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【相良頼房42_1再び朝鮮の役】

相良家と秋月家の接点は、もう一つあります。
それは朝鮮の役です。
話を慶長4年から慶長元年に戻します^-^
豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年)に亡くなるのですが、当時一つの噂が囁かれていました。
それは朝鮮との講和の折に毒を盛られた・・・というものです。
出典は例によって「南藤曼綿録」^^/

慶長元年(一五九六)六月二十七日から朝鮮国・遊撃将軍(沈惟敬)が来朝して、講和の会談が始まった。
太閤秀吉は伏見にいたので、惟敬は秀吉に面会して講和の内容を述べ、しばらく伏見に滞在した。
その間に秀吉に近づき、毒を進上したという噂が広まった。


進上した毒は三年ほどで効き目をあらわすもので、毒を丸薬にして絶えず持ち歩き、御前で服用して見せるのである。
秀吉はこれを見て「(惟敬に)それは何か」と尋ねれば「(惟敬は)これは良く効く補薬です」と答え、
「もし秀吉が服用しても効くものであれば差し出せ」との要求に、
惟敬は喜んで「いかにも年齢相応に効き目がある」と奉じて提出した。
その後、惟敬は本国に帰ったが、三年過ぎて慶長三年(一五九八)に秀吉は死んだ。沈惟敬も死んだ。

まことに大国のやり方とはいえ、人を殺そうと毒薬を調合し自分も服用して見せるとは、
深い謀略による殺人だと、そのころ世間の取り沙汰をそのまま書き記しておく。

似たような話を聴いたことあるようなぁ~~
とにかく朝鮮との講和は破談となり再び諸大名は出陣します。

慶長元年5月、加藤清正の帰国命令に伴い、組下の頼房も帰国(共に伏見屋敷に居た模様)。
7月12日に伏見大地震。
10月、相良頼房は高麗(朝鮮国)へと渡海する。
が、風に恵まれず壱岐島で年を越すことになった。

家臣らは平戸で年越し~翌年の酉年元日から海上の天気がよくなり壱岐へと渡った。
正月3日に頼房公のもとに参上し、m(__)m<明けましておめでとございます~と挨拶。

その頃から船が進むのによい風が出てきたので、一同船出し高麗のセツカヒ(西生浦)に船が着いた。
同年の5月2日にセツカヒ(西生浦)から釜山海に移動~そこに滞在。
今度は森壱岐守殿(毛利吉成)の組で、頼房、島津叉七郎(豊久)、高橋九郎(元種)、伊東民部太輔(祐兵)と秋月種長が加わり、この6人は釜山海で勤務することとなる。

個人的ドリームチーム~~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

さて、アン高麗(安骨浦)に番船(海上警備の船)が寄って来たという報告があったので、先の6人は皆それに向かい、まず鉄砲で打ち崩し、船からも半弓を使って激しく防いだ。
けれども防ぎきれずに数艘の番船はカラ島(唐島・巨済島)へ立ち退いた。
この時、稲留惣左衛門が討ち死にした。
日向衆(椎葉姓の者がいるので那須13人衆の手勢か?)の三人も討ち死にした。

番船というのは敵船のことです^-^
敵側の攻撃を防ぎきれず被害が出た・・・
猛将タイプ・相良頼房はリベンジに熱く燃えるのだが、それは・・・またの話^-^

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ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良頼房41_独り・・・】

相良家家老・犬童頼兄・・・

彼の「幸福」は、関ヶ原という戦国最高の檜舞台で、思う存分自分の器量を活かせたことだろう。
同時に彼の「不幸」は、余りにも大きな功績を立てたことだった。

彼の主君・相良家20代目当主頼房は、剛毅な猛将タイプで、家臣である頼兄の才覚に嫉妬するような狭量な人物ではない。
むしろ「ワシだからこそ頼兄を召し使う事が出来るのだ」という自負があったんじゃないだろうか。
だからこそ「ワシの死後、犬童一族をコントロール出来る者がいない・・・」と後の禍根を恐れたと推測している。
人物・相良頼房
(幸麿さま作画:相良頼房イメージ画像)

法廷からトンズラ?ドタキャン?こいた深水頼蔵は加藤清正の庇護の元、第二次朝鮮の役で加藤軍に従軍して行った。
半ば自業自得なのだが、もはや相良家には深水頼蔵親子の居場所は無く、加藤清正と共にあるしかない。
同じ組(陣)に所属する相良と加藤の関係は・・・
と思わないでもないが、何しろ清正は太閤の親戚で子飼いで肥後半国の領主だ。
2万石の相良家とは勝負にならない。

相良家が多少 |何か言いたそう|x・`)チラッ としてても、清正が石田三成と敵対している限りは三成への嫌がらせの為に深水頼蔵親子を匿い続ける。
(三成は深水頼蔵の捕縛命令を出してた)

てか家中の対立が外に漏れるのは決して外聞の良いものではなく、相良家にとっても騒いで恥の上塗りは避けたいだろう。
この問題が尾を引かずに済んだのは、当の深水頼蔵が蔚山城で戦死したからです。

当事者不在では話にならない。
相良家と清正の間にどうこうは無いが、清正の三成への遺恨が増しただけで終わった。

・・・・なんか三成が気の毒な気ガス・・・・ここまで嫌われるってどうなんだろう・・・
三成に限らず、権力の頂点にある者は孤独だ。
深水一族というライバルを退けたのと引き換えに、相良家中で頼兄は急速に孤立していった。

慶長2年(1597)2月・・・深水頼蔵出奔後に頼兄が東喜兵衛(主君・頼房の祐筆)に宛てた言上書には、
「諸人が憎しみを持っても、顧みない程の御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者だ」と書かれており、

またその翌月には、頼兄が 東・犬童・稲留の三氏宛てた書状には、
「自分には御家中では気心の知れた人は一人も居ない」とある。

魯鈍とはいえ上司に何も言わせない状況を作ったほどだから、もともと同僚としての頼兄は近寄りがたいムードがあったかもです。それが相良家の主導権を握ったのだから、気安く声をかけられたりとか、屋敷飲み会にも声がかかることが無くなったんじゃないだろうか。
後年の頼兄の失脚は、この孤独が招いたものだろう。

ちなみに頼兄が手紙を書いた3人が誰かなぁ~と監修様に尋ねた。
★手紙を出した相手・・・可能性として一番高いのは、頼房の祐筆・東喜兵衛(朴河内城での失態を演じた東頼一ですね)、犬童は犬童弥助、稲留は稲留宗左衛門でしょう。
犬童と稲留は共に、竹下監物征伐の際の使いの役を務めています。
話の本筋には全く関係なかったんだけど、記録として残しておきたいので、ここに記します。

ん~~~なんか空気が重いなぁ~なんかパァっと騒げるネタないかしらぁ~~~~~
豊臣秀吉・・・慶長3年8月18日(1598年9月18日)に死亡
騒げない・・・ il||li _| ̄|○ il||lズゥゥ~ン
慶長4(1599)1月11日~相良頼房が従五位下に叙されました~~
御祝い御祝い~~φ(-ω- )カキカキ_φ( -ω-)ノ[才×〒├-]ペタッ
同年閏3月3日~前田利家が死去~
( ゚д゚)ンマッ!
同年6月8日~秋月家の息女・竜子と相良頼房が祝言・結婚・婚儀~~
祝言~~♪同じアホなら♪ヽ(^^ヽ)♪(/_ _ )/♪踊らにゃソンソン♪
ケコ~ン~~√( ̄‥ ̄√どじょうすくい!
高砂や~へ(´∀`へ)ヨイヨイ♪(ノ´∀`)ノヨイヨイ♪
あぁ~~~~~~~~~ここまで長かったぁ~~~~~~~~~~~~~~~
やっと相良家と秋月家が繋がったぉ~~~

そもそも国人オタの管理人が、相良家に目をとめたのは「秋月竜子が相良頼房と再婚」してたからなんです。
ネット検索では婚儀の日時も不明だったし(監修様、資料提供感謝!!)
竜子の再婚相手を探すことに超苦労(相良頼房から検索すれば一発なんだけどね)したのも懐かしい思い出です^^
さて、関ヶ原~その前に相良家の「第二次朝鮮の役」です^^b
それは またの話^-^

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【相良頼房40_法廷闘争?】

今回は(池田こういち著『肥後 相良一族』&人吉市史)を参考資料とさせて頂きました。

深水頼蔵が石田三成へ訴状を出した正確な時期は解ってません。
慶長元年(1596)年10月13日に深水頼蔵が相良家を出奔し、加藤清正に匿ってもらってます。
実父・織部も息子に続き出奔し、二人を追って出奔しようとした深水一族73人を犬童頼兄がバッサリ成敗
(詳細経過は前回既出)
それを憤った深水頼蔵が公儀(この場合は豊臣政権)へ訴状を出した。

これだけ書くと「犬童DQN」って思われるかもですが、戦国も江戸期も出奔(脱藩)は基本許されることじゃありません。
だって主家の内部+軍事情報を抱えてるし、郎党を引き連れていれば主家の兵力減にもなります。

だから勝手に出奔の誰かさんは追手や刺客を放たれたり、某氏は「奉公構え」くらったりと、それなりの報復を受けるものなんです。
加藤清正の保護下にある頼蔵・織部親子が無事な代わりに、相良領内に残る深水一族にトバッチリが来るのは政争の常。
とにかく訴状は慶長元年(1596)10月13日以降で、第二次朝鮮の役出兵までの間に起きたんです。

石田三成は訴状の確認の為に犬童頼兄を召して、深水頼蔵と共に詰問した。
頼兄は「深水一族への処断は、法に照らしてなされるもので、個人の勝手な判断で行ったものではない。
主君の命により成したものである。
と述べると、主君・相良頼房からの指令が書かれた文書を提出した。
頼蔵「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

実は・・・初めのころ、相良頼房と犬童頼兄の衆道関係を疑いました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ
(頼兄は美形で寺の稚児上がりの経歴なんで、つい腐女的発想を・・・ゴニョゴニョ)

主君・頼房にしてみれば「アタシ(深水一族)と、あの女(犬童一族)のドッチを取るのよ!」と究極の選択を迫られた状態なわけで、頼房「魯鈍ちゃんより、仕事の出来る方が (・∀・)イイ!!」となるのは当然の帰結。
亡き深水宗芳が生きていれば、頼房も頼兄だけを選ぶことは無いだろうし、そもそも両派の争いは起きてないだろう。

なんとなくなんだけど、深水頼蔵は深水一族の過去の功績から「自分は大丈夫」って、根拠レスな思い込みがあったんじゃないだろうか^^;
で、不利を悟った頼蔵が何をしたかと言うと・・・法廷からトンズラ。・゚・(ノ∀`)σ・゚・。アヒャヒャ

妄想1:三成・頼兄の前を頼蔵が脱兎の如く逃走~三成・頼兄 ( ゚д゚)ぽかーん
妄想2:頼蔵が「イテテ~持病の癪が・・・ちと休憩」と言って退出遁走

具体的に、どうやってトンズラしたか記録に残ってれば面白かったのに~
頼蔵がトンズラしたと知った時の三成の顔を見て見たい(大爆)

そして改めて三成は頼兄に、頼蔵追捕の許可状を与えたそうだ。
その追手は山井五郎により殺害され、深水頼蔵は事無きを得た。
「石田三成が捕縛しようとした」と聞いて、加藤清正は増々意地になってしまったらしい。
深水頼蔵を匿った(伏見屋敷か?)
深水一族と犬童一族の争いが、加藤清正と石田三成との争いにまで発展?それは またの話^-^

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【相良頼房39_亀裂】




文禄4年(1595年)1月・・・朝鮮にいる相良頼房の元へ「石田三成家臣・黒川右近が検地の為に下向した」旨が伝えられた。

相良家も島津家と同じく、当主が朝鮮出兵で留守の間に検地が実行されたようだ。

その時に主君・頼房は、犬童頼兄を帰国させている。

どうやら前年の竹下監物(深水一族)誅殺以降、深水一族と犬童一族の対立は如実化しており、

それを懸念した頼房が、頼兄を帰国させたらしい。

石田三成家臣・安宅秀安は5月に犬童休矣へ下記のように伝えた。

(安宅秀安~石田家において主に島津・相良との折衝にあたった家臣)
「頼房の在陣は大事(竹下監物誅殺)の前のこと。

犬童休矣・頼兄父子と深水織部・頼蔵父子の諸事に渡る熟談を勧める。

両者の対立は大人げなく、第一に頼房の為にも宜しからず、

検地の実施に於いても、休矣・織部(ダディ同士)で熟談の上で、頼兄を上方に差し向けたのであろう。

そうでなければ、三成も非常に心配している」

相良家中における深水一族と犬童一族の相克は奉行たちの耳にも達しており、相良の御家取り潰しの可能性が示唆されていたらしい。

文禄4乙未年(1595年)黒田甲斐守(長政)が帰国し、その陣所が空いたので(相良頼房は)そこに移って翌申年まで在番した。

そのうちに、清正の陣に自分勝手な振る舞いが秀吉の耳に入ったので、その申し開きのため清正は帰国した【※】。

頼房も翌年5月に帰国し、直に京都に上り、太閤秀吉にお目見えのうえ事情を説明して、同年9月に球磨郡に帰着した。

(出典:南藤蔓綿録)

【※】清正の帰国

明との和平交渉について、小西行長・石田三成らから弾劾された清正は、秀吉の怒りをかい、
慶長元年(1596年)6月に帰国を命じられ、京都伏見屋敷に謹慎となった。

朝鮮から帰国してるのに、地元の土を踏まずに自ら京都へ報告・・・律儀なんだなぁ。

いや、そのくらいしないと宮仕えは務まらないか・・・。。。( ゚Д゚)y─┛~~

とにかく相良勢は9月にやっと故郷に戻り、戦塵の垢を落とし、マタ~リお茶 ~~旦(-^ )頂きます♪

じゃなくって、その前に出陣前に参詣した社に御礼参詣デショ! (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

母上(義陽の正室)&ママン(生母)に帰国の挨拶した?
留守中の検地の報告に目を通して! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

忙しいながら、日常を取り戻しつつある時に「事件」が起きた。

慶長元年(1596年)10月13日~深水頼蔵が加藤清正の元へ出奔!




(監修様作画による、深水頼蔵と犬童頼兄のイメージ画像)

深水一族と犬童一族の確執は、抜き差しならぬものとなり、ついに最後の一線を越えて「頼蔵出奔」に至った。

深水頼蔵の実父・深水織部も息子に続いて出奔。

[球磨]ε=ε=(* ̄ー)ノノ[佐敷(現:熊本県葦北郡芦北町)]に住んだ。

家老の犬童頼兄は、頼蔵・織部の妻子を捕えて監視させたが、これに深水一族は反発。

恨みから町屋を殺掠する事件にまで発展する(犯行に及んだ9人が討ち取られ、残りは逃亡)。

また頼蔵の移り住んだ佐敷が深水氏縁故(★)の土地であった為に、

出奔を企てる深水一族が後を絶たず、犬童頼兄はその通路に待ち伏せさせ、一挙に73人を殺害した。

(★葦北は亡き深水宗芳(頼蔵の叔父で養父)が、豊臣秀吉に抜擢されて郡代官を務めた地です)

相良頼房は朝鮮の役で、加藤清正の陣に所属した。

頼房が国境の城を守り抜いたことに感動していた清正が、相良家を出奔した深水頼蔵・織部親子を匿った。

これは加藤清正と石田三成の確執・政争が絡んでしまった事によるらしい。

朝鮮でも加藤清正は(頼房が戦死した)と、早とちりしたりするあたり、意外と思い込みが激しいっぽい。

深水親子と対立している、犬童頼兄に「大嫌いな石田三成が肩入れしている」とでも思ったのだろう。

あるいは深水頼蔵が清正に対し、そのようなことを言外に匂わせたかもです。

相良家の検地は石田三成(正確に言うと家臣を派遣)が行っており、その時期に頼兄も帰国してるので、

傍から見れば「一連ナカマ!((( ^-^)爻(-)))ナカマ!托生」に感じたかもです。

主君・頼房が案じて頼兄を帰国させたのに、既に関係が拗れまくってたので、悪意でしか物事を判断できなくなってた。

一族が殺されたことを知った頼蔵は「頼兄の深水一族への行為は私怨によるものである」として石田三成に訴え出た


相良家中の争いが「公儀の俎上」に乗っただが それは またの話^-^

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【相良頼房38_争乱】

文禄2年(1593年)相良頼房公は、清正と同道して安辺から高麗の都(漢城)にお出になり、そこから諸軍勢は元の陣にお帰りになった。
頼房公は清正と一緒にセツカヒ(西生浦)に在番した。

出典「南東曼綿録」より

争乱は、主君・頼房が朝鮮出陣で不在の時に起きる
「御家騒動」で定評?のある相良家・・・その家中の争いは、加藤清正と石田三成をも巻き込むこととなる

上司・深水頼蔵(年齢不明だが頼兄よりは年長さん)、部下・犬童頼兄。

文禄2(1593)年現在、共に主君・頼房と共に朝鮮へ出陣しているのだが、実は渡海前に一悶着あった。
頼兄が切れ者過ぎるのか、性格もキツイのか、上司なのに頼蔵は仕事に関して手も足も出せなくて、(頼兄の事務処理能力に対応できない)おいてけぼり。。(ω・`))ポツーーン

男女の別なく職場がこれでは辛い・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ

頼蔵は「魯鈍」って記録されてるくらいだから、そもそも能力以上の地位なわけで、気の毒と言えば気の毒なんだが、この後の頼蔵を見るに「器量も人の上に立つガラじゃない&どうにも小物臭がする」

朝鮮への渡海命令が下ったのだが、深水頼蔵は拗ねて出社・・・もとい出陣拒否して山田に御籠り。
.......ドウセワシナンカ、頼兄ガイレバイインダシ・・・・( ___ ___)σイジイジ

頼蔵を深水家の跡目にと推薦した深水一族の竹下監物が コッチコイ!( ̄- ̄ )o―――――∞Cと説得され、んで心配した主君頼房が(二人に協力し合って欲しい)という願いを込めて、頼蔵と頼兄に「相良姓」を与えたんです。

鬼(武闘派)がいぬ間に太閤検地~~
ウィキ~の記述だと、豊臣秀吉は統一した国は、都度検地を行っていたとあるが、島津のように家臣の抵抗が激しいとこだと、一度では終わらず(出来なくて)五月蠅い連中が朝鮮出陣中にリベンジ検地してた。

相良家にも出陣中の文禄2(1593)年に太閤検地が入ったんです。
その太閤検地がキッカケで(当事者は朝鮮なんだが)深水一族と犬童一族の対立は増々酷くなってしまった。

検地で生じた租税納入分を賄う為、「無駄に高録の者」の領地や寺社領の召し上げ(没収)が行われ、その一番最初に竹下監物、その子・外記、その儘(まま)子・中道坊、竹下監物妹聟の蓑田大隅らの領地が奪われた。

領地土地整備っていうと、寺社領が整理対象に上がるのは鉄板なんですが、無駄に高録な者リスト一番目に上がるって、どうなのよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
竹下監物はこれを犬童頼兄の計略と訝った為に不穏な状況となり、深水一族600人は湯前城に籠城する


竹下監物とは何者なのだろう・・・
深水一族なのは、まず間違いない。

竹下・・・姓が違うから庶流。
諱は不明。通常呼ばれている監物は、本来は官名で(多分自称)号じゃないから隠居はしてない。
年齢が判んないなぁ・・・嫡子の領地・・・成人に達した子供がいるので30歳以上は確実。
深水家の家督に関し「意見具申(頼蔵を推薦した)」出来たから家格も悪くない。
それどころか湯前城に600人も糾合するのだから、深水一族内で相当の影響力があったのだろう。

だが、その割に深水宗芳生前でのエピが見当たらない。
竹下監物は深水宗芳の後継者に、深水頼蔵を推薦し、その後ろ盾になることによって、深水一族内で重きを置くようになったのではないだろうか。

逆に魯鈍・頼蔵には竹下の後押し(後始末&フォロー)が欠かせなかったわけで、竹下の勢力が削がれたら、(頼兄より仕事が出来ない)深水頼蔵の立場は悪くなる。

竹下が領地没収を「頼兄の陰謀だ」と疑ったのは、そのあたりから来てるかもしれない。
頼蔵に竹下のフォロー必須なように、竹下の権力基盤には頼蔵を相良家老職に据え置く必要があったのだ。

あと「梅竹一揆」から檄文が届いた時の評議で「休矣の言葉( ー`дー´)キリ」が主導権握ったのも面白くなかっただろう。
朝鮮にいた相良頼房は国許からの知らせに深水頼蔵を呼び出し詰問するが、頼蔵は「自分は関知していない」旨を伝えた。

頼房は籠城した者らに切腹を命じ、竹下監物ら数名が切腹して事態は一応の沈静化をみたが、頼蔵と頼兄が ♪和気( ̄▽)人(▽ ̄)藹々♪ になれるわけもなく、
対立は増々激しくなるのだが それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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