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【相良頼房36_梅北一揆4・決着】

犬童休矣は士分30余名で(一揆鎮圧の)救援に向かった。
しかし梅北一揆3で紹介したように、既に首謀者の梅北国兼は討たれていた。

八代に向かっていた一揆勢の東郷甚右衛門(別働隊か?)が国兼死去を知って、佐敷城に戻る途中の佐敷川の橋で、相良とバッタリ出くわし交戦。
相良は一揆勢の首級40を討って、名護屋に送った。
ちなみに菱刈源兵衛の嫡男・将監クンは、手傷3ヵ所負いながら立派に初陣の務めを果たしました(*´艸`)

梅北一揆の第一報は義久の報告だったらしい。
国元からの注進により知った義久「はぅ( Д )  ゚  ゚」絵文字通り目が飛び出るほど驚き、
すぐに石田正澄(三成の兄)に依って、事情聴取された。(義久は名護屋にいた)

秀吉は報告を聞くと、「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である
と怒り心頭(=怒りレベルMAX)である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れm(_ _)m


家康「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。義久を罰する事は如何なものでしょうか
と頻(しき)りに言上した為、秀吉も怒りを和らげ義久の帰国を許した。


関東・東北の申次(もうしつぎ=受付窓口)だった徳川家康は、今までのフィールワークの関係もあって西国大名に馴染みは少ない。
家康は薩摩に厚意を用いることで懇意になりたかったのだろう。
家康の取り成しを島津義久がどう思っていたか、出展元の「征韓録」には記載されていない。
家康の義久へのアプローチは常に「片思い」だったようだ^^

てことで義久は薩摩へ馳せ帰り、梅北と与(くみ)した者の一族を罰しようとしたが、その命が下る前に、既に留守居の者らによりその者らは悉(ことごと)く誅殺されていた。

義久は、その旨を記して名護屋へ送ったものの、秀吉は義久の報告を見て怒りが復活。

一揆を唆した者が島津家にいるはず!その者たち全員・10が20になろうとも首を刎ね、京都へ送って来い!祁答院(けどういん=弟・歳久の事)が、その反乱者の支援をしていた!祁答院の首を刎ねよ!
島津義久への通達は、義久の友・細川幽斎を介して伝えられた(祁答院~4兄弟の3男坊歳久の領地で、そのため歳久は祁答院と呼ばれていた)

義久・・・_| ̄|○ il||li

どうにもならなかった・・・・天下人の口から祁答院の名が出た以上、逃れる術はない。
5年前の天正15(1587)年の3月頃から、歳久は中風を患い病の床についた。

秀吉に最後まで抵抗した反骨の英雄・・・後に戦の神として祀られた「金吾さぁ(これも歳久のこと)」だが、
もともと秀吉の実力を認め和睦を唱えていたのは歳久だった。
だから秀吉へ抵抗した歳久の「心変わり」の理由には、諸説あってハッキリしていない。(or家臣の暴走?)

梅北一揆が情報操作された(らしい)と、言われているように、影の首謀者として処断された歳久に対しても、隠ぺい・隠匿工作が為されている可能性がある。
なぜなら「歳久関連文書(受取人が歳久の書簡29通)」はあるが、「歳久文書(差出人が歳久)」が一通も無いからです。

文禄元年(1592)年7月18日・・・島津歳久は実の兄・義久の討手によって成敗された・・享年56歳
国人オタであると同時に、島津ファンである自分にとっては、これほど悲しいことはなく、歳久の死の様子を記事にするのは、胸が潰れるような思いで、ガチ涙でPCが見えなくなるので割愛します( ̄人 ̄)☆彡~~合掌。

京都で罪人として晒し者になった歳久の首は、従兄弟の島津忠長が奪い返して隠した。
(故郷に埋葬し直されたのは明治後の大正時代)
義久は秀吉の死後、速攻で歳久の菩提寺を建てて供養している。

下戸だった義久に代わって、酒を飲むのが歳久だった。(そんなだから中風・・・ゲホグホゴホン)
戦国時代には珍しく仲良しで、協力し合って生き抜いてきた・・・決して弟の死を望んだ訳じゃない。
だが、それでもなお、島津宗家のために「歳久の命」が必要だったんです。

いつの時点かは解らない・・・だが義久は弟を犠牲にする道を選んだ。
家族への情愛と、当主としての決断は、交わることの無い別義のものだ。

そして「非常の決断」が出来る人物でないと島津当主は務まらない。
それほど分家と国人たちを束ねるのが大変だったんです。

当主以外に衆望を集める人物は不必要。
逆らう家臣の粛清は必須。
だがそれは義弘では出来ない。

島津内部で「正式な家督相続を受けていない義弘」が、歳久を犠牲にしたり、家臣を粛清しようとしたら、おそらく島津家中の何者かに暗殺されていただろう。

時代は戦国の荒々しい気風のままだし、義弘をプッシュする豊臣政権は太閤検地と刀狩の前で、まだ権力基盤が不完全だからです。
従って歳久の処断は、長兄である義久でしか為し得ないことです。

一揆実行犯・梅北国兼の子供は全員殺されたわけではなく、捕縛を逃れて密かに生き延びた者がいたらしい(詳細不明梅北の妻は名護屋に連行され、秀吉が「ハァハァ)ワシに仕えよ」と言ったのを拒んだので、火あぶりの刑に処せられた
あ~「秀吉が~拒んだので」までは「女好き伝説テンプレ」ですのでスルーしてください,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって梅北が推定50代後半~60代なんだもん、妻の推定年齢だって・・・ねぇ^^;

梅北の妻の最期はフロイスが日本史に書いてるので、興味ある方は図書館などで読んでみてね^^

文禄元年1592年8月3日~徳川家康が細川幽斎に、おてまみ書いた_φ( ̄ー ̄ )カキカキ~
家康「(幽斎が)歳久成敗を(秀吉に)申し上げた事は肝要である_φ( ̄ー ̄ )グッジョブ~

幽斎さん・・・ほんとの悪は、あんたはんでしたんか?それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房35_梅北一揆3・救援】

一揆は僅か3日で鎮圧され、文禄元年(1592)年6月17日に討たれたことになっている島津家臣で首謀者の梅北国兼。

だが研究が進み、一揆勢は半月間粘り、別働隊もいたらしいことが解って来た。
どうやら一揆を小規模だったかのように、為政者(島津と豊臣政権の両方)が情報操作していたらしい。
だから一揆が本当に鎮圧された期日は、明確にはなっていない。

生前のアグレッシブ梅北は「一揆への加担」を呼びかける檄文を _φ( ̄ー ̄ )カキカキ 送り付け、
それは、我らが相良家にも届いていた。

文禄元年(1592)年といえば「文禄の役(第一次朝鮮の役)」の真っ最中で、
当主である相良頼房も加藤清正旗下で戦っていた。
ちなみに頼房20歳~~シーマンズの影響か、すっかり猛将タイプに仕上がってます。∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

檄文の内容も手紙が届いた期日も不明だが、要するに「佐敷城に籠城する一揆勢へ加勢して欲しい。」ってことらしい。
頼房の亡き父・義陽が島津に降伏してから九州の役までの短い期間だが、阿蘇合戦や豊後侵攻と、共に轡を並べて戦場に出て、同じ釜の飯を食って来た。
まぁ島津から見て相良家に対し ♪仲間( ̄▽)人(▽ ̄)仲間♪意識があったのだろう。

なんか薩摩隼人らしい感覚~~~実際に家臣間でも交流があっても不思議では無い。
さがらんとシーマンズは ♪お隣さん( ̄▽)人(▽ ̄)御近所さん♪ だもんね^^b

