FC2ブログ

【ホタルノヒカリ・前篇】柳川藩初代藩主編8栞79

にほんブログ村 地方・郷土史
京極高次(きょうごく たかつぐ)6万石大津城主~1563年産まれの満37歳~近江の名門・京極氏出身。

彼は「本能寺の変」の後に明智光秀に味方し、光秀が羽柴秀吉に倒されると柴田勝家に保護される。

という、ちとフォローに困る人生を送っている。

だが高次の妹(姉説あり)竜子が、秀吉の側室になったお陰で処分を免れた。

さらに秀吉の命令で浅井姉妹の次女お初と結婚すると、妻の姉・茶々が秀吉の側室となり、更に秀吉の子供を産む。

高次が大名に返り咲いた時、それなりにある高次の軍歴を誰も評価しない。

代わりに、女の尻の光(閨閥)で大名になった「蛍大名」と、あだ名を付けて哂った。

慶長5年(1600年)6月18日~徳川家康は会津征伐の途上で高次の大津城へ宿泊した

このとき高次は、家康に従がうことを約定したと伝えられている。

高次は名門・京極氏を存続させるため、今度こそ勝つほうへ味方しよう!と張り切っていた。

同年7月17日~石田三成が徳川家康を討つ為、大坂で挙兵

ふたを開けて戦となったら、大津城の高次の周囲は石田三成の味方~西軍だらけだったΣ(´Д`;) うあ゙

(※大津城は琵琶湖のそばの水城です)

これではどうしようもない~とにかく弟・高知を東軍に参加させ、自分は西軍に参加することにした。

同年7月22日~石田三成が大津城の高次を訪問~高次は歓待し、三成を安心させる

本心では東軍の高次は、三成から聞いた西軍の顔ぶれなどを、全て家康に報告していたそうな。

三成が挙兵して以降というもの、

家康から⇒大津城を「東軍の拠点」として堅守するように~~と たびたび書状が来るし、

石田三成からも⇒「西軍に味方」してね~と再三、言って来る。

このまま中途半端でいると、どっちからも敵認定されてしまう~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

高次は三成の命令で、大谷吉継の与力として軍行動することになった。

同年9月1日~京極高次は、大谷軍と合流するために大津城を出発~

翌日9月2日~越前に入っていたのだが突然Uターン。またまた大津城に引き返してしまう(船を利用したので早い

この時に越前まで入ったのは、大谷吉継の動きを家康に報告するための下見だったらしい。

8月中は関が原本戦の前哨戦が各地で勃発~ 

石田三成と徳川家康は美濃へ移動しつつあり、本軍が移動する・・・ということは「決戦が近いな」って想像がつくのでUターンしたんです^^b

9月3日~石田三成が大垣城を出陣した日に、京極高次は大津城へ帰還・籠城を始める!





京極高次は徳川家康の家臣・井伊直政に「西軍を足止めするために籠城します!頑張ります!(`・ω・´)キリッ」と手紙を書くφ(.. )カキカキ~

妹夫妻が籠城すると聞いて、姉の淀君は驚いた。

なんとか助けたいと思っても、お姫様育ちの彼女には政治的手腕はない。

淀君は北政所(秀吉の正室)に助けを求めた。

北政所は、自分の秘書№1で諸大名にも顔が利く孝蔵主(こうぞうす)を派遣した。

が、ここが踏ん張りどころの京極高次は、和睦案を拒否!

彼は籠城準備に余念がなく、使者は虚しく引き上げざるをえなかった。


この大津城の裏切り(西軍から見て)を、一番に発見し報告したのが立花宗茂だった。

大谷と合流してるはずの京極の裏切りに、石田三成は死ぬほどビックリ!~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

7月に会った時、あんなにニコヤカに接待してくれたのは何だったんだ~~

本戦に向けて兵力が一兵でも多く欲しいというのに、三成は大津へ兵力を割く羽目になる。

9月7日~大津城を西軍17000が囲み攻撃が始った!

大津城攻撃~
大将は末次元康(毛利元就の庶子で毛利輝元の伯父・毛利家の補佐役の一人)
武将たちは 立花宗茂(弟の統増も一緒よ)筑紫広門、毛利秀包(同じく毛利元就の庶子)など西国の生きのいい精鋭揃いだった。
さぁ、関が原本戦まで残りわずか!

蛍大名とバカにれてた京極高次が男の意地を見せるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

【名将の弟】柳川藩初代藩主編7栞78


立花直次(たちばな なおつぐ)~名将・立花宗茂の実弟にして三池藩、藩祖。
(藩祖・はんそ⇒一般的には初代藩主のダディ)

上記の名前は2代将軍秀忠の勧めで改名したもので、元々の名前は高橋統増(たかはし むねます)

彼の逸話は兄に比べて極端に少なく、もっとも知られているのが岩屋城前篇で紹介した、妻との結婚エピソードだ。

この夫妻はラブラブ・ハッピーエンドが通説なのだが、異説として離婚説がある。

                     


兄・宗茂と弟・統増は5歳違い。 

宗茂は生まれながらの大名ではなく、大友の家臣・高橋家に生まれたので、弟とは同じ屋敷で育った。

宗茂は、この弟が可愛くて堪らなかったらしい。

自分のすることを何でも真似しようとし、どこへでも付いて行こうとする小さな可愛い弟・・・

兄・宗茂が立花家へ養子となった晴れの日、まだ子供の統増は涙を堪えて見送ったに違いない。

1586年(天正14)7月27日~父・紹運が岩屋城で戦死した時、統増は15歳だった

彼は、この年の2月に結婚したばかりの妻(加弥姫)と共に、宝満山城を守っていた。

統増は北上してきた敵・島津軍による降伏勧告とともに、岩屋城の玉砕を知らされる。




岩屋城で紹運が籠城すると聞いた時から覚悟はしていたが、実際に島津の大軍が押し寄せ、しかも敵から岩屋落城を聞いた宝満山城内は動揺した。

特に妻の実家・筑紫家の家臣がパニックを起こす。

妻の父~つまりは舅の筑紫広門(つくし ひろかど)は、岩屋城で奮戦してたのだが力及ばず降伏~島津軍の人質となっていたのです。

帰るべき城と領地を失い、さらに主は人質~筑紫家臣に落ち着けと言っても無理だろう。

高橋家臣たちは「筑紫の者が裏切り、島津軍を手引きするではないか?」

と疑ったそうだから、その混乱ぶりが想像できる。 

内部で揉めはじめたら籠城戦なんて無理!15歳の統増には荷が重すぎた(_´Д`)アイーン


一方の島津軍も「城攻めは岩屋城でチト懲りたぉ~降伏してくれるとマジ助かる」状態だった。

そこで「城内に乱暴しないよ~全員助命するよ~」と悪くない条件を提示。

宝満山城側は「城主夫妻(統増と妻・加弥姫)を立花城へ退去させる」を、付帯条件に降伏することにした。

ところが条件を了解したはずの島津軍が、城から出た統増夫妻を捕らえてしまう!Σ(´Д`;) うあ゙

1586年8月6日~高橋統増夫妻が、島津軍の人質となる!

残った宝満山城の家臣たちは茫然~どうしようもなく降伏するほかなかった。

島津の行動には「島津上層部と家臣間の連絡ミス」と「戦だ!空請文は当然でごわす!と開き直った」の2説あります。

卑怯にも騙し討ちした島津軍だが、彼らは彼らで本当にに急いでいて焦っていたんです。

さらに北上した島津軍は、統増の兄・宗茂が守る立花城に迫りました。

何度も言ってるが宗茂はムコ殿!「実弟を助けたい」という個人的感情を出すことはできない。

それに立花城は主君・大友氏の筑前における重要な拠点。ここで敗北するわけには行かない(`・ω・´)キリッ

宗茂の籠城戦は20日間に及んだ。


立花宗茂

島津軍・総大将の忠長は、宗茂が優れているとはいえ、所詮・20の若造と舐めていた。

宗茂は単に城に籠もるだけでなく、奇襲をかけて島津本陣にまで肉薄したり、「降伏します」と嘘を言って時間を稼いだり~

と、島津軍を巧みに翻弄した。

そして遂に島津軍の元に関白・秀吉の「援軍が来る」という報告が届き、タイムアウト!

島津軍は撤退を余技なくされる。そう紹運に二週間粘られたタイムロスが最後まで影響したんです。

秀吉が徳川家康を臣従させることに成功し、やっと身軽になって九州征伐に来るのは翌年の4月。

その間、ず~~~~~~~~~~~~っと!弟・統増夫妻は島津の人質のままだった^^;

宗茂は愛する弟を助けたい気持ちを押し殺し黙々と戦い続け、奪われた岩屋・宝満山城を奪い返す。

1587年4月1日~宗茂は筑前の戦況報告のために、重臣・薦野増時(こものますとき)を秀吉のいる豊前へ派遣する

関白・秀吉は、自分の援軍が遅れたせいで宗茂の実父が死に、さらに弟夫妻が捕虜になったままなのを不憫に思っていた。

やってきた薦野増時に島津との交渉を命じる。

この交渉が見事成功!統増夫妻は10ケ月に渡る人質生活から解放される。

ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ←小躍りする名将~宗茂の喜びは大変なもので、薦野に立花姓を与えたのです。


立花家紋

弟夫妻の離婚説は、兄弟の父が戦死した岩屋城にからんでます

舅の筑紫広門が島津の人質になった時に、岩屋城の秘密を島津へ洩らした・・・このことを知った統増と妻の仲に亀裂が走って離婚したのだ・・・という異説

岩屋城は単独で戦う城ではなく、宝満山城と防衛シフトを組んで戦う城だ。

だから「岩屋城を捨てて宝満山城へ引き上げて~」と宗茂らが紹運の籠城を止めようとしてたの。

従って「岩屋⇔宝満山城」間には、連絡用の秘密の間道があったはずなんです。

筑紫が漏らす秘密となったら、その間道か、もしくは城の水脈の位置のいずれかだろう。

とはいえ「そのヒミツを筑紫が洩らしたのか?」となると、そこが疑問なんです^^;


人質になってた筑紫は、島津撤退で隙が出たのを幸いと、幽閉先の寺から自力脱出。

島津に奪われた城と領地を自力で奪還し、秀吉から大名に取り立てられてます。

その後は、ずっと立花家の与力大名として側にいて、関が原でも一緒(もち統増も一緒)

弟夫妻はポンポコ5人の子宝に恵まれて、いつ揉めてるんだ???(-ω-;)ウーン

てな感じで、夫妻が本当に離婚したかどうかも判らない異説なんです。

できれば弟夫妻には通説とおりのラブラブでいて欲しいし、筑紫裏切り云々の噂が実際に出たのだとしても、そのピンチを乗り越えて夫妻は絆を強めたと思いたいです。


統増「父は忠義を貫き城を枕に死に、兄は父に恥じぬ活躍してるのに~~~~~・゜・(PД`q。)・゜・(激ウツの人質生活10ケ月」

不可抗力とはいえ、人質になったことは統増にとって大きなトラウマになった。

統増は、父の応援ができず死に遅れたことを悔やみ続け、殉死も考えるほど思いつめたようです。

やがて立ち直った彼は、父が死を持って教えた「忠義」と「本気で戦う」ことを継承しました。

統増は「二度と後悔しないために」常に激戦地・最前線で戦い、兄・宗茂を助けます。

やがて名将・宗茂が「我が弟ほど大剛のものはいない^-^ニコニコ」と、手放しで自慢するほど優れた武将に成長しました。

弟は亡き父に勝るとも劣らない、名将の兄・宗茂を生涯、師父に接するがごとく敬っていたそうです。

さて、名将・宗茂の人となりを御理解いただくために、彼の家族・周辺の人物を長々紹介させて頂きました。

いよいよ宗茂の関が原に戻ります「次回、蛍の光・大津の意地」それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

【壮烈・岩屋城~後篇】柳川藩初代藩主編6栞77


天正6年(1578)に起きた「耳川の戦い」で大友氏は島津家に大敗した。

第一線の前線指揮官が悉く討たれ、大友氏は軍としては壊滅的な打撃を受ける。

各家で当主を失った後を継いだのは、下は4・5歳~上は18・9の少年たちだ。

それから8年~子供だった彼らは若武者へと成長した。

紹運からみればヒヨッコだが、島津本軍という大嵐が来た以上、迷っている時間はない。

紹運は主君・大友氏の未来を、息子たち若い世代に託した。

天正14年(1586)7月27日~島津全軍による岩屋城・総攻撃が開始される

紹運の息子・立花宗茂の元から、志願して岩屋城へ援軍に入った吉田右京はじめ20数人。

彼らは岩屋城の砦の一つを任されていた。

通常、他家から援軍が入ると守りのリズムが崩れ、そこが攻撃側の狙い目になる。
(野球とかで交代したばかりの野手が狙われるみないな感じ)

生きて戻れないのを承知で志願しただけあって、吉田隊は崩れることなく砦を守り抜いていた。

だが、この総攻撃の日、流石に力尽きて全員討ち死にする。戦後、宗茂は吉田の遺族を厚遇しています。



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

さて岩屋城兵のなかに屋山太郎次郎という、まだ13歳の少年がいた。 

女子供は退去~の命令が出ていたのだが、少年は父に無理を言って城に残り、まだ子供の息子が残ったので母親も城に残った。
(父が家老だったので無理が通ったらしい)

総攻撃の日、父が戦死したことを知った太郎次郎少年は、母親が止めるのを聞かずに、単身で島津軍の中へと斬り込んで行った。

島津軍も、向かって来たのが子供だと気づき、さすがに殺すのは可哀相だと、捕虜にしようとしたのだが少年は拒み激しく抵抗。

島津兵は「ならばせめて苦しまぬようにいたそう」と一太刀で太郎次郎少年を絶命させた。

様子を遠望していた母親は、息子の死を目の当たりにして、その場で失神。

母親の手には、太郎次郎少年が母の手を振り払ったときに引き千切れた片袖が、しっかり握られていたそうだ。

ちなみにこの片袖は今でも子孫に伝わっているそうです。

岩屋城跡の石碑に刻まれた戦没者名には、父と共に太郎次郎少年の名も刻まれています・゜・(PД`q。)・゜・


籠城戦というと、一般的には城側から脱走兵や裏切りが出て、内部崩壊し落城するのが常。

だが岩屋城では、それらが全く無く、城主以下一丸となって抵抗を続けたため、凄まじい激戦となったのです。

紹運は数珠を片手に亡くなった家臣のために読経をしつつ、自らも刀を振るって戦った。
(城主自らが最前線で戦う時点で、籠城側としては詰まれた状態、通常なら降伏してるレベル)

が、圧倒的兵力差は根性では埋められない。砦が一つ、また一つと落とされ、遂に水の手を断たれた!

「水の手を断つ」とは、飲料水などに使う井戸のある場所を制圧されるということです。

水が無ければ人は生きていられない。

ましてや残暑の時期だ・・・籠城側の体力は一日と持たないだろう。もはや戦闘続行は不可能。

そして遂に大手門が破られ、どっと本丸へ島津軍が雪崩れ込むに及んで、紹運は矢止め(やどめ=停戦)を島津軍に申し入れた。

降伏するためではない・・・自害のための猶予が欲しかったからです。

高橋紹運~切腹・享年39歳

紹運の介錯をした家臣も、主君の首を落とした刀で自害

岩屋城兵763名~ほぼ討死。生き残った僅かな家臣も捕虜になるのを拒み、その場で自害し全員が玉砕した


島津家紋

島津軍6万~死者3000名!重軽傷者1500名以上!

わずか763人しか守備していない岩屋城に、2週間も足止めされたあげくの大損害。

これでは勝った喜びより、籠城戦が終った安堵感の方が遥かに上回っただろう。

総大将の島津忠長は「宿敵・大友の重臣を討ったのだ。このあとは直ぐ終るだろう・・・」

と自らを慰めるしかなかった。

岩屋城の周辺は死体の山で、文字通りの死山血河状態だったが、とにかく作法通り首実検が行われた。

その時、紹運の遺体を改めていたら、総大将・島津忠長あての手紙があった。

紹運の手紙「忠義のためにしたことです。どうか御理解いただきたい


(´;ω;`)ブワッ・・・・手紙を読むと島津忠長は、その場で崩れ落ち号泣した。

忠長「あぁ!なんと惜しい武将を失くしてしまったのだ!友であったならば、どれほど楽しく酒を酌み交わすことができただろう!弓矢を取る身であることが恨めしい!・゜・(PД`q。)・゜・


島津軍は、紹運の遺骸を丁重に弔ったそうだ。



負けた岩屋城と勝った島津軍、双方にとって熱く長い2週間が終った・・・

だがこれで島津軍の北上が止まったわけではない。

関白・秀吉は(まだ)徳川家康と外交交渉中で、大友に対する援軍の目途が立たないままだ。

若き名将・立花宗茂には、実父の壮絶な死の上に更なる試練が待っていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

【壮烈・岩屋城~中篇】柳川藩初代藩主編5栞73

この岩屋城編はハンケチ・テッシュ無しでアップできません・゜・(PД`q。)・゜・
時々、目から滝汗が出てPCの文字が霞むぉ・゜・(PД`q。)・゜・
にほんブログ村 地方・郷土史

前回、書き洩らしましたが、秀吉の要請で黒田官兵衛も城を捨てて退去することを勧めていました。

ですが、その申し出も断り紹運は籠城を決意したのです。



籠城した岩屋城は、島津軍6万を足止めするための囮となりました。

とはいえ岩屋城そのものは小規模な(ほんとに小さい)山城だ。

島津軍にスルーされずに引き付けるには、彼らが飛びつくエサが必要。

それが大友氏の有力家臣・高橋紹運(たかはしじょううん)と、島津から寝返り紹運と同盟した筑紫広門(つくしひろかど)だった。

天正14年(1586)7月14日~島津軍の岩屋城に対する攻撃が開始された

筑紫は岩屋城の出城を守り5日間粘ったのだが、岩屋城との連携を断たれ孤立。

さらに激しい戦闘で息子(兄弟説あり)が戦死してしまう。

大友氏という主君持ちの紹運と違い、筑紫は小なりと言えども独立した勢力だ。

息子が死に、自分まで死んだら筑紫家の嫡流が絶えてしまう。やむなく島津軍に降伏し人質となった。

一方、岩屋城に籠城した763名(立花家からの応援20数名含む)は、はなから死ぬつもりで残った男たちだった。

彼らの目的は惟一つ!囮となって一人でも多くの島津兵を倒すこと!

関白・豊臣秀吉は徳川家康と外交の駆け引きから抜けることができないので、岩屋城への応援は(近々は)来ない。

だが九州の大名のなかで、早くから秀吉に帰順していた大友氏を助けず滅びるようなことがあれば、成立して間もない豊臣政権の権威・信頼は失墜してしまうだろう。

だから自分たちが粘り時間を稼げば、主君・大友氏を助けるために(いつか)必ず秀吉の援軍が来る。

援軍さえ来れば、宝満山城へ逃した岩屋城兵の妻子・一族の命は助かるのだ。
(紹運、彼の妻も次男が守る宝満山城へ避難していた)



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

一日でも一刻でも、とにかく長く戦い続けること。 

「主君・大友氏への忠義と、宝満山城の妻子・眷属の命を救う!」その一念だけが、籠城する人々を支えた。

大軍の島津は次々新手を投入し、昼夜交代で間断なく攻め続けることができるが、岩屋城兵に交代はいない。

島津の攻撃が止んでも、城の補修・補強や矢玉の補充作業のため働きづめだ。

籠城側の彼らは、睡眠どころか満足な休憩もとっていなかっただろう。 

体力の限界は遥かに超えて、気力と執念だけで戦い続けていた。


一方、攻撃側の島津軍も士気(しき=テンション)が落ちて来た。

筑紫のいた出城を占拠し捕獲~外郭まで攻めることが出来たのだが、そこから先に進まない(_´Д`)アイーン

攻撃しては防御され~の繰り返しでキリがないのだ。

攻撃は旧暦の7月で残暑厳しきおり~って季節。

うだるような暑さと、むせかえるような血の匂い。  

激しい戦闘で片付け切れない死体から凄まじい腐敗臭が漂い、さしもの島津兵も気が滅入ってくる。

かといって今さら攻撃を止めるわけにもいかない。

6万の大軍で、山城一つ落とせなかったら、島津軍は物笑いの種だ。

軍事力で押さえ込んでた国人たちも反抗してくるだろう。

このころ島津軍の中で若干20歳の名将・立花宗茂の実力を知るものはおらず、紹運さえ倒せば雷神道雪亡き後の大友氏攻略は簡単に終ると考えていた。
(それは大きな誤解で島津は、後に宗茂の強さを思い知ることになる)


島津家紋

7月26日~島津の使者・新納蔵人(ニーロ クロウド/カタカナで振り仮名入れると帰化した外人みたいだが日本人です)が岩屋城へ降伏勧告をした

ちなみに親指武蔵の新納さんと同族です^^/

新納「大友は耳川など無用な戦を起こし、さらに家臣の多くも離反しているではないか。わが主・島津義久は信義を持って人に接し、民百姓は安んじて暮らしています。ここまで戦い紹運殿の武士の面目は果たされたことでしょう~~領地安堵・城兵の助命を条件に降伏しませんか?

紹運の返答「大友は衰えたと言えど未だ健在です!島津は以前は一国の統治もままならなかったではないですか。今でこそ勢いあるが関白の援軍が来たらどうなるか判りませんよ。使者殿は主君の強いときだけ忠義を尽くし、主君が衰えたら見捨てて逃げるのですか?武士たるもの恩義を忘れたら畜生にも劣るでしょう(`・ω・´)キリッ

この紹運の堂々たる返事に、使者・新納は言い返すことが出来ず、引き上げるしかなかった。

報告を洩れ聞いた島津軍の間からも、紹運に対する賞賛の惜しみない声があがったそうだ。

同日夕方~今度は僧侶・快心和尚が使者として岩屋城へ来た

快心和尚「もはや降伏しろとは言いません。和睦しましょう~~岩屋城・立花城・宝満山城の領地は安堵します。実子のどちらかを人質として出すだけでOKです~~(-人-)☆彡願~

紹運の返答「NO!いまさら息子を人質にして自分が助かるなど、武士の面目を失います。大友に余力はないので主君からの援軍は来ません。だから関白の援軍が来るまで粘るのみです。島津は心置きなく攻めて来られよ(`・ω・´)キリッ

強圧的だった降伏勧告から、かなり譲歩。

妥協した和睦案も断られ、島津は紹運の説得を諦めざるをえなかった。

7月27日~最後の決着をつけるため島津の全軍総攻撃が始るのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

【壮烈・岩屋城~前篇】柳川藩初代藩主編4栞72

にほんブログ村 地方・郷土史
後の島津討伐の時にも、島津軍が大友家の筑前領に侵攻した時の事を、島津家は関白・豊臣秀吉に対し、
「当家で不都合あった者を討つためで豊薩同盟は破っていません(`・ω・´)キリッ」と、言い張った。
島津の「当家で不都合あった者」とは、筑後の有力国人の筑紫広門(つくしひろかど)のことである。

国人領主オタの管理人にとり、筑紫氏は「お気に入り国人枠」の一つ~~(人´∀`).☆.。.:*・
通字の「門」がカッコいいと思いません?
え?それ以前に知らない?・・・・・・ですよね~~il||li _| ̄|○ il||l

どこでキャッチしたのか、大友氏が関白・豊臣秀吉のバックアップを受けたことを知った筑紫は、
それまで島津傘下だったが大友傘下に鞍替えした。

天正14年(1586)2月吉日~大友氏の有力家臣・高橋紹運の次男と筑紫広門の娘が同盟による結婚をする



とまぁ、筑紫広門の娘・加弥姫は自ら乗り込んで結婚を申し込んだ逸話がある。

ちなみに加弥姫は、広門が常日頃から自慢する愛娘で、大変な美少女だったそうな^^

もともとは高橋家(というより主家・大友)の敵だった、秋月家息女と高橋家の和睦結婚話が浮上してたらしい。

それを知った筑紫が両家が組まれたらウチがヤバい~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

筑紫家のピンチを救う策として、広門の娘・加弥姫の結婚案が浮上したのです。

だから大友が関白の後ろ盾を得たのを、筑紫が知ったのは結婚後だったかもしれない。

花婿の父・高橋紹運(たかはしじょううん)は、名将:立花宗茂の実父です。

紹運の妻と広門の妻は姉妹なので、花嫁・花婿は従姉弟(姫の方がふ2つ年上)同士です^-^

ちなみに二人が結婚したのと同月に、大友氏と毛利氏は関白・豊臣秀吉の命令で正式和解をした。

このおめでたい婚儀話は速攻で島津にバレタらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

同年3月23日~島津当主・義久は弟の義弘に「筑紫を討つため兵を出すので準備するように」と命じる



島津家紋

同年4月10日~関白・豊臣秀吉は島津討伐のために、小早川家・吉川家・大友家へ出陣準備の命令を出す

島津が大動員をかけていることは、大友から悲鳴のような情報が秀吉の元へ届いていた。

だが肝心の秀吉が京都・大坂から動かないために、上記の準備命令も準備のままで終り、公式の動員命令は未だかけられていなかった。

秀吉が上方を動けなかった理由は、徳川家康だ

東海の覇者・徳川家康は、独立した勢力として超然と構え、豊臣秀吉に未だ臣下の礼をとらなかった。

すでに九州では導火線に火が点いてる状態で、家康と戦をするわけにはいかない。

何より関東の仕置は、家康抜きでは出来ない・・・それほどの実績を家康は既に積み上げて来たんです。

秀吉の得意の外交戦で服従させようとしたのだが、なかなか家康は上洛しない。

同年5月吉日~徳川家康45歳と秀吉の妹・旭姫44歳が政略結婚をする


旭姫は実は人妻だったが、仲睦まじい夫婦を強制離婚させて嫌がる妹を無理矢理、嫁がせたのだ。

秀吉と義理の兄弟となった家康だが、にもかかわらず上洛しない。

家康は自分が外交的優位に立つために粘ってたんです。

家康を従がわせてからでないと背後が不安なので、京都を留守にして九州に出兵できない(_´Д`)アイーン


徳川家紋

同年7月~ついに島津軍が10万の大軍で出兵する!!

この10万は島津軍だけではなく、肥後・筑後・筑前などの島津配下国人たちの兵力を含めた連合軍です。

そのうち2万の兵力で筑後の筑紫広門の本城・勝尾(かつのお)城を攻撃。

島津軍大将は、義久・義弘の弟で「野戦の天才」と言われた島津家久です。

この大軍の前では為す術もなく、筑紫はお手上げ状態で勝尾城を捨てざるをえませんでした。

筑紫は同盟した高橋紹運の城・岩屋城へ逃げた。



一話完結希望の方は写真拝借した鳳山様の記事をどうぞ~(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%E4%B2%B0%BE%EB&sk=0#28160685

筑紫を追って(というか口実にして)大友氏の筑前領に侵攻した島津連合軍が・・・・ここで、ちと足止めになる。

国人たちが城攻めを嫌がったからだ。勿論、あからさまにイヤ~と言ったわけでない。

「大友氏の援軍を牽制するために抑えの兵が必要じゃね?」と言い出したのだ。

空気読んだ島津家は、筑前侵攻の兵を島津本軍メインに切り替え6万に編成しなおした。

島津軍6万の大将が島津忠長~義久・義弘ら4兄弟の従兄にあたる人物

一方、このとき弱冠・20歳の若き名将・立花宗茂~彼は立花城を守っていた

宗茂が秀吉の事情を何処まで知らされていたかは判らないが、援軍が今すぐは間に合わないだろうことは承知していた。

実父・紹運の岩屋城の防備では幾日も持たないだろう・・・心配した彼は実父に

「岩屋城を退去し、弟(広門の娘と結婚したばかり)の守る宝満山城へ入って下さい」と勧めた。

が、紹運の返事はNO。

紹運「思うところがあるので岩屋城へ残ります。女子供を退去させるので、彼らを宝満山城で収容してください


宗茂は実父が6万の大軍相手に籠城しようとしているのを知った!Σ(´Д`;) うあ゙

知らせを聞いた弟も父・紹運に退去を進めたのだが、丁重な断りの返事が来る。

緊迫するクソ忙しい情勢の中で、7月10日~関白・豊臣秀吉から~ガン( ゜д゜)ガレ~と籠城の励ましの言葉(だけ)届く。

宗茂のカッコイイとこは、グチや怨みごとを一切言わないことで、このときも秀吉に文句を言わず、とにかく援軍が間に合わないなら自分たちで頑張るしかないと気持ちチェンジ。

だが立花城を守るという任務があるため、彼は実父の岩屋城へ入れない(_´Д`)アイーン

なまじムコ養子なので、立花家臣たちに応援の兵を送りたいとは言い出しかねたショボーン..._φ(・ω・` )

宗茂の苦しい胸のうちを察した立花家臣の吉田右京が、自ら岩屋城へ援軍に入ることを申し出た。

吉田の発言をキッカケに、立花家臣(吉田個人の家臣も含む)20数名が名乗り出て援軍に行くことになる。

後年宗茂は「あのおりは右京の言葉が涙が出るほど嬉しかった」と話している。

籠城の決意を固めた岩屋城の高橋紹運は、城内に触れを出した

一・籠城に反対のものは城を去ること
二・子供が二人いる家は、家名存続のため一人を退去させること
三・上二つに反対の者も 城を去ること
6万の大軍で岩屋城を囲んだ島津忠長は 降伏勧告を紹運に出すも 紹運、これを拒否!

決戦に火蓋が切って落とされるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
490位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
92位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR