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【相良頼房28_親子鷹】

さて、世代交代に伴い犬童頼安の名を休矣(きゅうい)に改めます~~~(O ̄∀ ̄)ノ
意味は聞かないで_| ̄|○ il||li ・・・なんか中国の言葉からとったみたいです。

剃髪(スキンヘッド)し休矣と改名した犬童ですが、出家も隠居もしたわけではありません。

亡き主君・相良義陽の喪に服し、その菩提を弔うための剃髪で、在俗(寺へ入らず俗世間にいること)のまま。
嫡男・頼兄(よりえ)と休矣の通称は同じ軍七なので、剃髪した時に通称を嫡男に譲ったと思われます。

男子は頼兄一人で、他に娘(頼兄の姉か妹)がいたようですが詳細は不明。
頼兄に家督を譲った時期も不明ですが、一つの目安として武家の子弟が家督を継ぐのは二十歳頃だそうです。
休矣が隠居(現役引退)した時期も不明です^^;

剃髪後も休矣は、島津配下として相良'zを率いて各地を転戦してたし(主君・頼房も同行)、
奉行職も引き続き務め、休矣・頼兄の親子鷹が若き主君・頼房を支えたのです。
が、親子鷹は過去にもう一組ありました。

        
もう一組みの親子鷹・・・それは深水頼金(ダディ)・宗芳(ジュニア)です。

これにはちと説明がいりますね^-^

かつて相良家臣だった八代衆(現在・加藤清正配下)は、純然たる相良家臣ではなく元は在地の豪族たちでした。
そのためか、八代奉行も世襲職(地縁・縁故関係重視)だったんです。

いっぽう球磨(人吉)奉行は選定基準は解りませんが、世襲でないのは歴代奉行の名前がバラバラな事で解ります。
推薦?自薦?他薦?・・・とにかくそんな球磨奉行の中で「親子で奉行」がいるということは、
親子そろって優秀・有能ってことで、それだけに奉行衆の中で主導権を握る「勢力」があるってことです。

ジュニア長智が先々々代(つまり晴広)の13回忌に、休矣みたいに剃髪して宗芳になってるんで盲点なんだけど、
ダディ深水頼金はピンピンしてるし隠居もしてないし~~~∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

現当主・頼房の兄、忠房の代の時も奉行で、頼金・宗芳は親子で奉行~(* ̄・ ̄*)Vブイ
(お蔭で調査初期の頃、頼金と長智と宗芳がコンガラガッタ( ̄ー ̄A 汗フキフキ)

推定で70にはなってるはずなんで、てっきり程なく ( ̄人 ̄)☆彡~★☆・・・と思って記事にしてなかったんだけど、
監修様から「現当主・頼房の代の時も現役奉行だった」と聞いてビックリ^^;(何歳まで生きてたんだ?)

深水宗芳が独断専行で藤千代クン(頼房の弟)を連れ出し、秀吉に御家存続交渉が出来たのはダディ頼金の後押しもあったからだろう。
ジュニア宗芳が葦北代官になったことで、相良家臣の深水一族を見る目は胸中穏やかではなかったはずだ。

そのジュニア宗芳が亡くなり、後継の奉行として深水頼蔵と犬童頼兄が入閣。
ここに犬童休矣・頼兄のNEW親子奉行が誕生。(* ̄・ ̄*)Vブイ

奉行衆の主導権は深水一族から、犬童家へバトンタッチすることになる。

                    
家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

休矣は死後・殉死者が出るほど人品骨柄優れた素晴らしい武将で、その実力は島津家も認めるところです。
ですから休矣には相良家を牛耳ろうとか、奉行衆の主導権を握ろうなどどという「俗念」は微塵もありません。
ですが世間・・・・犬童家を快く思わないものは「そう」感じます。

なぜ「そう」感じるかと言うと、休矣の嫡男・頼兄が原因でしょう。
もちろん頼兄にも、そのような邪な考えはありません。己の職務を力一杯果たしているだけなのです。
問題は「その力一杯」加減。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

優秀な頼兄は、ガンガン仕事を片付けて、テキパキ物事を進めてしまう。
そのため新参・若輩でありながら「出過ぎ」てしまうんです。
人々は「何となく面白く無い」「何かモヤモヤなもの」があっても、功労者である休矣の手前、言葉に出すことはしません。
知らず知らずのうちに頼兄は孤立してしまう。