アテにされて困惑したのは相良家だ。首脳陣は朝鮮に出払ってる。
とにかく台芳尼(義陽正室・千代菊)の元で評議が持たれた。

このとき「梅北の主張にも一理ある」との意見も出たそうだ
う~~~~~~~ん、檄文的招待状が残っていれば、梅北の諸説ある一揆の動機が分かったのに~(惜しい!
留守居の家臣らが同調しかけるってことは、やっぱ領土問題が動機かなぁ(6 ̄・ ̄)ポリポリ

事の重大さを忘れ、梅北の文に流れされそうになっている評議の空気に、重臣・犬童休矣が静かに、だがハッキリと意見を述べた。

犬童殿曰く「殿は太閤の命により清正殿に属し、遠く朝鮮で戦っておられる。斯様(かよう)な時に梅北如き凶徒に与(くみ)して、太閤・清正殿に背(そむ)く事が出来ようか( ー`дー´) キリッ
いかなる理由でも一揆は御法度・大罪!同情してどーすんだ!
おのれら殿の留守に御家を危うくする気か?!シャキっとせんか~い!! 

犬童の言葉に \(////o////)ノ「ハッ」と一座は冷静さを取り戻した。
犬童休矣は、士分30余名で(一揆鎮圧の方の)救援に向かった。((((((((((っ´▽`)っ

そしてこの士分の中に菱刈源兵衛の嫡男・将監が初陣(戦場デヴュー)してます。
ん?菱刈源兵衛を覚えて無い?^-^

ほら、豊後侵攻の撤退の時に、「御家存続が決定して、島津との盟約を破棄して人吉へ帰ろうとする相良'zの中で」「武士の約定を果たしたい~って妻子を人吉に残して一人だけ島津家に残った勇者です( ̄∀ ̄*)ポワ~ン」
人吉に残ってた菱刈の幼かった嫡男が、初陣を務めるまでに成長したんです( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

ちなみに将監クンは江戸期に相良家(二代目藩主時代)の家老になります~~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
大隅国人の雄であった菱刈の血(庶流だけど)は、相良家で脈々と受け継がれてます( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

さて、佐敷城の梅北の方に話を戻そう。
6月14日に蜂起した一揆勢は、肥後葦北郡・佐敷城を攻撃。

さらに八代の城をも陥れんと協議して、田尻(梅北の同調者)は松橋(まつばせ)を放火。
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。
松羅はすぐに八代の城に入って堅く守った為、田尻の残党は佐敷城へ引き退かんとした。
それを松羅の人数が追い掛け、肥後国・赤松太郎と云う処で悉(ことごと)く打ち殺す。
(出典・征韓録~読みやすいように補正あり~以下出典は略)

別働隊って、この田尻のことかな?( ̄・ ̄)じー 相良の動きと合わせると、他にもいたっぽい感じです。

梅北国兼は佐敷(さじき)城に在って、家臣の山蜘(やまくも)という天性の狼藉者を近郷へ遣わし、(一揆の)賛同者を募らせる。
佐敷住人の境善左衛門・安田弥左衛門は国兼の無勢を悟り、若き女房らに酒などを持たせて、炎天の苦労を慰めさせようとする。(←つまり罠)

国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽(たちま)ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。
ほんの数杯で興に乗って油断するって、どんだけデカい杯だったんだ ∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

『梅北一揆始末書』の記録だと、また少し違います。
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意(ぎょい)として城の受け取りを迫ったものの、安田弥右衛門ら留守居(住人ではなく清正家臣になってる)が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答。
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。
んで、酒と鮒寿司(って戦国時代にあったっけ?)で油断させて以下同文。

注意しなければならないのは、これは家臣が一揆しちゃって超迷惑だった島津側の記録だってことです。
だから梅北のアッサリ討たれるカッコ悪い最期は、額面通りに受け止めることは出来ません。
とにかく、犬童らが一揆鎮圧の応援に出陣した時、すでに梅北は討たれた後だったのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房34_梅北一揆2・檄文】

前回、柿も裸子・・・書き漏らし~九州の役後の仕置きで、日向にも島津領が残ってた^^
島津豊久~佐土原領・島津久保~真幸院・島津義弘~大隅の他に諸県郡1,400町が安堵です^^
でも島津家臣に分配するには、ぜんぜん足りません~~~_| ̄|○ il||li

梅北の一揆の動機には「秀吉の朝鮮の役に対する批判」というものがある。

今まで、一揆は僅か数日で鎮圧されていたことになっており、今回出典でも鎮圧された期日の記載がなく、あえて曖昧にしたのでは?と勘繰りたくなる。
近年の研究で一揆は半月も粘ったことが判明し「別働隊もいたらしい」ことが解って来た。
てことで注目されて三省堂の教科書に「梅北一揆」が載ったそうだ(自分は未確認)

それで自分も上記の説に傾いていたのだが、再リサーチで「梅北が国人あがり」監修様情報で「紙屋氏の説」を知って、
「朝鮮の役に対する不満」は後世の後付けではないか?と考えるに至った。

九州の戦国大名に「朝鮮の役」を喜ぶ者などいない。
軍役の負担がマッハ涙目なのは勿論だが、どこも大なり小なり明国は貴重な交易(倭寇込で)相手だったのだ。
朝鮮(+援軍の明国)と戦になれば交易は途絶えるし、秀吉が「海賊禁止令」出したから倭寇も大っぴらには出来ず収入が途絶えた(;;)あぅ~

豊臣政権からくる(過重な)動員兵数を果たすために、各大名たちは片っ端から徴収かけるものの、それを嫌った領民たちが田畑を捨てて逃散してしまい、困った豊臣政権では流れ者の山伏とかを強制徴兵したほどだ。
それらの声なき民の声が、前時代の領主だった梅北を懐かしがり、神として祀ったのではないだろうか。

では「朝鮮の役」が一揆の動機に全くの無関係かと言うと、そうでも無いだろう。

キーは「梅北が大隅国人+九州の役後に大隅国は義弘に安堵された」だと睨んでいる
梅北国兼は島津義弘に従い、朝鮮へ渡海するはずだった。
ぶちゃけ梅北は、義弘に従うのがイヤだったんじゃないだろうか?


これには島津の御家事情が深く絡んでいると思う。
一応、島津義弘は島津家17代目当主・・・ってことになっているが、
研究者+オタの間では「義弘を当主としてカウント」するか未だに意見が分かれている。

理由はカンタン・・・歴代島津家当主が所有し、当主の証である「御重物」が、義久から義弘に譲られてなかったからです。
当主所有=個人所蔵だった「御重物」は、昭和終戦後「この先、個人が守る続けるのは厳しかぁ」ってことで、時の当主が東大の研究室に預けた。

結果、御重物の研究が昭和後期に進み、義弘に正式な家督相続が為されていなかった事が判明したんです。
ネット上で「御重物」の情報が少なくって~^^;
「国宝指定・島津家文書←コッチで検索すると一発なんだけどね(苦笑」の事だって解るまで1年以上かかったのは懐かしい思い出(*´艸`)

てことで「御重物を所持しない者」は、いかほどの権勢があっても、島津家中からは当主とは認められない。
豊臣政権が「御重物」のことまで知ってたかは不明だ。
だが(御重物を所持する)亀寿姫(義久末娘)を、義久が正当後継者にしているのは知っている。

だから亀寿姫の人質の任を解くのは許さないし、帰国に関しても一度の要請でOKされたことがない。
(関ヶ原前後も帰国許可は降りず、密かに大坂を脱出し義弘と合流して帰国した)

島津家が義弘を当主としたのは、あくまでも形式上のことで、国許では長兄・義久が実権を握っていた。
豊臣政権では島津家中を分断するために、義弘に大隅国を新恩として安堵するだけでなく、あくまでも義弘を当主として立てつづけた。

冒頭で挙げたように、義弘の嫡男・久保に対しても日向の重要地・真幸院が安堵。
島津義弘には「豊臣姓(本姓)」「羽柴(名字)」が与えられ、義久には「羽柴」のみと差別化している。

さらに豊臣政権と島津家のパイプ役である家老・伊集院忠棟に対し秀吉から直々に大隅国のうちから肝付一郡が与えられている
(一時は伊集院に大隅国そのものを安堵という案もあったそうだ。)

肝付郡は梅北家の本家・肝属氏の本貫地です。
島津義弘や伊集院は、親豊臣派として優遇・エコヒイキされ、これまで労苦を共にしてきた者らが蔑ろにされている。

不満・不安が募るところに、文禄元年(1592)年4月の評議での「地頭職の領地返上案(結果として実行されなかった)」が、トドメになったのだろう。

義弘派・義久派の融和として亀寿姫と義弘嫡男・久保が結婚するのだが、リアル存亡の危機をビシバシ感じてる湯尾地頭・梅北には、今後の保証となるものではない。

島津家中において「島津義弘に従い渡海する」ということは「親豊臣派」とみなされることになる。
分家筆頭の出水薩州家も義弘と共に渡海はしたものの、義弘配下として編成されるのを拒否して戦をサボタージュしている。
(これが秀吉の知るところとなり、出水薩州家は改易処分をくらう)
筆頭家老の伊集院忠棟も朝鮮に渡海し、島津家中における「親豊臣派は不在」となった。
現状(九州の役後の仕置き)に不満を持つものが、一揆を企むには絶好のチャンス(* ̄ー ̄*)

梅北が一揆を起こす場として肥後・葦北郡・佐敷城を選んだのは、島津水軍を担当してたのが大きいだろう。
佐敷城の遺構をネットで見ると、かなり堅固な石垣で加藤清正が佐敷城を重要視していたことが窺える。
城を堅固に~という期待からか、城代には石工集団・穴太衆の在地出身・加藤重次を配した。
が肝心の城のエキスパートも、加藤清正と一緒に朝鮮へレッツGO((((((((((っ´▽`)っ

葦北町は「相良氏が降伏後~九州の役まで」島津が領しており、一揆加担者を糾合しやすい。
実際、在地の庄屋・農民・町人などが一揆に加担している。
水軍担当だった梅北は、佐敷城周辺の在地豪族とも知己だったのではないだろうか。

湊町だった佐敷町は球磨・日向・大隅・薩摩へと街道が通じていた。
かつて国人が分割統治していた肥後で一揆を起こし、「天正の肥後国人一揆」のように各地に飛び火するのを期待したのだろう。
(これは第一人者の紙屋氏が唱えている説・水軍うんぬん部分の自分が加味)

アグレッシブな梅北国兼は「チュギャザァ~しようぜ」_φ( ̄ー ̄ )メモメモ
と、一揆加担を呼びかける檄文を送った。

原文は解らないが宛先で判明してるのが、まず対馬。
でもって我らが相良にも「一揆への招待状」が届いたのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房33_梅北一揆1・勃発】

事件は再び肥後で起きた!
文禄元年(1592)年6月~朝鮮の役で出陣中の加藤清正の留守を狙って、一揆が発生!
首謀者は島津家臣・梅北国兼(推定年齢50~60代)大隅国湯尾地頭~得意分野・水軍!
出展元・宮之城島津氏編纂『征韓録』~島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事より


梅北家は大隅国人・肝属氏庶流で、南北朝時代では島津家と敵対していました。
戦国期に島津配下から⇒家臣団に組み入れられたわけですが、
地頭という立場+世代などを鑑みると、梅北国兼には国人気質・体質は色濃く残ってたと思います。

結果から言うと「一揆は鎮圧」されるのですが、梅北の犯行動機には諸説あり、さらに一揆後の影響が大きいこともあり、謎の多い「事件」です。


某町の某郷土史家(つまり誰か忘れた^^;)は「島津義久による教唆」を匂わせています。
その傍証として「義久の元へ、梅北の部下が使者として、一揆失敗の報告をしたが、使者は極秘のうちに消され関わりは無かったものと揉み消された」事実を挙げている。
(出展元記載なし、郷土資料か?)

道産子の自分が物申すのも憚られるが、少し勘ぐりすぎだと思う。( ̄O ̄A 汗フキフキ
教唆しようがしまいが「失敗した一揆の首謀者からの使者」が来たら、即始末するに決まってる。
それに「義久教唆説」が弱いと感じるのは「国人を扇動するリスク」が考慮されていないからです。

一揆の扇動なんてリスク恐れずヤッチャうのは、東北の誰かさんのような怖い者知らずの若い世代のやること。
50代後半以上の年齢の戦国大名なら、国人の扱いに散々散々さん~ざん、苦労して骨身に沁みてます。
敵を攪乱するために「敵側の国人を扇動する」ことはあっても、「自国内の国人(半ば家臣化してるとはいえ)を扇動する」とは、ちと考えにくい。

為政者が体制強化のために「ちょっとしたデモ(一揆)を起こさせて鎮圧する」という手法が無い訳では無いが、一揆が飛び火したら収拾がつかなくなるのは「肥後国人一揆」で証明済みだ。
どれほど裏で取引・交渉しようが、最後は「秀吉の機嫌次第」だからヤバすぎる。
言い訳に十字架を背負ったり、白装束になるのは一人で充分∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

生来、慎重で用心深い島津義久には「一揆の教唆」は似つかわしくない。
自分の前提~「島津義久は梅北一揆には無関係~ただし後処理を政治利用した説」で話を進めます(* ̄・ ̄*)Vブイ
                  
最近では、この研究の第一人者である史家・紙屋敦之氏の唱える「領地問題が原因説」が有力らしい。
かいつまんで言うと、九州制覇まで「あと一歩」だった島津氏は「九州の役」で敗れて、「大隅・薩摩」に押し込められた。
肥後・日向に領地を持っていた島津家臣はオールナッシング~ゼロ資産。

領地を失った島津家臣らには、大隅・薩摩国内で領地補てんをするのが本来の筋なのだが、
島津家では、それをしなかった・・・・と、いうより出来なかった・・・と言った方が正解かもしれない。

どこの地方でも一緒なのだが、豊臣政権誕生は「兵農分離」と同時に「国人が家臣化」する過渡期でした。
大隅・薩摩国内における既存領地を寸土たりとも削ろうものなら、本貫地を死守すべく国人はもとより、分家・支族が黙ってない。
とてもではないが、領地補てんは不可能(::)

島津義弘は領地の代わりにすべく(撫育金みたいな感じ?)八方金策に回り苦労したらしい。
忠恒(初代藩主)の代になると家臣を粛清して領地を・・・ゲホグホ失礼!
日向に領地があった上井さん(日記で有名)が、九州の役後に隠居したのは、その辺に事情があったんじゃないだろうか。

で、紙屋氏の研究によると「天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議」があったそうです。
天正20年とは文禄元年でして、西暦でいうと1592年・・・ズバリ梅竹一揆のあった年。

結果は寺社領のみ整備して、一部領地を捻くり出してるんですが、4月領地評議で一揆は同年の6月。
湯尾地頭の梅北が己の地位を脅かす施策に「一揆を起こした」というのが氏の持論です。

梅北国兼は島津4兄弟の父・貴久の代から仕え、島津の「大隅統一」に大きく寄与した。
その後も活躍し、島津北征(岩屋城の時)には島津水軍を率いている。
それが「領地返上(上知ですね)」となったらブチ切れるだろう。

一族郎党を、どうやって養えというのか、梅北国兼は江戸期リーマン侍じゃない「国人あがりの戦国武将」なんです。
自分のなかの国人に対する考察(とカッコ良く言ってみる)から見て、紙屋氏の説が一番しっくり来る。
文禄元年(1592)年4月?日~梅北国兼は地頭職の領地返上が評議されていると知り、一揆を決意した
               

文禄元年(1592)年6月5日~島津義久~肥前・名護屋にて豊臣秀吉の饗応を受ける。

修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
義久は、この(秀吉の義久への心遣いに対する)御礼の為に、名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処
・・・つまり秀吉の機嫌が良いので「ホッ」としたとこ^^b


そんな中、梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、島津義弘に従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まったままだった。
むろん一揆を企てるためで、チャンスを窺ってたんです|壁 |_ ̄)じー

(梅北らは)「主君の仰せ」と偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合した。
6月14日~梅北らは(加藤清正が不在で留守の)肥後葦北郡・佐敷城を攻撃

朝鮮に既に渡海した義弘らは「兵が遅いなぁ」と気を揉んでました^^
そして名護屋に滞陣している島津義久も、一揆勃発を未だ知らずにいたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房32_朝鮮の役4・激戦】

文禄元年(1592)・・・「破竹の勢い」と言えば聞こえはいいが、クールに言えば「前線が伸びきっている状態」~~日本軍^^;

朝鮮国王は首都ソウルを捨てて「オランカイ(中国吉林省東部・朝鮮と明との国境)」へ脱出した。
勢いづいた加藤清正率いる一番隊も、オランカイまで進軍。
相良頼房も国境であるアンヘン(安辺)に至った。

そこで相良頼房は、大将である加藤清正に安辺城の在番を命じられる。
だが、この年の暮れに明軍からの援軍を得た、朝鮮側の反撃が始まった。

それは「黒山の人だかり」とか「雲霞の如く」という喩えのまんま。
ものすごい兵数で「野鳥の会メンバーでもカウント不可」な件~
それは全て騎馬武者で歩兵は一人もいなかったそうだ。

野も山も川も海も、とにかく見渡す限り騎馬武者で埋まった。
その余りの多さに「チキンハートな日本軍」が潰走したらしい。

このとき、振る舞い悪く退却したものは横目役(軍艦)が秀吉殿下に報告するであろうから、
帰朝の後にはたぶん改易(所領没収)されるであろう。

(南藤曼綿録より~ただし誰が逃げたかは記載なし)(江戸期に書かれてるので「秀吉」と書いてるんです)

相良が守る安辺城も朝鮮軍+明軍に囲まれた Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ

このとき家老、相良兵部(頼兄)をはじめ老臣たちは
「日本軍の大方が都に引き上げた今、相良氏の軍勢の戦力武器弾薬は敵の百分の一にも満たない。
これではとても永々の籠城はできないので、今のうちにどこか〔敵の包囲網の〕一ヶ所を打ち破って都へ引き返してはどうか」と進言した。

主君・相良頼房は
「皆の申すことはもっともである。しかしよく考えてみよ。
清正が申されたのは[この城は国境の重要なところである。相良氏は古風な家で万事律儀な家なので在番を命じると云われた]ので「ご安心くださいm(_ _)m」と申し上げたのだ。
侍が侍に対して堅く約束したのを、朝鮮人が蜂起したからといって、城を空けて退却することができようか。
自分はこのたびの陣触(出陣の命)の朱印状を拝見してからは、朝鮮国の土になるつもりで渡海してきたのであり、それは摩利支天もご覧になっているであろう。
番城を命じた清正方から伝令が来るまではこの城を出てはいけない( ー`дー´) キリッ


老臣たちも主君・頼房の言葉を聞き「至極尤ものご意見である、退却するのではなく城を守って戦うのだ!ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!」
と全軍に命令を出したので、城兵たちは活気づいた。

決意を述べた頼房が敵情を | 城壁 |_ ̄)じー と見て考えると、再び口を開いた。

頼房「歩行の武者は一人いない、それに騎馬武者は各人それぞれの兵糧を自分の馬の鞍につけているようだ。(手持ちの糧秣だけなので)この様子では長陣はできないだろう、時間を見計らって打って出、敵陣を押し潰してしまえ! ( ̄△ ̄)6m ビシ★~
弱冠二十にして、この胆力・戦況の判断力。
さすが、小大名といえども「関ヶ原」を生き残る当主だけのことはありまつ (*´艸`)萌~
10年早く生まれてダディ義陽を支えて欲しかったかも (´д` ;)

人物・相良頼房
幸麿さん作画:相良頼房イメージ画像

頼房の言葉を受けて、攻撃を一日延期したところ、二日目に敵軍が大太鼓に合わせて雪崩を打って攻めかかってきた。
藩主頼房「いまだ、打って出よ!( ̄△ ̄)6m
と命令をくだし、城兵は鉄砲を撃ちかけ突撃した。

敵は馬上で半弓を射ること、とても人間業と思えない早さだった。
矢を140・150~200本も背負い、雨が降るように射続けてくる。

それに対抗するため相良は馬を降り、徒歩で彼らのの乗った馬を切り、落馬した敵兵を撫で斬りにした。
敵兵の数が半端ないので首は取らず、とにかく力の続く限り切りまくった。
その奮戦ぶりに、10町(1町=109m)の間は死者だらけになった程であった。

だが敵兵力がケタ外れだったので、切っても切っても減らない。
やむなく相良の人数をまとめて城内にひきあげた。

その夜、敵軍は大鐘を鳴らして騒ぎ立てたが、翌早朝見てみると、大軍はみなオランカイへ引き払っていた。
来るのも去るのも、あっという間の明軍。

実は清正が在番していた城も、安辺城と同日に包囲されてたんです。
ですが清正が大軍をもって即時に追い払ったので、こっちも同日にオランカイに撤退しています。

援軍の明兵にとっては朝鮮国土が蹂躙されていても「所詮、他人事」なのでしょう。
頼房が気付いたように、腰兵糧(携帯用食料)しか持参してないということは「はなから本腰入れての援軍では無い」ってこと。
日本軍が思ってたより手ごわかったので、自軍の損害が惜しくなったのもあるでしょうね^^;


清正が言った
「私は大きな間違いをした、この辺りでさえこのように苦戦するのであれば、相良氏が在番する安辺は三日路奥にあり、オランカイとの境だからたぶん戦死したであろう。
我らの組中であり、また「万事後見せよ」と主君秀吉から命ぜられていたのに、やすやすと討死させては申し開きのしようもない。

大事な国境の城だから自分が在城するなり、大将クラス四・五人も差し置くべきところを相良殿一人に任せたことは、悔やんでも悔やみきれない。( ̄  ̄)トオイメ。。 
しかしながら過ぎたことをくよくよしても仕方がない。今はせめて相良殿の討死の場を見届けよう((((((((((っ´へ`)っ」

男・清正の想像はヒートアップ、すっかり討死扱いの相良頼房∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

清正が安辺に着いてみると、頼房は無事で城を堅固に守っていた。
清正「(ノ´▽`)ノオオオオッ! 頼房の手を取り、涙ながらに「朝鮮人蜂起によって諸方で苦戦していると聞き、
きっと頼房公も討死したのではないかと思っていたが無事で何より、死者が蘇ったような気がする。」


勝手に死んだと思い込んだ上に、ゾンビにされた・・・∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
清正って、けっこう面白い性格なんだなぁ^^;
 
「相良氏は古風な家柄とは聞いていたが、律儀そのものの働きで、しばらくとはいえ、討死したのではないかと考えたのが恥ずかしい」
と言い、両人は同道して都(漢城)を後にした。

時に相良頼房二十歳。
報告を聞いた秀吉は感激し、頼房に奉書を与えた。

頼房の死後、老臣たちは頼房を「まれに見る大剛の大将だった」と評し、朝鮮の役でのことを「一代のなかで、一番にとりあげるべきこと」と言っている。

さて、頼房の第一次朝鮮の役は終わった。
だが留守の間に肥後ではトンデモナイ事件が起きていたのだが それは・またの話 by^-^sio

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ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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