̄A;アセアセ

これを系図にすると↓になる
家系図・薩州家
茶枠=薩州家、緑枠=宗家(奥州家)、紫枠(伊作家)


え~~~、これに更にシリーズ初めに説明した総領五家の縁戚関係がMIXします。
総領五家(総州家(室町期に滅亡)・奥州家(現宗家)薩州家相州家・伊作家)のうち、
相州家と伊作家が一つに統合されたんです。

これは伊作家の魅惑の未亡人・美女・常盤が、相州家当主・運久と再婚したからです。
常盤に惚れ込んだ運久は、常盤を正室に迎えるために今までの正室を焼き殺すというDQNぶり。
プロポーズを断ったら何されるか・・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

美貌だけでなく聡明だった常盤は再婚の条件として
「我が子・忠良に相州家の家督ちょーだい(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪」
(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)コクコク (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン 言う事聞くから再婚して!(-人-)☆

で、この時の再婚の条件を相州家・島津運久は口約束でなくホントに実行した。
永正9(1512)年、薩州家5代目・島津実久が生まれた年に、伊作の島津忠良は相州家の家督を継ぐ。
てことで歴史の篩にかけられた島津氏総領五家のうち、残ったのは宗家(奥州家)薩州家伊作家(相州家込)の三家なのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州家_島津義虎までの その五】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。

  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。


第二次飫肥の役は文明17(1485)年に起きます。
前回、記録が錯綜するほど混乱したと書きましたが、記録が錯綜したのは大乱たっただけでなく、第二次が翌年だったのも一因があるように思います。

第二次の時は島津側が勝利しました。
それも敵側主力である、伊東氏と北原氏の当主が討死という大勝利(=^・ω・^=)v ブイ
島津勢が敵側本陣を奇襲したのが成功したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

んで、味方同士の大ゲンカで逆切れして伊東側に寝返ってた島津の分家・・・
伊作の島津久逸ですが、彼もまた敗れて降伏し、領地である伊作に大人しく?引っ込みました^^

延徳4(1492)年9月23日~伊作で島津忠良が生まれます。
生母は魅惑の美女・常盤~久逸からみて忠良は孫にあたります^-^
同年?月?日~豊州2代目が死亡。
明応3(1494)年~相州家初代が死亡。

宗家当主・忠昌に対し過去に反旗を翻した分家当主たちが、相次いで亡くなり分家当主は世代交代したわけです^-^

明応8(1499)年~薩州家2代目・国久(59歳)が、戦国世紀末を前に死亡(´;ω;`)ウッ
とたんに薩州家では家督を巡り御家騒動になった・・・らしい!!

「らしい」としか言えないのは、戦国末期に滅んだ薩州家の記録が少なくて詳細が不明だから^^;
こういう諍いって急に始まるものじゃないから、おそらく国久生前から内輪で揉めてたはずです。
が、記録がないんで、どんな経緯があったのかは判ってません( ̄ω ̄A;アセアセ
ウィキペディアでは「(島津の)分家を巻き込む騒動」とあります。


で、巻き込まれた島津分家というのが羽州家と伊作の島津久逸です。
詳細は不明ながらも、結果と縁戚関係からシオ推測しますと・・・
どうも薩州家3代目・重久と息子で4代目の忠興が、家督か実権かは判らないが親子で争ったみたい。
で、勝ったのが息子(亡き2代目国久からみて孫)忠興~~(=^・ω・^=)v ブイ

勝ったのがハッキリしてるのは、島津忠興が伊作・島津久逸との合戦で勝利しているから
宗家を裏切ったり、分家の御家騒動に首を突っ込んだりと、はた迷惑な島津久逸59歳は、この時に戦死します。

で、こういうのって尾を引くじゃないですか。
で伊作との和解?と薩州家親子の和解?かな~って感じで婚姻関係になってるんです。

生没年からの類推でいくと・・・
まず、伊作の島津忠良(後の日新斎)と薩州家三代目・重久の娘が結婚
次に薩州家4代目忠興の嫡男・実久と薩州家3代目・重久の娘が結婚

それぞれの婚姻時期は不明ですが、国久死亡が1499年で忠興嫡男・実久が生まれるのが1512年。
実久が嫁とりできるくらいの年齢となると、国久死亡から20年以上、重久~忠興の親子間はギクシャクしてたんでしょう。

で1492年生まれの島津忠良(義兄)と1512年生まれの島津実久(義弟)との年齢差を考えると、
忠良に嫁いだ姉と実久に嫁いだ妹は、20歳以上年齢差があると思います。
ちなみに薩州家3代目・重久は、天文5(1536)年9月15日に亡くなって(享年73)まして、大永5(1525)年に40歳で死んだ息子・忠興(4代目)より長命してます。(出典:鹿児島県史. 別巻・諸氏系図より)

ん~~~となると実久クンは13歳の時にパパ忠興が死んだのか。
てことは、実久と重久娘との結婚は、忠興死後に決まったかもです。

さぁ~ここまで読んでて気づいた人はいるかな?
そうです。
薩州家5代目・島津実久は、実の叔母(父・忠興の異母妹)と結婚し、
その二人の間に生まれたのが島津義虎なんです。

次回~カオス系図が登場~~それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州家_島津義虎までの その四】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。


自分はドン久豊以降の島津氏奥州家(宗家)当主では、忠昌が一番好きです。
頑張って頑張って、ついに力尽きた悲運の当主だと思います  (゜-Å) ホロリ

文明8(1476)年、薩州家2代目・国久が島津宗家11代目・忠昌に叛旗を翻し挙兵!
これに豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応した。


えっと~忠昌から見る親戚関係におきかえると・・・
父の従兄弟(薩州家2代目)が謀反して、それに伯父(相州家初代)と祖父の弟(豊州家初代)が便乗しましたとさ♪

挙兵した薩州家2代目・国久は、大隅国分城に侵攻したんですが、忠昌が援軍に駆け付けると撤退しました。
宗家当主といっても若年です。
忠昌の年齢(数え14)と経歴(元々僧侶、父の死去で還俗し相続)から推測するに、これが初陣っぽい。

薩州家の国久が謀反したのは、宗家と政治的に対立したからなんですが、
数え14歳の忠昌と個人的でも政治的でも遺恨があるとは・・・ちょっと想像しづらい。
だから宗家宿老の方針に対立したんじゃないかな~~と、。
それなのに少年当主・忠昌が出陣してきたんで、本意じゃなくて撤退したのかな~~と。
想像ですよ。想像♪

他の分家も挙兵したため、忠昌は一時は伊集院に避難したんですが、相州家が鎮圧されると豊州家も降伏。
が、薩州家2代目国久は兵は引きあげたけど降伏もしない半独立状態になります。
この戦国初期の時点で、宗家には薩州家を武力で押さえつけるだけの力がなかったのでしょう。
もう他人と思って割り切るしか・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

日向飫肥城を巡って伊東氏とガチンコに突入するのは、忠昌の代から始まります。
もともと若年が当主になった~~ヒャホーイ♪ヽ(*´∀`)ノチャンス到来っとばかりに伊東氏がムズムズしはじめまして、
それに対応するために家臣で島津支流の新納(にいろ)氏と伊作の久逸(忠昌の叔父)が、日向へ派遣されてたんです。

ところが伊作・島津久逸と新納が味方同士で大ゲンカ!!Σ(´Д`;)マジかよ
色々重なって怒りのあまり伊作・島津久逸は日向・伊東氏に寝返る! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
文明16(1484)年「第一次飫肥の役」は、伊東祐国と島津久逸の連合軍による飫肥城攻撃で始まる
これに呼応し国衆である祁答院氏、入来院氏、菱刈氏、北原氏が蜂起したので、たちまち大乱。
結果として飫肥城は新納が守りきるんだけど、実は一度落城してるとか、してないとか、記録が錯綜するほど混乱したらしい。 
というのも、亡き父の従兄弟である豊州家2代目・忠廉までが忠昌に叛旗を翻したから (゚ロ゚屮)屮 えぇっ!

この状態を憂いて動いたのが、半独立状態で超然としていた薩州家2代目・国久です
国久~~~カッコイイので大文字なのです (人´∀`).☆.。.:*・オジサマ素敵♪
国久は水俣の相良為続(12代目)を訪ね、二人で豊州家を説き伏せて宗家当主・忠昌に帰順させることに成功します。

この飫肥の役の頃、忠昌は22歳の若者に成長していました^-^
が、心労からか病身多病でして、京都から名医・竹田法印昭慶を招いて療養中でした。
そんな状況で忠昌は大乱鎮圧のために、名医のドクターストップを振り切り、出陣しています。
忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや!」
と医者のドクターストップを退けています(出典:島津歴代略記)


薩州家・国久が、忠昌の状況や島津当主としての覚悟を何処まで知っていたかは、判りません。
ただ、薩州家ファンの妄想としては、
知った上で忠昌を当主として認めて、豊州家の帰順説得に動いたんだ~と萌える夢を見たいところです 川* ̄д ̄*川ポッ

つまるところ、忠昌と国久に萌えなんですな( ゚Д゚)y─┛~~
島津の混乱は、まだまだまだまだ続くのだが、それは・またの話 by^-^sio 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州家_島津義虎までの その参】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきウィキペディアやサイト武家家伝参照です。


カテゴリ薩州家編全18話をどこまで圧縮できるか、自分との闘いなシリーズです(爆

島津氏(奥州家)11代目当主・島津忠昌
ウィキペディアには『若年(12歳で継いだ)であったため島津氏内部で内乱が発生し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる』
と簡素に書かれているが、内乱が発生したのは若年だけが理由ではないと自分は推測してます。

忠昌が若年だからではなく、忠昌を後見するシッカリした人物が不在だったからだと思います。
祖父(9代目・忠国)と父(10代目・立久)が亡くなった以上、頼るのは生母の父・・外祖父が穏当な流れなのですが、
側室(茂山夫人)だった生母の父は島津家臣でした。

やはりウィキペディアに忠昌生母は『茂山夫人(梶原弘純の娘)』とあるんですが、梶原弘純は島津史料である『本藩人物誌』に載ってないんです。
別の二次史料ですと忠昌外祖父・梶原弘純は、義経と不仲で有名な梶原景時の三男の子孫ということで、1545年加世田城の合戦で戦死となっているそうですヽ(。_゜)ノ
えっと・・・1508年に46歳で死んだ忠昌より長生きで戦死って、人間の寿命を超えてるような・・・ゲフゴホ
とにかく島津家臣という事以外は来歴不明で、『本藩人物誌』にも載ってないとなると少なくとも門閥とか名族の出ではなさそうです。

庶子だった忠昌は家督を継ぐ前は僧侶だったので、そもそも島津当主となるための教育を受けていません。
ですから子弟教育の過程で、当然いるべき乳兄弟や遊び相手(将来の幹部候補)もおらず島津家中の人間関係の中では孤立してたと思います。
また島津宗家宿老といえど、実力者揃いの分家当主を家臣の立場でコントロールするのは・・
まぁ、無理だったから「国中騒乱」になったんでしょうね。

正室には大友政親の娘・天真夫人を迎えてます。
大友は島津家中の内紛に、ちょっかい出してたようなので、その和睦で政略結婚したのか?
政治背景が乏しい忠昌の立場を補完するためだったのか?
両方の意味だったのか?
駆け足で齧っただけの自分レベルでは判断できませんです。

ただ大友家も家中を真っ二つに割った親子で争う壮絶御家騒動でグダグダになり、立ち直るのに時間かかります。
それで縁戚として極端に深入り介入されるのは、回避できました( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに不運だったのは忠昌が相続して間もない時期に天変地異が相次いだことです。
その天変地異とは、桜島の文明大噴火です。

まず忠昌クン相続前から桜島の噴火が始まってます。
文明2(1470)年1月20日に9代目忠国が死亡
文明3(1471)年9月12日~桜島大噴火(『北側文明溶岩流出』死者多数)
文明5(1473)年?月?日~桜島噴火
文明6(1474)年4月26日に10代目立久が死亡
文明7(1475)年8月15日~桜島南西部で噴火(『南側文明溶岩流出』死者多数)
文明8(1476)年9月12日~桜島南西部で大噴火で死者多数。
海中が二里余り埋まり、沖小島と烏島が形成される。


ほぼ隔年で噴火している上に、合間に宗家当主が二人死亡で次の当主が若年。
とどめで地形が変わるレベルの大噴火で、国内の人心が不安定にならないはずがない。

この地形変化した大噴火の年に薩州家二代目・国久が忠昌に叛旗を翻し挙兵!
薩州家の謀反に豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応する。

それぞれの細かい挙兵時期は不明です。
この時 忠昌は数え14歳。
年齢からいって11代目・島津忠昌の初陣は、叔父たちとの闘いだったと思われるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州家_島津義虎までの その弐】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきウィキペディアやサイト武家家伝参照です。


え~島津の数ある分家の中で、自分が一番好きなのが薩州家です~川* ̄д ̄*川ポッ
既に過去にカテゴリ作ってドップリ記事にしているんですが、好きなんで何度でも書いちゃうです(爆