ちょっと後の話になりますが、息子の人間関係を心配し休矣が訓戒します(緑文字スルー可)。
今度〔相良〕頼房公は天下 (豊臣秀吉)のご朱印状を頂き、異国退治のためご渡海について、〔相良〕左馬介(頼蔵)殿のご相談相手として、若輩のそなたを任命されたうえは、
できるかぎり念入りに内外のことに隔て無く相談いたし、士卒恨みがないように武剛を抽んで、戦功が最要(最も肝心なこと)であるべきことはもちろんである。
先ごろより語り聞かせようと思ったけれども、其の方が若輩の故に語らなかった。

〔しかし〕この度朝鮮国に出立について、かどでに大体のことを語り聞かせよう。
よく聞きなさい。
先年宮内大輔〔相良〕義滋公御在世の御時、宇土(名和氏)と度々戦い、二度まで当家(相良家)が破れた。
その節〔相良〕義滋公が仰せ出されたのは、球磨・八代・芦北三郡の諸侍のうちに鑓柱(槍働きに秀でた人物)と思われる者を吟味いたし、一人ずつ三郡にて三人選出し、八代へ遣わすようにと仰せられた。
よって三郡の諸侍で吟味して、球磨より岩崎藤左衛門、八代からは蓑田三浦介、芦北からは竹下播磨の以上三人を撰出申し上げたところ、
まず蓑田三浦介を御前に召し出されて仰せられたことは、八代には鑓数は全部で何本あるかとお尋ねなされたので、十二本ある旨を申し上げた。
八代一郡数百人の侍中に十二本は劣の事(少ない)と、ご機嫌以ての外であった(悪かった)。
その後岩崎藤左衛門を召して、球磨には〔鑓は〕如何ほどあるかと仰せられたところ、二十四本ある旨を申し上げられた。
次に竹下播磨を召して、芦北には如何ほどあるかと仰せられたところ、七浦には一本しかない旨を申し上げた。
これは右の鑓柱と申す一人宛残し置いての數であり、しからば球磨二十五本、八代に十三本、芦北に二本である。
重ねて義滋公が仰せられるには、三郡の諸侍中にも腕の毛をさする鑓は多くはないものであろう。
それならば各方、宇土の合戦評定は三人で備え(防備)の次第(対策)を談合(相談)するようにと仰せつけられ、上意のように談合して〔防備の対策を〕申し上げた。
そこでそのように〔防備の対策を実行するように〕仰せ出されて、宇土衆(名和勢)は崩れて(破れて)、数多当家(相良家)に討ち取られて、〔相良義滋公〕は大勝利を得られた。
これは右三人の手柄である。合戦は鑓柱たる者の分別が専要(肝要)である。
私(犬童休矣)は、義陽公が未だ万満頼房と申しておられたご幼少の時、ご当地(球磨)へ召し寄せられ、
〔名を〕犬童美作に改め、その内他国での粉骨比類無かった。
ただし、永禄二己未年(一五五九)獺野原での合戦の時は、私三十八歳の時であった。横瀬大王に陣取っていたところ、
多良木勢が崩れたように聞こえたので急ぎ駆けつけ、牛頭大王坂に向かったとき、
私が命令したところ、東能登が過言(無礼な物言い)をしたので、すでに口論になったけれども、
脇から止める人があったので、双方理屈にしたがって互いに憤りを押さえ、その競いにのって両人先を争って〔敵陣に〕押しかけ、敵の首を取って高名をあげた。
このように張り合いによって勝利を得(ることもあれば?)、遅れをとることも必然である。
私は当年七十一歳である。物語に入らないことではあるが、今後の心得のため申し置く。

休矣パパ・・・説教長いっす∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ここで問題なのは深水頼蔵が、頼兄の上司だってことです。
休矣パパは16代義滋の逸話や、自らの獺野原(うそのばる)の戦いの経験を話し(頑張って読んだぉ)、
「(深水頼蔵と)念入りに内外のことに隔て無く相談」することを、微に入り細に入り伝えようとしたのですが、頼兄は訓戒を守れなかった。

頼兄の仕事が手早すぎて、上司であるはずの愚鈍・頼蔵は、置いてけぼり状態だったようです。

そうなると深水頼蔵も面白いはずがない。
帰り新参の犬童家と違い、深水一族は奉行職を累代務める譜代家臣の代表格なんです。
深水一族と犬童頼兄の対立の深まりは、不味いことに【朝鮮の役】の真っ最中で、
しかも対立が外部に漏れ政治問題化するのだが それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良頼房27_犬童頼兄(よりえ)】

***間が空いたから今更だがザッとおさらい***

【相良頼房・さがらよりふさ】・・・18代義陽の次男・相良家20代目当主にして人吉藩初代藩主。

本来なら家督に縁のない、ピンチヒッタースペア次男坊。
予期せぬ兄の病死により万が一の順番が来て当主となったが、島津配下となった相良家では喜ぶユトリ無し。
頼房は短い期間ながらも島津家の人質となって、大人社会の洗礼を受ける。

さらに島津の豊後侵攻にからんで日向入り~おそらく初陣はこの時だろう。
大名の子弟の戦場デヴューともなれば、重臣たちに全て御膳立てされ恙なく終えるものなのだが、
秀吉軍と秀長軍の九州入りで、急遽撤退することに アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ

同じ島津配下の国人や道案内を務めた地元民が、瞬く間に敵に転じて牙を向く。
重臣・深水宗芳の起死回生の交渉術により、相良家は豊臣秀吉に御家存続を認められる。

だが生き残るには島津を裏切る不義をしなければならず、
さらに秀吉によって、父祖の代からの領地である葦北郡を失い、相良家は僅か2万石の小大名となってしまう。

頼房少年は学んだだろう・・・
深水を見て、家名を残すためには、あらゆる手を尽くすことを。
犬童頼安、岡本ら相良家臣を見て、誰がどのような働きをしているかを。
島津への信義のために一人、人吉に戻らず薩摩へ行った菱刈を見て、どのような人物が信じるに値するかを。

それらの貴重な経験は、激動の時代を生きるための智慧となって、少年を大人にした。
【九州の役】【肥後&天草の国人一揆】は終わり、頼房の当主としての座は一応の落ち着きを見せる。

天正18(1590)年~北条征伐&奥州仕置発令・秀吉の天下統一がなされた年の8月21日。
相良家最大の功労者・深水宗芳が死去(享年59歳)

深水宗芳の死後、【朝鮮の役】【関ヶ原】・・歴史の奔流・波濤の中、相良家の舵取りをしたのが、犬童頼安の嫡男・頼兄(よりえ)だ
主要・出典元【南藤曼綿録】他からの引用は都度明記
関ヶ原まで残すところ10年!熱く激しくマニアック!生き残れ相良!ってネタバレしてる^^;

***丸椅子かソファーか、座り心地なんて想像もつかないが「権力の椅子」は一つだけだ***
***そして一つしか無いがゆえの【孤独】を、後に頼兄も知ることになる・・・・・・・***

秀吉に気に入られた深水は、主君の旧領・芦北郡の代官となった。
主君も相良家臣の顔ぶれも変わらないのに、己の立ち位置だけが変化するというのは、居心地の良いものではない。

だが家臣の中に「豊臣政権の代官がいる」というのは、一つのステータス・相良家の名誉でもある。
豊臣政権との外交パイプがあるのは心強いが、関ヶ原以降だと、それが逆に邪魔になる。
だから個人として深水宗芳は、いいタイミングで死んだと思う。

長命していれば間違いなく失脚し、深水一族もそれに巻き込まれたに違いない。
その深水が死の直前まで心配だったのが「自分の後継者」だ(深水の嫡男は父に先立ち戦死した)

深水は初め、犬童頼兄を養子にして後継者にしようとした。

犬童頼兄は重臣・犬童頼安のたった一人しかいない男子で、それを所望しようとしたのだから余程思いつめていたのだろう。
wikiによると「(養子の件を)一族の竹下監物に反対される。
宗芳はやむなく頼蔵(よりくら)を自らの後継としたが、心許なく思い、主君・相良頼房の許しを得て、頼蔵、頼兄の両人を自らの後継の奉行とした」とある。

人様の嫡男を養子~他に兄弟がいないのに~雷神様(立花道雪)より酷い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だからつい犬童家と深水家の関係をアレコレ深読みし、深水頼蔵の評価もアレコレ深読みしてたのだが、
亡き深水が思いつめるぐらい「パっとしない男」だったらしい_| ̄|○ il||li がくぅ~

人物・相良頼房
(幸麿さん作画~相良頼房^^)

深水頼蔵は生年が不明なので年齢が解らない、頼兄より3つ年上説と7つ年上説あり。
頼蔵評は『左馬助(頼蔵)は性質魯鈍、軍七(頼兄)は天性鋭気叡智にして左馬助に頭を出させず(嗣誠独集覧)』とある。
※嗣誠独集覧~南藤曼綿録と同じ梅山無一軒が書いたものです。

ろどん・・・(* ̄* ̄*)ムゥ・・・ほら、一口に魯鈍って言っても色々あるじゃん!
例えば「黒田如水と長政が並んでいれば、長政がドンくさく見える的」な感じかもよ!
と、好意的に解釈(深読み)してみたが、実は上記の緑文字部分は南藤曼綿録だと経緯が違う。

宗芳が頼蔵を推したが、当主・頼房が「左馬助(頼蔵)一人ではとても勤まるまい」として頼兄も同役に任じ(以下略
主君も「心許なく」思ってたようです_| ̄|○ il||li がくぅ
はぁ・・・深水は死んでも死にきれなかっただろうなぁ・・|草場 |・T)じぃ。。。

犬童頼兄(通称が軍七^^)は、年少の頃は稚児として寺に入っていた。
稚児になるだけあって、容姿端麗(イケメン)だったらしい。
元々秀逸な性質なとこにもってきて、寺で成長したから受け答え明朗明解、所作もバッチリ物腰涼やか~~。

深水頼蔵・・・たださえ魯鈍なのに、頼兄と同役では余計に見劣りし、ぶっちゃっけ引き立て役。
魯鈍といっても、知能がアレなわけではない。
自分が他人から「どう見られているか」は怪しいが、少なくとも「頼兄と比べられている」のは自覚している。

かたや明敏な頼兄から見れば反応の鈍い頼蔵にイライラする。
頼蔵に理解させるために費やす時間が勿体ない。

当然のごとく二人は非常に不仲で、主君・相良頼安を悩ませるのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房26_功臣の死】

深水宗芳が犬童頼安の嫡男・頼兄を養子にしようとしたのは、深水自身の保身だったかもしれない。
相良家御家存続の大功労者の深水だが、その時に重大な越権行為をしているからだ。
仮の話だが「秀吉が相良家に含むところがあれば」「深水の行動を利用して」「相良家を分断していたかも」しれないんです。

深水の越権行為とは?まず(* ̄・ ̄*)b島津への不義・・・島津から関白へ乗り換えたのは深水の独断です。
当主の頼房は日向国にいたので、連絡してたんじゃ時期を逸する・間に合わない~~というのは解る。

だが、あくまでも結果オーライなだけで、タイミングが悪ければ(島津にバレるなど)日向にいる頼房の身に危難が及んだかもしれないのだ。

これは序の口で、序の前も序二段もないが、一番問題な行動~~
頼房弟・藤千代クンを「頼房に無断で」「頼房の前に」「秀吉に拝謁させていること」です。
相良家存続を訴えるためには「相良家の誠意(人質)」が必要なのは解る。手ぶらでは行けない。

だがそれが藤千代クンである必要があっただろうか?
島津の筆頭家老・伊集院忠棟は、自分自身を人質としているし、
後年の関ヶ原の戦いで前田家が生母を江戸に人質に出したのは有名だ。

普通の生母ならトウが立ってるが、若年の頼房ママンなら秀吉が喜びそうな熟・・・ゲホグホ失礼!
とにかく秀吉の女好きは知れ渡ってて、女性を人質として差し出す国人は少なくなかったんです。


源平合戦・南北朝の戦い・戦国時代・関ヶ原・・・大きな政変・戦になると庶流が嫡流を凌いだり、弟が兄を差し置いて当主になる「逆転劇」が、しばしば見られる。
相良家そのものも元を糺せば庶流で、南北朝で嫡流を凌ぎ、戦国時代で嫡流を倒した歴史がある。
関ヶ原以降に伊達政宗が「豊臣家に近すぎる」という理由で、長男を家督から外し次男を跡継ぎにした話も知ってる人は多いだろう。
(おかげで親子関係の修復に時間を要した)

吉川家でも元春(父)・元長(嫡男)が相次いで亡くなり「家督をどうする?」って話になった。
他家に養子に出してた次男を戻そうか・・・という話が出た時に小早川隆景が言った。
小早川「家督は次郎五郎(広家)だ、関白殿下が見知った者を当主にすべき(大意)」この発言で末弟の広家が当主になった。

管理人が言わんとすることが解るでしょうか?
万が一「頼房が島津加担の罪は勘弁ならぬ」となったら、弟・藤千代を当主に戴き御家存続を願い出るm(_ _)m
深水宗芳が藤千代クンを伴ったのは、そこまで考えたからだ・・・と思います。

逆に「もし秀吉が相良家の力を削ぐこと」を考えたなら、「藤千代クンを当主にして球磨を安堵」します。
さらに、頼房を処断(強制隠居など)しないまでも、日向か筑後あたりに飛ばして与力大名にしてしまう。
これで完全にノックアウト。相良は頼房派と藤千代派に分裂し二度と和合することはない。

だが秀吉は島津ほど相良家を危険視してはおらず、自ら関白の下知に従う姿勢を見せたことを喜んだ。
何より目の前の深水宗芳を気に入ってしまったことが、深水にとって有難くも気苦労な事態になる。

深水を気に入った秀吉は、蔵入地(=直轄地)の代官とした。
ウィキペディアには簡素に「水俣の代官」としか書いてない(ほんと大雑把なんだから!)
これでは相良を知らない人や土地勘無い人は、現代の水俣市規模を連想してしまう^^;

水俣だけじゃないんです。葦北郡全部・・・深水は郡代官だったの。
城代も2つ兼務。水俣城と津奈木(つなぎ)城です。
葦北郡の石高は慶長9年で17000余で、相良家の球磨郡は約2万。

天正年間の石高は解らなかったが、主君である頼房と深水の代官地に大差がない。
代官ともなれば任地に赴かねばならず(城代だし)、都度主君へ「行ってきまつm(_ _)m」挨拶しただろう。
葦北は相良領だったのに・・・|次の間/襖 |_T)じぃ・・・by相良家臣

深水は和歌が堪能・・・つまり空気読む能力スペックが高いから、すごい気まずかっただろうなぁ。

年若い主君・頼房は(この時点では)深水にどうこうは無いと思う。
深水は島津義久との関係融和に努めてたし、深水の独断専行のお蔭で御家存続だし、肥後一揆のチョンボもフォローしてもらったし・・・・・それでなくとも祖父の代からの功臣だから頭が上がらない。

功績が大きいのは悪くない、だが秀吉から貰う見返りが大きすぎて、非常にバランスが悪い。
藤千代クンを当主うんぬんは管理人の推測で、そんな意図は深水に無かったかもしれない。

だが管理人が勘ぐったように、相良家臣が勘ぐる可能性はある。
もし深水が「秀吉死去~関ヶ原まで」存命していたら、間違いなく失脚していたことだろう。

天正18(1590)年8月21日・・・深水宗芳死去・享年59歳・・それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房25_対立】

自分は武将の評価・分析をする時に「好悪・善悪」を、一切判断基準には入れない。
武将の行動・作戦に対し「是非」も判断基準に入れない。
昔と今とでは価値観が違うのだから、今日感覚が入ったら解釈を間違う。

ただ一つだけ・・・・管理人は「やっぱり女」なので「主役となる人物に惚れない」と記事が書けない。
(調べても記事にする気が湧かないんです)

相良義陽は解りづらくて惚れるのに時間がかかった。
ゆっくり熟成しクライマックス(響野原の戦い)まで、気持ちを盛り上げたので、
今では義陽&相良が、筑前・秋月ファミリーくらいまで好きな武家だし、肥後戦国史は最高に面白いと思う。

あ、もちろん日向も~大好きな国人いるし~大隅も薩摩も~大友家臣団カッコイイ~
結論・管理人は惚れっぽい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

惚れた贔屓目ではないが、自分の中で相良義陽は「ひとかど以上の人物・人柄!」<( ̄^ ̄)/ビシ★
ただ名門当主らしく最前線に出たのが一度だけ(死んだ響野原の戦い)なのと、
どうやら基本性格も文治タイプのようなので、他の戦国武将に引き比べると華々しさに欠ける部分はあると思う。

管理人が惚れたように、相良の面々も義陽の気性を愛していたと思う。
不穏な動きは感じられるものの、獺野原(うそのばる)の戦いクラスの内乱は無い。

義陽は領内統治に関し、生母や深水ら重臣らの力を借りながら、その人柄で上手く家中を纏めていたに違いない。
(ただし、見方を変えれば義陽は優柔不断でもある)

だからこそ相良家御家騒動の遠因は「義陽の死」になると思う。

義陽が何とか抑えていた(後回しにしてたとも言う)相良の不満が死後に噴出した。

相良家中の不満とは、深水一族と犬童シンパとの対立だ
深水一族と犬童一党の対立は義陽生前には表だってないし、死後直後も大きな動きはない。
というより相良家存続は、深水宗芳と犬童頼安が協力し合っていたからこそのものだ。

だが、ぜ~~~~~~~~~たい根っこの部分で燻っていたはず |壁 |_ ̄)じー

「そう思う根拠」は、深水宗芳が自分の後継者に犬童頼安の息子・頼兄を据えようとしたからです。

深水宗芳の嫡男・深水摂津介は父に先立ち戦死した。
それも島津配下となって戦った阿蘇合戦(島津VS阿蘇)に従軍してた時で、なんというか実にやるせない話で、
お悔みの言葉が出て来ない「名誉の戦死」とでも言うしか。。(ω・`))シュン

ウィキペディアだと「当初、深水長智(宗芳)は一族に優れた者がいない為、既に死去していた嫡子・深水摂津介の代わりに犬童頼安の子・犬童頼兄を自らの後継にしようとした」
と、簡素に書いてるが、それがそもそも不自然ではないか。

犬童頼兄は頼安の嫡男なのだ。
他家へおいそれと出せる道理ではない~
しかも深水家には宗芳に連なる血縁者がいる・・・それを差し置いて他家から所望?

九州の役直後の難しい舵取りを任せられる人物がいないから・・・一見、尤もな理屈だが、
一族から見れば超失礼「馬鹿な話だ!当主が未熟なら一族の者が支えれば済むこと!」なんです。
家中の反対を押し切り犬童頼兄が来たとしても、孤立して身動き出来なくなるのがオチだ。

そもそも犬童頼安(既に剃髪し名前を変えているが便宜上このまま)が、嫡男を出すことを承知していたのか?
養子の件を頼安が承知していたなら・・・犬童一党と深水一族の対立があったことの傍証になります
家中の不和を抑えるには「犬童家」と「深水家」が一つに統合されるのが一番の早道だからです。

深水家は代々奉行職を務める譜代の家柄。

犬童頼安は「帰り新参」
犬童頼安は祖父母の代で相良家御家騒動に加担し敗れ、一族郎党が処断され幼少の頼安だけが助命された。

頼安自身にも「一族の仇討ち」のため謀反に加担し出奔した黒歴史がある。
その犬童頼安を赦免し抜擢したのが相良義陽だ。

人物・相良義陽
(久々の相良義陽~)

家臣の推薦でなく、義陽自身が犬童の才覚を見出したのなら「人物眼」に秀でていたことになる。
細部のツッコミはともかく、犬童は義陽と出会い「一族の仇討ち」を止めた。
犬童は義陽の人柄に心酔してたんじゃないだろうか。
義陽の死後剃髪してるし戦死場所に廟所を立てている。

黒歴史の新参者が重用されるのを、譜代家臣・一族が快く思うはずがない。
犬童が活躍できたのは義陽の後ろ盾だけでなく、重臣の深水宗芳の器量が半端ないんで、頼安の存在を受け入れていたからだろう。

深水宗芳が一族から後継者を選ぶのを危ぶんだのは、単に器量の問題ではなく、
「犬童を快く思ってない者」が当主になれば、禍根になるのを恐れたからではないだろうか。

だが深水一族の竹下監物に「養子話」を反対される。(当然です)
宗芳は諦め甥の頼蔵(よりくら)を後継ぎとしたが、なおも不安で、
主君・相良頼房の許しを得て、深水頼蔵と犬童頼兄の両人を自らの後継の奉行とした。

譜代家臣と新参で武功厚い家臣が、タッグを組めば当主若年でも大概の難局は乗り切れるだろう。
だが、そのカップリングが上手くいった試しは・・・・あまりない( ̄ー ̄A 汗フキフキ

譜代と新参が二人三脚出来る時⇒⇒⇒仕える主君も度量・器量が優れている時。
主君・義陽+譜代・深水+新参・犬童・・・・このゴールデントリオが奇跡だったのだ。
なまじ養子ウンヌンが持ち上がっただけに、深水頼蔵と犬童頼兄は歯車が噛み合わなくなるのだが それは・またの話 by^-^sio話 

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【相良頼房24_決着~天草国人一揆5】

前回の一騎打ちで対決予感O(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワクの引きで、次回に続く・・としましたが、
実は出展元の「北肥戦誌」では、描写が非常にクール^^;

木山弾正の大将同士・一騎打ちの求めに、加藤清正は十文字槍を掴んで応じると、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
木山「ぐはぁ」
(木山の膝が崩れたのを見て)後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、
清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。

大将首をとった大手柄の阿波鳴門だったが、流れ矢に当たり戦死する。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、清正の旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。


木山VS加藤清正は辰の刻(AM8頃)に始まり、午の刻(PM14頃)に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人。

清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢(成冨茂安勢)が追い払った。
ちなみに成冨さんは、感謝した清正から感状を貰ってます^^b

天草からの援軍である木山勢は敗退したが、志岐城の志岐麟泉は籠城続行。
かといって先行きのアテがあるわけじゃない。ヤバイ感が漂うなかに助け舟を出す者あり。

それは猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ

義弘「麟泉は中務大輔(亡き出水薩州家の島津義虎のこと)の婿にて某にとっても縁者に候。
(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘の婿・親重が麟泉の次男(養嗣子とも)
(島津義虎は義弘の兄・義久の娘が正室で義弘から見て、義理の甥になる)
願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させますm(_ _)m」と求めて、これが秀吉に許された。、

11月10日~志岐麟泉は有馬修理大夫政純を頼って下城、小西行長へ城を明け渡した。

※本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、
養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。
後の加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある)

人物・島津義弘
島津義弘画像

11月20日~清正と行長は天草種元の本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25,000余人で向かった。
翌21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付く |竹束|゚Д゚)))コソーリ!!!!
24日~鉄砲を撃ち方始め~~。

同日・未の刻(PM14頃)~天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に無事、城へと戻った。

翌25日~寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。

これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討死が多かった。

でもって、北肥戦誌には記載無しですが、地元に残る伝承では本渡城に木山弾正の妻・お京の方がいたとされています。
彼女にまつわる秘話・延慶寺(えんけいじ)の兜梅~興味のある方は検索してみてください^^

さて、本渡市教育委員会刊『天草の歴史』によると、天草(一族の久種だけが別の場所にいたらしく生き残った)に続いて大矢野・栖本・上津浦も降伏。
その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられた。

その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。
この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。

さらに朝鮮出兵の際、行長はこの天草・栖本・大矢野のメンバーで構成された水軍で渡海。
これに松浦・大村・有馬、対馬の宗・五島といった水軍の得手が加わったことで、一番乗りに繋がった。

小西(旧天草国人)水軍の大島子村の益田日向兵衛、町山口村の大谷諸兵衛らが、水夫の統率者として従軍し功があったとあります。

天草国人一揆は鎮圧された。

ウィキペディアによると天草の石高は1万石とある。
(天正16年の時点で、大矢野氏は1,755石、栖本氏は850石、天草氏は一族と併せて3,000石ほど)

太閤検地以前の検地は、指出(さしだし)検地と呼ばれ・・・早い話が領主の自己申告。
さらに内容も米の収穫からの算定のみで、他の穀物の収穫や運上金などの別途税収はカウントされていない。

+プラス豊臣政権以前は石高制ではなく、貫高(現金決済)制な上に秤の基準数値が各地でバラバラ~という感じなので極めて不正確だった。

慶長13(1608)年の検地で、天草郡は21,616石とされる。
だが米以外の収入を入れても、果たして倍になるものなのだろうか。
いまさらだが天草郡は大小の島からなる。

季候がどれほど温暖であっても、島である以上は風雨による塩害が避けられず、耕地に出来るのは内陸部に限定されるだろう。
そもそも天草郡は山地が多く耕地にできる場所は少なかった。こりゃ2万も怪しい(--;

仮に21000石あったとして、それが江戸期には更に4万2千石だ。
(領主・寺沢広高が田畑収穫で37000←絶対無理+漁獲・茶・桑・塩など別途歳入5000とした・・・)

とてもじゃないが租税率のアップに民度(生産力)が追い付かない。一揆(島原の乱)が起きるはずだ。
離島の歴史というのは、悲惨・悲哀がつきまとう。本島に近い遠いは関係ない。

さて、個人的な拘りで5話に至るまで国人一揆に御付き合い頂き感謝に堪えませんm(_ _)m
次回より、我らが相良家に戻ります。

御家騒動がキナ臭くなってきますよ~それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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