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【立花も】ネバギバ!【鍋島も】江上・八院合戦編12栞95


1600年10月20日~柳川(福岡県)において九州西軍の掃討戦「江上・八院合戦」が起きた。

東軍~鍋島軍32000(元は西軍だが 東軍に寝返り手柄を焦っている状態)

西軍~立花軍3700(これ以上、徳川家康を怒らせたくないが 鍋島に挑戦され止むを得ず応戦)

立花軍総大将・小野鎮幸(おのしげゆき)柳川城の支城・蒲池城主にして次席家老。

領地は5000石~石高・実績ともに立花軍エース級。

主君から頂いた感状は通算68枚。戦場で受けた傷の跡は67で、うち上半身が44ヶ所。

14年前の高鳥居城攻めの時には、小野は両足に銃弾を受け倒れたのだが、
地面に両膝を付き立ち膝の姿勢で戦の指揮を取り続け、立花軍を鼓舞し戦を勝利に導いた。

そんな豪傑も江上・八院では55歳。

鍋島軍に左乳下を撃たれ、さらに足に矢傷を負い、ついに起き上がることが出来なくなった。




話は数時間前に遡る

立花軍・薦野成家(こものしげいえ)率いる300騎は、黒田如水を牽制するために水田口(筑後市)へと向かっていた。

そこに偵察からの報告で「味方の先鋒が鍋島軍に包囲され壊滅状態のピンチ」と聞く Σ(´Д`;
)

柳川城にいる主君・立花宗茂に了解をとっていたのでは間に合わない。独断で江上方面へ引き返した。

この判断が大正解!

薦野が江上方面に到着した時は、立花の先鋒も第二陣も既に全滅。 

第一陣も14~5名になるまで倒され、重症を負った大将の小野が鍋島軍に包囲され討たれる寸前!

「ダダァーン」

薦野は配下の鉄砲隊に発砲させると同時に、わずか300騎で小野たちを包囲する鍋島軍の隊に横合いから突っ込んだ!

ちなみに立花軍は「早合/はやごう」という特別な工夫のお陰で、火縄銃の発砲速度は他家の3倍速だ(当社比)

一方、もう勝ったと油断していた鍋島隊(一隊は約3000名)は、突然の攻撃にパニックになった


アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と、またまた崩れてしまったのです^^;;


鍋島家紋

19日の緒戦といい、20日の崩れっぷりといい、ちと弱腰すぎるだろ~~

資料にしてるのは筑後郷土史なんで、立花を身贔屓でオーバーな記述かなぁ~とも思った。

だが鍋島側の数字的な資料が曖昧模糊のところを見ると、派手に陣列が崩れたのは事実らしい^^;

通常の動員能力(朝鮮の役参照)である12000の2倍以上の32000を動員した鍋島軍だが、
野盗崩れとか商人とか山伏とか水軍の水夫とかとか~~こんな感じの人たちを無理矢理に集めたんだろう。

かなりの割合で、正規の武士でない者が混じっていたんだと思う。

そういう人たちが立花の猛攻に耐えられるはずが無く、攻撃と受けるたびに逃げようするから崩れるのだ。

鍋島が崩れた隙に、薦野は大将の小野や生き残り十数名を素早く自隊に回収した。

「まだ近すぎる・・・このまま退却しても追いつかれる。もう一押しだ!」(`・ω・´)キリッ

薦野は馬上から視線を廻らせ、とっさに状況を判断すると鍋島隊に果敢に攻撃を仕掛けた。

すでに腰が引けている鍋島の隊は、10分の1以下の薦野隊に更に数百メートル押し戻される。

「ズガーン!」

頃合良し!と退却しようとした薦野を狙って鍋島の鉄砲隊が発砲!

弾が薦野の顔面に当った! ぇえ!(゚ロ゚屮)屮


立花家紋

顔をガードしている頬当てが吹き飛び、薦野は左頬に裂傷を負う。

「ドサッ」

直撃は免れたものの弾が左顔面に当った衝撃は大きく、さすがの薦野も脳震盪を起こして落馬した。

薦野の従者が彼を抱き起こし、再び乗馬させた。

だが、敵指揮官が一度落馬したのを見て、鍋島の隊が気力を取り戻し攻撃に転じた。

急いで退却を始める薦野隊。

元々が大軍の鍋島だ・・・まだ余力がある。

せっかく稼いだ距離が、みるみる追いつかれ、囲まれるのは時間の問題!

一難去って、また一難!

このまま薦野隊まで殲滅され、鍋島が完璧な勝利を収めるのか?それは・またの話 by^-^sio

【地名に纏わるエトセトラ】江上・八院合戦編11栞94

現在、立花軍大将の小野鎮幸が重傷ですが、ちょっと地名に関するアレコレ挟みたいと思います^^
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戦場になった江上は、大蔵系氏族の一つ、江上氏が治めていた土地でした。

江上氏は中国地方の王者・大内氏のライバル、少弐氏に仕えていました。

その少弐氏が肥前・竜造寺家に滅ぼされ、江上氏も敗れて降伏。

竜造寺隆信の息子に家督を譲ることで、家名存続を許された(早い話、乗っ取られた(;;)

その後、竜造寺VS島津の激突「沖田畷の戦い」に江上衆も出陣。

竜造寺軍が島津軍に大敗北し、江上衆も玉砕してしまいますil||li _| ̄|○ il||l

佐賀・治水の神様・成富茂安ですが、実は江上氏庶流なんです。

江上嫡流・一族は滅びたのですが、成冨の系統が残りました^-^
**********ちょっと司馬遼太郎風に解説*********************

八院・・・九州には●●院といった具合に院とつく地名が多い。

戦国より遥か昔、献上米を収める垣の中に囲まれた倉庫を「院」と呼んでいた。

たとえば真幸院なら、真幸にある倉庫(院)という意味で、いつしかそのまま地名になった。

八院の場合そのようではなく、奈良時代に八院という名の公家が下向した事に由来する。

時代が下り武家が力を持つようになると、時の地頭が租税を怠るようになった。

訴訟となり、八院は浄土寺と地頭とが分割統治することになり、上八院と下八院に分かれ、更に中八院へと分れたらしい。

だがその後も地頭の横暴は収まらず、国人領主・西牟田氏へ討伐の命が下り鎮圧された。

鍋島軍が落とした城島城は、元は西牟田氏の城であった。

天正14年の島津軍北上で城島城は落城、西牟田氏は没落し、その後はハキとしない。

いずれにせよ「院」という言葉には「豊かな穀倉地帯」という響きがあり、八院もまた物成りの豊かな土地であった。

********************************************


立花家紋

さて立花家の家臣、十時(ととき)一族の一人に、十時惟久(ととき これひさ)という少年がいた。

まだ16歳の少年だったが、戦国時代なら立派な成人男子、合戦に出陣することとなった。

惟久少年は、一匹の黒猫を、たいそう可愛がって飼っていた(ネコの年齢・性別は不明)。

だが今回の戦は、鍋島は32000の大軍、対する立花軍は3000と、立花に勝ち目は無く、

生きて帰ることは出来ないだろう・・・と惟久少年は決意した(`・ω・´)キリッ。


惟久少年「さようなら。。。お前は元気で長生きしておくれ。。。」

可愛がっていた黒猫に最期の別れを告げると、泣く泣く裏山の竹藪に捨てたのだった。

1600年10月20日、江上・八院で両軍が激突した。

出陣した惟久少年も奮戦したが、橋の上に差し掛かったところを銃で狙い撃たれ落馬し、鍋島兵に討たれた。

まだ若いが、惟久少年は武勇優れた十時一族の一人として、郎党を率いた騎馬武者だった(今風に言うと「将校」ね^^b)

鍋島兵は兜首を自分の手柄にしようと、惟久少年の首を切り落とし持ち去ろうとした。


「フゥーーーーー!!」

すると突然、どこからともなく一匹の黒猫が現れ、鍋島兵の喉笛を噛み切り、惟久少年の首が入った布袋を加えると、駆け出した。

「ダダァーーン」

慌てた他の鍋島兵が、黒猫を狙撃。

撃たれた黒猫は橋の上から川に落水。

鍋島兵が探したが、黒猫も惟久少年も見つからず、手柄を諦めることとなった。



戦が終わり、村人たちが戦死者を供養しようと川岸に訪れると、そこには惟久少年の遺体と、無数の銃弾に撃たれた黒猫の遺骸が・・・。

その傍らには、黒猫が命と引き換えに守った惟久少年の首があったそうだ。

佐賀県三養基郡みやき町(合併で旧名は三根町)に伝わる伝説で、惟久少年が命を落とした橋は「猫橋」と呼ばれ、橋の名は現在も残っている。

十時惟久少年の供養塔は大木町にあります。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Koteczekdzika.JPG/300px-Koteczekdzika.JPG
(ウィキペディアより黒猫画像)

それにしても・・・鍋島家・・やっぱ基本、ネコと相性が悪いんじゃ・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、大軍の鍋島に包囲され壊滅寸前の立花軍~~それは・またの話 by^-^sio

【リアルも】立花VS鍋島【応援】~江上・八院合戦編10栞93

はじめに、今回の水害で柳川市の堤防が決壊したとの事、心よりお見舞い申し上げます。
これ以上、被害が広がらないように~早期復興を祈念しつつ投稿~~
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これは戦国ゲームの対戦カードではない

九州の関ヶ原~西軍掃討戦において「最も華やかで」「最も過酷」それが江上・八院合戦だ

1600年10月20日早朝。 

鍋島軍32000、五反田本陣から江上方面へ押し出す。

立花軍先鋒1300、八院から江上方面へ押し出す。

互いの顔が視認できる距離までになり、どちらが先に仕掛けるか睨み合った。

対峙したのは時間にすれば僅かだっただろうが、それに焦れた者が立花側にいた。

立花軍総大将・小野鎮幸の与力で松隈少源だ。

松隈は小野の使者と偽り、先鋒5隊の将の一人・安東伊之助に呼びかけた。

松隈「早く合戦を始められよ!大敵に臆すのであれば後続の隊と先鋒を入れ替える!

この言葉を聞き、激した安東隊・石松隊の約500名が、鍋島軍先鋒3000に兵を入れた!

江上・八院合戦は、この突撃から始った




(現在は地形変わって無くなってますが、当時は両軍の間に川がありました)

前回,紹介した同じく立花先鋒の将である戸次統次(べっき むねつぐ)は、安東隊石松隊の突撃に驚いた。

彼らに先を越された!出遅れてなるものか!と突撃し、他の先鋒の将も続いた。

一説には統次の行動は「安東・石松隊が大軍の鍋島に包囲されたので助けようとした」

とあるのだが、途中からエキサイトして忘れてるとしか思えません~~^^;;

統次は、一隊を率いる将でありながら一騎駈けし、そのまま鍋島軍先鋒に突っ込んだんです。

ところが鍋島軍のほうは、たった一騎の戸次統次の想定外の行動に驚き、陣が崩れてしまうΣ(´Д`;) うあ゙

鍋島軍の指揮官・鍋島茂里(なべしま しげさと)の作戦では、立花軍先鋒が川を渡ったところで一斉に発砲するはずでした。

ところが混乱した鍋島軍が命令を無視して発砲を始めてしまいます!(作戦台無し)

この軍令違反は戦後不問にされました。どの隊が最初に発砲したか解らなかったからで、それほど混乱してました。

一騎駈けした統次は、長槍をブンブン振り回し鍋島本陣目指してまっしぐら!

その勢いを誰も止められない!まさに無双状態!

凄い!凄すぎる!味方の誰も追いつけないほどに!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



鍋島家紋

ウィキペディア記述だと「鍋島13段(媛記事では12陣)の備えのうち9段まで」統次は突き進んだとあり、五反田の鍋島本陣に肉薄する勢いでした。

鍋島の先鋒である鍋島茂賢(しげまさ=茂里の実弟)が「命危急のため」 

一度、本陣にまで下がったそうですから、鍋島軍12陣の隊列は一時的にしろ完全に崩れたと見て良いでしょう。

鍋島軍は前線の崩れに後続の隊が巻き込まれ、各隊それぞれの持ち場をキープすることが出来ない。

それどころか自分の隊列から逸れた迷子雑兵が続出し、何が何だか分らなくなった!

このカオスの状況から最初に立ち直ったのは、第二陣配置だった竜造寺茂綱(りゅうぞうじ しげつな)です!

( ̄ko ̄)<ほら、例の、関ヶ原遅参のくせに、偶然会った家康から馬を拝領したもんだから、怒った佐賀勢からハブられて名誉挽回に必死な、あの方でつ・・・

茂綱は、自分の鉄砲隊300丁に発砲を命令!立花軍先鋒が次々と倒れた!

一方、一人無双の戸次統次だが本陣近くまで駈け続けだったため、彼を乗せていた馬がバテてきた。

馬の息が上がり疲れが足に来て、ついに思うように動けなくなった。

そこを竜造寺茂綱の家臣・今泉軍助が鉄砲で撃ち、統次が落馬したところを軍助の従卒の衛藤が首を取った。
(一説には川を飛び越えようとしたが、それが出来ず川岸で体勢が崩れたところ・・・とも言われている)

戸次統次・戦死。享年25歳(但し討ち取った人物には諸説あり



立花家紋

最初の混乱が収まると、もともとが32000の大軍の鍋島だ。

立花の先鋒を包み込んで攻撃~豊富な鉄砲でもって、つるべ撃ちに撃ち掛けて立花兵を次々撃った。

その多さは、倒れる立花兵の数が数えられなかったほどだと言われている。

鉄砲の後は弓隊とセオリー通りに攻撃、なおも戦おうとする立花兵に対しては、数人がかりで切り伏せて首を取った。

多勢に不勢・・・もはや屠殺に近いショボーン..._φ(・ω・` ) 

だが確実に倒すには「これ」しかない。立花の主力精鋭を殲滅しなければ鍋島家が取り潰しになってしまうんです。

戦争なんです。生き残るためには、見た目のカッコ良さとか、手段なんて選んでいられない。

安東、石松、矢島、十時、三池(元・大友氏同紋衆)など、他家にも知られた武将たちや一族が次々討たれた。
鍋島軍では、戦後「功績あり」と選ばれた「柳川七騎」がいる。
七左衛門・牛島監物・相浦三兵衛・秀島四郎左衛門・田代猪之助・田代大右衛門・残り一名は名前不明。
竜造寺茂綱の隊だけで360の首級をあげ、「柳川七騎」牛島監物の所属する隊だけで600の首級を上げた。
立花軍第二陣の戸次鎮実(べっき しげざね)は、先鋒が鍋島軍に包囲されたのを見て、助けようと横合いから攻撃するも、大軍の鍋島軍に囲まれてしまい殲滅された。

戸次鎮実と息子善次郎17歳が討ち死。


立花軍総大将で第一陣を率いる小野鎮幸は、それまでは両軍の間にある川の一の橋・二の橋・三の橋を押さえ堅守していたが、
やはり先鋒を救おうと兵を進め、鍋島軍の横合いから攻撃をしかけた。

が、こちらもアッという間に鍋島軍に包囲され、次々討たれ1000名が10数名にまで減った。

小野自身も左の乳下に銃撃を受け、さらに足に矢傷を負い自力で立つことが出来なくなる。

このまま総大将討ち死?

立花は一矢報いることも出来ずに敗戦なのか?それは・またの話 by^-^sio

【進軍コースなぅ】江上表・八院合戦編9栞92

【予告:栞100記事目で、肥前千葉氏編1話目アップします(ただいま92話目(*´pq`)クスッ】
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先日、某ふ●様から疑問難問質問あった~

疑念というのは「なぜ鍋島親子は、こんなに遠回りしたんだろう」です


・・・・・・・・・・・・Σ(´Д`;) うあ゙~記事で端折った部分ですわぁ~

ゲスブに言い訳・・・もとい返事してたんだけど、指疲れてきたんで(携帯からだった)記事にしちゃった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

直茂パパコース:14日出陣⇒16日久留米城(久留米市)落とす

勝茂クンコース14日出陣⇒筑後川渡河、柳川領侵攻⇒16日立花の梅津城落とす

17日に大善寺(久留米市)で合流~つまり一度柳川領に入った勝茂クンは引き返してるんです





ちなみに久留米市大善寺は、この地図に入りきれないほど遠い。

西鉄天神大牟田線でいうと真ん中上部にある犬塚駅の次の次が大善寺駅。

そこから城島方面(地図左上上部の城島中学あたり)へと、鍋島軍は遠回りしてます。

あぁ、確かに土地勘ある人なら「なんで?」と思うコースですわ~( ̄ω ̄A;アセアセ

キーは、黒田如水が久留米にいたことだと推測してます

16日に直茂パパンが久留米城を落とした時、これは単独ではなく黒田如水軍と合流してのことです


九州における東軍は如水が中心的役割を果たしていました。

息子・長政を通じて家康とのパイプもバッチリ(=^・ω・^=)v ブイ

史料の裏付けがとれなかったので、あくまで推測ですが、直茂パパンは立花軍と雌雄を決するために、如水と今後の打ち合わせをしてるはずです。
(てか、合流してて何も無い方が不自然)

直茂パパンが、息子・勝茂を久留米に呼び返し合流したのは、如水(または意を汲んだ家臣)を交えて最終打ち合わせする為。

そして鍋島の遠回り進軍コースは、如水&加藤清正の水田(筑後市)到着タイミングと合わせる為じゃないでしょうか?


久留米を落とした後の如水は、軍を割いて(兵数不明)如水自身が率い、清正と合流するために筑後市水田に向かっています。

単純に、西軍残党として立花を攻めるのだけが目的なら、柳川へ直行した方が速いです。

それを、鍋島親子と如水&清正・・・手間かけて別々に合流したのは、鍋島と立花との決戦を如水と清正が臨時軍目付として見届けるためでしょう。

元西軍だった鍋島の「東軍への忠義」が本心からなのかを、彼等は確認しなきゃいけないからです。

鍋島の方も、如水と清正に視てもらわなきゃ意味がない。

鍋島が生き残るため、元西軍の黒歴史を払拭する軍事的手柄・・・家康への馳走は必須だからです。

皆がタイミング良く、所定の位置に揃うためのタイムラグを調整した~というのが記事で端折った、進軍コースに対するシオ推測です。


鍋島家紋

さて、これまでが政治的な理由、ここからは軍事的な理由になります。

攻城戦の場合、守る側の立花と違い、攻撃する鍋島は時間と場所を選べます。

ところが野戦決戦となると、地の利は柳川の立花にある。

家康の機嫌損ねるから長期になる(かもしれない)攻城戦はダメ、野戦決戦で立花精鋭を撃破しなきゃならない。

主力軍さえ潰せば、いくらなんでも籠城なんてしないで開城降伏するはず、だって西軍そのものが関ヶ原で負けてるんですもん。

鍋島が勝利をより確実にする為には、挑発して引っ張り出した立花精鋭軍を、鍋島の望むバトルフィールドで待ち受ける事がベスト

そのための如水との別行動で、そのための遠回りなんです


どんなに秘匿しても大軍の行動は、戦場感優れた者の嗅覚を逃れることは出来ません。

その感覚が優れているからこそ、如水と鍋島が別行動した事に、立花では迷いました。

そこで如水への牽制として、薦野成家隊300を割くことにしたんです。

籠城か・・・野戦決戦か・・・鍋島から「果たし状」を突きつけられ「野戦決戦」と衆議が決した立花家中。

だが鍋島の進軍コースが遠回りなので、本当に野戦決戦になるか立花側では確証持てません。

鍋島が城島城を落とした事で、ようやく立花側にも鍋島軍が何処を目指しているかハッキリしたんです

筑後川を越え城島を抜けると、そこは雪国ならぬ江上方面五反田です

鍋島が先に五反田に陣を布いたので、立花は反対側の八院に陣を布いた・・・


他領に侵攻する場合、己の軍行動、その目的地を秘匿するのは、むしろ当然ではないでしょうか。

遠回りの進軍コースを見ても、鍋島全軍の指揮を執る鍋島茂里は非常に優秀だと思います。

立花に倍する兵力、猛者たちの足を止める豊富な銃火器、立花より先に陣を布いて有利に立つ

立花精鋭軍を押し包み潰してくれるであろう、茂里考案の立花シフト

まさにパーフェクトミッション

九州における西軍掃討戦で「最も華やかで」「最も過酷」それが「江上表・八院合戦」だ


次回「鍋島VS立花・両軍激突」それは・またの話 by^-^sio

【立花軍団・先鋒】江上表・八院合戦編8栞91


1600年10月20日早朝~朝もやの中、鍋島軍32000は五反田に本陣を置いた。

鍋島直茂から軍配を預かっている(=全軍の指揮権を与えられている)のは、直茂の親族・鍋島茂里だ。

彼は軍を12陣(ウィキペディアでは13段)に分けてシフトした。

遅刻の失点を挽回すべく必死の竜造寺茂綱は、第二陣に配置(=^・ω・^=)v ブイ

一方、対する立花側は川を挟んで反対側の八院に本陣を置いた。

両本陣の距離は約2・2km。



・鍋島軍は左上の城島中学校の方角から江上方面へ(五反田は、そのあたり)
・立花軍は真ん中の大木町役場から江上よりの八院へ(八院の地名は現代も残ってます)
・現在は地形が変化してますが、江上と八院の間に河川があったんです^-^

立花野戦軍・総大将の小野鎮幸は、この時に立花の第三陣2000名から1300名ほどを選抜。

それを5隊に分けて先鋒軍とし、残った700名は第二陣と第一陣に振り分けた。 

これが小野の常のやり方なのか、鍋島の大軍を前に改めて精鋭を先鋒に選んだのかは、分りませんでした^^;

先鋒5隊の隊長は、安東、石松、戸次(旧姓・森下)統次、他2名です。


突然、話は遡るのですが、
( ̄ko ̄)<実は立花宗茂と加藤清正は揉めたことがあるのでつ

それは天正18年(1590年)北条討伐と奥州仕置が終り、天下統一が果たされた年でした。

加藤清正の家臣で罪を犯し肥後を出奔した者がいました。

個人的にツテがあったのか、罪人は国境を越えて柳川へ逃亡し、宗茂の家臣に助けを求めた。

加藤家の罪人を匿ったのが、戸次統春(べっき むねはる)で、亡き立花道雪の実甥でした。



統春の実父は彼が2歳の時に戦死したので、彼は道雪の手許で育ちました。

性格は高潔にして仁者、武勇優れた若者で、道雪自慢の甥っ子だったのです。

当時、立花家の主君だった大友宗麟が「男子がいない立花の家督を(自慢の)甥に継がせたら?」と打診したんです。

道雪「(手塩にかけて育てた大事な)甥は、実家(戸次家)に残します」と断り、
高橋家の跡取りだった宗茂を立花のムコ養子に引き抜いたんです。

人様の嫡男をムコ養子に~・・・だなんて本来なら無理筋よ ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まぁ道雪にとっては、実弟が4人も戦死しているので、実家の戸次の家督がが非常に心残りだったんです。

宗茂も統春も道雪の薫陶が行き届いた人格者なんで、家督での確執はありません。

統春は叔父の道雪亡き後も宗茂に良く仕え、数々の手柄を立てて、宗茂も彼を頼もしく思い信頼していました。

立花が柳川13万石の大名となり、全て万々歳ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ になると思った矢先に起きたのが、先に挙げた加藤家罪人の逃亡騒ぎだったのです。


加藤清正イメージ画像

逃亡先が立花統春の所だと知った加藤家は、使者を遣わし罪人の引渡しを要求した。

罪人が「統春様に御迷惑はかけられません。ここまで匿ってくれただけで充分です。自首します(´・д・`)」

と言ったので、不憫に思った統春は、加藤家の使者に罪人を引き渡す代わりに条件を付けた。

統春「この通り罪人は逃亡の心配はありません。ですから捕縛して縄を打つような恥辱を与えないで下さい」

加藤家使者だが、清正の家臣にしては不心得な男だったらしい。

統春には調子良く返事をしながら、城を一歩出た途端に罪人を打ち据え縄で縛りあげてしまった。

その様子を見ていた統春は当然、怒った!「あの卑怯者め!懲らしめてくれる!」

狙い定めて弓を絞って矢を放つと、加藤家使者のチョンマゲにクリーンHIT!

髷(まげ)を結んでいる髻(もとどり)が切れ、バサッと髪が解けて落ちた!

その姿は、かわゆ~く云うと童ヘア・悪く云うと落ち武者ヘアだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

加藤家使者は狡い男で、主の清正に自分の卑怯な振舞は言わず「一目で分る自分の被害だけ」報告したのだ。

天正18年の頃の清正は、まだ肥後を拝領したばかりだったのと、
「九州の諸大名に舐められることが無いように」と秀吉から言い含められていた。

そのため九州の諸侯に何事につけて、わざと尊大で強調子な態度で接していた。

だから使者の報告を一切吟味せずに、統春の主である立花宗茂へクレームをねじ込んだのです。

まだ大名になったばかりで立場が弱い宗茂は窮して、清正を納得させるため統春へ切腹の処断を下した。

もちろん宗茂の本意ではない。 

宗茂は統春を助けようと、切腹の検分役に逃亡の手助けをするように言い含めていた。

だが統春は「自分のしたことで主の立場を苦しい物にしてしまった。」と自ら切腹したのです。

享年27歳。統春には子供はいなかったが、妻がいました。

統春の妻は
「窮鳥が懐に入ったら助けるのが武士ではありませんか!加藤家のやり方は、夫の名誉も主君・宗茂公の名誉も傷つけました!これでは武士の面目が立ちませぬ!」と言って夫の後を追い自害。

統春の家臣らも「このような高潔な主君には二度と仕え難し、お供仕らん」と次々自害。

合計11人の殉死者が出たΣ(´Д`;) うあ゙


立花家紋

天正18年・・・あの時は清正も宗茂も・・・そうする他は無かった・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

それから10年・・・何しろ父の仇の島津ですら許した宗茂だ。統春の死に関して清正へ遺恨は無い。

だが道雪の甥の家が絶えるのを歎き、立花家の家老・森下釣雲のから三男を貰いうけ、統春の家名を継がせた。

それが「江上表・八院の戦い」で先鋒に選ばれた戸次三大夫統次(べっき さんだゆう むねつぐ)です^-^

鍋島の先鋒にいる竜造寺茂綱が佐賀で生きるために懸命なように、
立花の先鋒に選ばれた戸次統次にも同じく背負うものがあったのだ。

家臣11人も殉死が出るほど立花家中の誰からも愛された戸次統春・・・・・

雷神と讃えられた名将・立花道雪の実甥という「特別な家」の家督を継いだ三大夫統次は、
戦場において誰よりも勇敢でなければならなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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