宗家の地位を巡って争う島津氏の総領五家「総州家奥州家相州家・伊作家・薩州家
元々の宗家だった総州家は、奥州家に敗れ室町期に滅亡したので、家督を巡る争いは残りの四家となりました。
新たに宗家となった奥州家から赤色文字の三氏が派生します。

赤色文字・三氏のうち宗家と匹敵する実力を保持していたのが薩州家です。
てことで萌えるピンク色文字 川* ̄д ̄*川ポッ 

判りやすく言うと、宗家という器に入っている中身が
室町中期~戦国中期まで奥州家
戦国中期~戦国末期以降、伊作家
であるのに対し、宗家と拮抗し争うのは、常に薩州家なのです。

島津宗家が薩摩国守護職であるのに対し、薩州家は薩摩国守護代の家柄。
薩州家の本貫地である出水(鹿児島県出水市)は、鎌倉期に薩摩国守護所があったという、実に由緒ある土地でございます(-人-)☆彡

宿命の家・・・薩州家は、その誕生も特殊でした。
初代である島津用久は、宗家(=奥州家)当主・忠国の長兄だったんです。
兄が宗家当主になることが出来なかったのは生母が側室・・・庶子だったから。

で、、、御家騒動にありがちなんですが、
庶長子である用久の器量は実弟(嫡出子)で当主である忠国を上回ってたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
何せ忠国が手こずった薩摩国人一揆を、用久が鎮圧しちゃったくらいですから( ̄ω ̄A;アセアセ
(そのあいだ忠国は処置を兄貴に丸投げして妻実家に退避しちゃってた)

そのため忠国の方が「兄貴は宗家の家督を狙ってるに違いない!!」と疑心暗鬼になり兄と激しく争います。
時に室町将軍は六代目義教なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
忠国は苛烈なことで「万人恐怖」を言われた足利義教を味方につけることに成功し、兄との争いに勝った(=^・ω・^=)v ブイ

用久は宗家から離れ分家・薩州家初代となります。
兄弟和睦の証として忠国の嫡男・立久に、用久の娘が嫁ぎました^-^

が。。。どうも忠国は終生兄に心を許さず油断できない男と警戒し続けていたようです。
まぁ優れた兄への嫉妬もあるんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

忠国は嫡男・立久が成人し孫が生まれても頑として家督を譲らず、死ぬ(1470年)まで現役席にしがみ続けた。
といっても丸っきりの頑固ジジーなわけでなく、嫡男・立久は当主としての実務には携わってたそうです。

が、嫡男・立久が実質当主として活動を始めるのは、忠国の兄にしてライバルであった用久が死んだ年(1459年)からでして、、、、
総州家を破って覇者となった偉大な父・久豊と、庶子でなければ当主の器であっただろう優れた兄・・・家庭の事情が複雑で庶民シオには窺い知れないイロイロあったかと・・・(´・д・`)

という波乱の幕開けだったのに、忠国は更に複雑にしちゃいました。
え~~~言いづらいけどちと家族計画に失敗したんですぅ ( ̄ko ̄)

わずか数カ月の差で庶長子(友久)と嫡男(立久)が生まれちゃったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
忠国ってば~自分もソレで苦労したのに、子供たちまで同じ状況にしちゃった!Σ(´Д`;)はぅ
長男の友久は、立久と同い年でありながら庶子であるがために家督が継げず、分家して赤色文字の相州家初代となります。

忠国が死ぬまで家督を譲らなかったのも、子供たちのこともあるかもしれませんが、これは忠国本人だけしか判らない胸中の事でしてナントモカントモ・・・(´・д・`)

立久の代で応仁の乱が始まり戦国乱世に突入するわけだが、立久の代は分家と上手く行ってたようで、応仁の乱にも分家と協力して対応してました。

問題は立久の次。

立久が庶子・忠昌を残して43歳という働き盛りで死去した。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
更に不味いことに側室だった忠昌の生母は分家とかじゃなくガチ家来筋で、ほんとに身分が低かったらしい。
そのため父である立久も家督相続候補としては想定外で、あらかじめ忠昌を出家させてたんです。

立久死去により忠昌は急きょ還俗・・・時に数え12歳!!!( Д )  ゚  ゚
庶子で僧侶あがりの若年当主・忠昌クンは、
島津一族として自分より遥かに毛並が良い分家の叔父様たち
に囲まれる事になったのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR