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【相良頼房20_アウグスティヌス~天草国人一揆1】

天草一揆というと「島原(と天草)の乱」が圧倒的に有名で、天正年間に起きた「天草国人一揆」を知る人は少ない。
知ってるのは戦国マニアくらいで、それでもローカル戦史ゆえに中身まで調べる人は少ない^^;
この合戦に相良家はチラとも出て来ないのだが、全盛期相良氏の配下だった天草5人衆、その後を辿りたいと思う。

天草5人衆は相良家が島津に降伏するのに前後して、島津配下となった。
その後「九州の役」で関白に降伏し、領地安堵される。

一番リアクションが早かったのは天草氏で、秋月(人名)降伏の4月に筑前・秋月(地名)へ赴き、いち早く秀吉に降っている。
相良が天草諸島に介入したのは16代義滋からで、その相良家も20代頼房の代。
天草5人衆も世代交代し天正16(1588)年現在は、志岐麟泉、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高の5人だった。

天正16(1588)年「肥後国人一揆」の残党も鎮圧され、閏5月14日に責を問われた佐々成政が切腹。
天草5人衆は「肥後国人一揆不参加」だったので、引き続き領地安堵で関白・秀吉から朱印状ゲッツ(* ̄・ ̄*)Vブイ

一方、同年9月に肥後の国分けが決定。

相良家~肥後一揆における島津進軍妨害は不問。引き続き球磨2万石安堵。
加藤清正~肥後北半国19万5千石拝領。
小西行長~肥後南半国(宇土、益城、八代)約20万石拝領。

まったくウィキペディアときたら、どっちも半国、半国と相良家をカウントしてな・・ゴニョゴニョ

でもって大雑把なウィキペディアには記述されてないのだが、

実は小西領であるはずの八代の一部が加藤清正差配になっている
加藤清正差配の八代とは、旧相良家臣八代衆のことです~

亡き相良義陽が降伏した時に八代は島津家へ割譲され、八代衆は島津配下となった。
島津が秀吉に降伏後~肥後国人一揆までの間「八代13人衆」が、どこに帰属していたかは不明。
(普通に考えれば「佐々成政預かり」かなぁ)

9月の朱印状によると「八代13人衆(正しくは14人)」&「八代30人衆」が加藤清正幕下。

八代13人衆は八代の旧相良家老臣(奉行クラス)連中で固められ合計890石。
八代30人衆は葦北などの連中(奉行ほどの身分では無い)が含まれ併せて合計750石。
合計で1640石。

八代が小西領でありながら、旧相良家臣は加藤清正幕下で「変則的な飛び地」状態だった。
この複雑な状況にした秀吉の考えは「清正を島津の抑え」ってことかなぁ~(-ω-;)ウーン

佐々成政以降の国分けで、相良家の気苦労が倍増したのは想像に難くない^^;
超負けず嫌いの若き猛虎・加藤清正は、小西行長にライバル意識ムキ出しで噛みついてくる。
小西と加藤、双方に気配り+御機嫌損ねた島津家とも融和に務め、と「小国の悲哀」が漂う。

トラブルの記録が無いとことみると、相良家は「まだ勝手が慣れぬ小国外交をソツなく熟してた模様」



さて小西行長だが、一番知られている経歴はキリシタン大名ってことで、洗礼名は記事タイトルのアウグスティヌス。

実は小西行長が元宇喜多家臣であるという経歴は意外に知られていない。
さらに宇喜多秀家公・元服のおりに「髪結役」だったのは、もっと知られてない^^;
秀吉に見いだされ宇喜多家からヘッドハンティングの直参。
元家臣ってことで秀家公の髪結役になった。

それと加藤清正が小西に噛みつく時に「薬屋!」と罵るのも、全くの間違いではない。
和泉国堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれたからです。
行長の父・小西隆佐を最初に見出したのは宇喜多直家のようです。(商いで宇喜多家にも出入りしてた)

つまり小西家は「商人⇒武士」となった家。
だからといって小西家の武勇は侮れるものでは無い。
九州の関ヶ原の一つ「宇土城攻防戦」で、加藤清正は宇土城を落とすことは遂に出来なかった。
(主戦場の関ヶ原が敗れたので宇土城は降伏開城した)

相手の武勇にケチをつけられないとなったら、悪口は「相手の出自」。
「お前のカァチャン、出○ソ」レベルの因縁しかない^^;

さらに小西行長の娘は対馬の宗義智に嫁いでいる(関ヶ原後に離縁)。
その宗義智は関白から「李氏朝鮮を服属させるように(天正15(1587)年ころ)」との命令を受けており、
義調(宗義智の養父ともあるが詳細不明)、小西行長、島井宗室らと共に交渉を始めている(ただし捗々しくない)

つまり秀吉が肥後に小西を配したのは「近い将来ある唐入り」を考慮してのことだ。
天草国人一揆は、そういう秀吉の思惑と政治背景が絡んだ陰謀だったのではないだろうか?

天正17(1589)年の秋、小西行長は宇土城の補修を行っていた。
当時の宇土城は中世つまり古いタイプの城で、要害など諸事不便~手を入れる必要があったんです。

小西行長は天草本渡城主・天草種元と志岐城主・志岐麟泉に普請を手伝うよう遣いを出した。


管理人の中で、ここがひっかかった。
亡き肥後国主たる佐々成政が、肥後国人たちに検地~もしくは城普請~って言うなら解る。
なぜなら佐々は肥後国人を家臣化しようといていたから。
(失敗して一揆になった)

だが天草地方は小西行長の領地ではない。
それとも天草5人衆は小西の与力だったのかな?
位置的に与力になっても不思議ではないから、記述が無いだけで、そうだったのかもしれない。

肝心なのは天草5人衆も、肥後国人たちのように「秀吉から領地安堵の朱印状」を貰っている、という点だ
領主の立場ですらない小西が、天草5人衆に「普請諸役を求めても」拒否されるのは火を見るより明らかだ。

賢い小西行長が「無茶振りした」のは、「天草5人衆を成敗し天草領を己が物にする」ためではないのか
「入府早々で一揆が起きた」のは「佐々も小西も変わらない」「自力で鎮圧できなかった」のも同じだ。
「だが佐々は切腹」で、「小西は処断されていない」。
(もっとも肥後国人一揆は政治的時期が激マズイというのが大きい)

それは秀吉にとって「唐入り」で小西が必要な人材であるというだけでない。
渡海時における要衝地・天草諸島を、田舎国人が分割統治していては不便極まりない。

何より天草5人衆と秀吉は「秀吉の意図を理解するだけの人間関係がない」
「唐入り」を命じても、天草衆は(@@)は目をパチクリさせるだろう。

天草5人衆に難癖つけて領地召し上げ⇒小西領に組み入れ来る唐入りに備える
天草国人一揆こそが「秀吉と、その意を汲んだアウグスティヌス・小西」の仕組んだ陰謀ではないだろうか?

だが両人(天草と志岐)これ(宇土城の普請手伝いという小西の申し出)を嘲り
「一昨年、関白殿下が薩摩へ御動座の際に、我らは筑前秋月へ向いすぐさま拝褐し、殿下が御帰洛の砌(みぎり)に御朱印を賜っております。
故に公儀(豊臣政権)の御普請であれば小西殿の下知に従いまするが、小西殿の私的な普請は承りかねます。
また我らとて、相応の疲城とはいえ城持ちですので、修理経営に領内の百姓らを貸す暇もないのです」と返答した。

小西は天草と志岐の返答に憤り、秀吉へ訴える(この辺りが佐々と違い如才ない)
関白・秀吉「左様な奴らは誅伐を加えよ」と下知した
大義名分を得たアウグスティヌスは、同じキリシタンである天草5人衆の成敗を開始るすのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良頼房19_相良が一揆?!】

さて、肥後一揆における我らが相良家ですが、「求麻外史」に僅かに記述があるのみで、詳細不明です。
(ゴメン、相良家文書の読み下しは追いついてない^^;)
まぁ、とりあえず「相(総)じて良い子」にしてたらしい(*´艸`)~

そんな相良家の元へ佐々成政から援軍依頼
【島津が攻撃してくるから防いで~( ̄人 ̄)☆彡~~】

管理人が面白いと思うのは「島津が一揆加担」というのを
「相良家の誰も疑わなかった」ってところ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
いやぁ、やっぱ日頃の(肥後侵攻・豊後侵攻)イメージって大きいですね~*人 ̄▽)♪

冗談はさておき島津家では肥後で配下になった国人たちを解雇せずに、そのまま島津家臣団に組み入れた・・・と言われている。
そのために江戸期の薩摩藩では武士階級のエンゲル係数が他藩より過剰・飽和状態だったらしい。

らしい・・というのは個別事例をリサーチしてないもんで^^;

参考例で言うと、菱刈家が「相良家臣・菱刈家(庶流)」と「島津家臣・菱刈家(嫡流)」に別れたような事例が発生したって事です。
肥後国人たちは在郷して加藤家、小西家、細川家に仕えたり、帰農したり、諸々の一揆に参加したり、遥か後年島原の乱に参加したり、島津家臣になったりと分散した。
(大名の直参家臣ではなく、陪臣になった者もいただろう)

そうなると、縁戚・親戚・一族郎党の人脈は途切れてないから、
「肥後で一揆あれば島津に影響」「島津で一揆あれば肥後に影響」する。

だから佐々から援軍依頼があった時に「一揆が島津に飛び火した」のが自然過ぎて「確認しなきゃ」って発想が浮かばなかった。

てか、人に援軍を請う以上、「確認する」のは佐々成政の責務だろう。
まさか「佐々の勘違い・早とちり」とは【想定外】
島津的には「実に心外・無礼千万」な話で、怒るのも無理はない。

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

相良家重臣・深水宗芳の唯一の手抜かりは「一揆討伐軍奉行・黒田官兵衛に事前報告してなかった」ことです。
ところが肝心の黒田官兵衛は、御膝元の豊前・中津で城井鎮房による一揆(肥後国人一揆に呼応)発生。
クロカン「はぅっ!( Д )  ゚  ゚」ってことで、中津から離れられなくなった。

小倉の毛利勝信も軍奉行の一人ではあるが毛利絡みで西国に顔が利く黒田とは違い、相良とは交流なくて人脈無し。

さらに「肥後国主たる佐々成政の頭越しに報告」ってのは・・・
今後の佐々との関係を考慮すると、ちと躊躇うものがある。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

とりあえず肥後国主・佐々の依頼通りにしてれば間違いなかろう~~で相良家出陣。

援軍といえば、最盛期の島津軍は10~3万、大隅・薩摩に押し込められた後は1万(参照:朝鮮の役)。
関白に「佐々を援軍せよ」と命じられたからといって、馬鹿正直に全軍を出す御人好しはいない。
「島津義弘+伊集院忠棟(島津筆頭家老)で~2千から3千くらいってとこかな?

相良の武勇は猛将・島津義弘も認めるところ、佐敷で島津の進軍を阻んでしまった。
戦い終わって日が暮れて~蓋を開けて~隈部ら一揆の主だったメンバーが処断されてみますれば~
島津は「一揆加担」どころか「関白の命で佐々への援軍」だった。

相良家「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! 阻ンジャッタ・邪魔シチャタ」

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

天正16(1588)年2月~島津から石田三成、細川藤孝へ
「相良の軍勢差し止めは一揆行動である!
討ち果たすべき対象と見なされるから、相良頼房が大坂へ上がった際には糾弾すべき!」と訴える

「一揆勢と思われた」だなんて「心外の極み」~島津家は超ご立腹~

後年の話ですが、頼房クンは島津との関係融和に頑張ってます^^;

三成、藤孝は4月に新納忠元へ~
義弘の行軍時の苦労・手柄を褒めると共に、三成・藤孝共に頼房の行動を逆心と見做しており、
義弘が上洛した暁には、その辺りの事情について対談し、秀吉の耳にも入れる心算である~と返事


ひーーっ深水宗芳は アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ 急遽大坂入り~
秀吉に陳謝~m(_ _)m~必死に謝罪し、何とか「御咎め無し」の言質をとることに成功する。

佐々が切腹したのは同年閏5月14日~その前から佐々の処断は噂されていました。
佐々への処罰が下った後では、相良も一緒に吊し上げくらうので、深水が上洛したのは佐々切腹前でしょう。

この年の2月9日に足利義昭が室町将軍職を朝廷に返上し、正式に室町幕府が終わりました。
そして4月14日に後陽成天皇が一度目の聚楽第行幸で、関白・秀吉は得意の絶頂~ヾ(  ̄▽)ゞキョホホホホホ
深水が訪れた頃は「超御機嫌な時期」だったんです。

豊臣秀吉は正規の武家の産まれでないし、さらに家臣から成り上がった地金がどうしても出る。
秀吉に物申す時には「御機嫌・不機嫌」のタイミングを見計らうのが非常に難しい。
信長よりも秀吉の方が仕えづらい・・・と感じるのは管理人だけ?^^;

肥後国人一揆は終息した・・・だが今度は天草国人一揆発生、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【相良頼房18_終息~肥後国人一揆5】

茶臼山(現・熊本城本丸跡)での戦いで一揆勢に勝利した佐々成政。
この戦いで甲斐宗立(亡き宗運の息子)も敗死し、甲斐家は主家・阿蘇氏に先立ち滅亡した。
だが一揆勢全てを殲滅したわけではなく、未だ籠城している山鹿(城村)城に対する付城も兵糧が尽きかけていた。

佐々成政は兵糧を運びに動けず、柳川の立花統虎(むねとら・宗茂のこと)へ援けを頼み、
更に関白・秀吉へも一揆の蜂起を報告した。(内緒で治めるられる段階ではない)


立花統虎は柳川に入部したばかりであるが、人数を集めて武士200、雑兵1800で肥後境まで出陣した。
報告を聞いた関白・秀吉「急ぎ四国、中国、九州の諸将を一揆退治に差し向けよ!」と命令。

四国衆は浅野長政、安国寺恵瓊、
九州衆は小早川隆景、小早川秀包(この頃は隆景の養子)、立花統虎、高橋統増(立花の実弟)
その他近国の諸氏が肥後へ出陣する。


軍奉行は中津の黒田考高(隠居前で現役)、小倉の毛利勝信(大坂の陣の勝永ダディ)である。
ちなみに龍造寺政家は病であり、名代として江上家清、龍造寺家晴が佐嘉勢を率いて出陣した。


9月7日~立花統虎は佐々成政の付城へ兵糧を運び入れようとしたが、
敵城より有働志摩守勢が討ち出て、永野原の道を通る立花勢を追い掛け、立花統虎へ襲い掛かる。

このとき立花勢は、内十但馬守らが立花統虎より先に進み過ぎ、
小野和泉守(鎮幸)が後ろ過ぎてまだ来ていなかったのであるが、内十但馬らが引き返し、小野和泉らが追い付くと、有働は前後より挟撃される形になり、討ち負けて逃散した。


・・・・内十但馬守って誰?!!
答え:立花四天王・十時連貞の一族です~十時但馬は「朝鮮の役」にも従軍してます^-^

立花統虎は手負いを援けながら、既に南関(玉名郡)にありながらも引き返したが、これに大田黒城の有働左近将監が城から打って出て矢を射掛ける。

統虎は油布上総守(由布惟信=立花四天王筆頭)らに下知して300人でこれを追い払うと、
そのまま城へ切り上がり、その日の酉の刻(pm18:00頃)に城を攻め落とした。


城将・大知越前守は立花家臣・池辺龍右衛門に組み伏せられ討たれた。
立花勢は勝ち鬨を上げて北関(国境)へ帰陣した。


11月下旬、一揆の棟梁・隈部親泰はなおも山鹿へ籠城していたが、
浅野長政、安国寺恵瓊が「怨敵の思いを翻して開城降参されれば、我らの計らいを以って上に取りなし、本領安堵させましょう」
と方便(テキトーな事)を述べると、


隈部親泰はすぐさま城を明け渡し、有働兼元、有働志摩守、北里三河守、北里式部少輔ら4人と降人となった。
そして主従80余人を従えて浅野・安国寺と共に上洛しようとするが、
豊前の小倉にて明日出船という晩、毛利壱岐守(勝信)の家臣らに取り囲まれ、一人残らず討ち果たされた。


また、隈部親永、内空閑鎮房、有働一族10余人はみな柳川城へ入れられ、立花統虎に預け置かれた。

最終的に一揆勢は、ことごとく殺された。
12月に秀吉は朝廷へ一揆鎮圧の報告をしているが、実際には残党が各地におり、肥後は不穏な状態が続いています。

で相良家ですが実は肥後一揆で、とんでもないドジをやらかすのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房17_甲斐氏滅亡~肥後国人一揆4】

佐々「検地させろ」
隈部「やなこったo( ̄ー ̄θ★ケリッ」
隈部の嫌がり具合を見てると、隠し田でもあったんじゃ・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

邪推はさておき真面目に・・・肥後国人は秀吉から朱印状を貰い領地を安堵された。
江戸期風に言うと豊臣政権の直参です。

彼らは、肥後国主に任命された「佐々成政の与力」だと思ってたかもしれない。
与力は佐々の家臣ではありません(主君から譲り受けて家臣化することはある)。

彼らの領地は豊臣政権の代官地でもありませんし、佐々も代官ではありません。
従って佐々が国人たちの土地を検地する・・・

と言うのは国人の感覚では有り得ない。
せめて佐々が「秀吉から一筆貰っておけば」「隈部の反応は違ったかも」です。

隈部が「隠し田」を持っていれば「逆切れ一揆」で結果に変化は無くとも、
秀吉への事前根回しアリなので、佐々のみが処断される最悪の事態は回避できたかもしれません。
つまるところ「肥後国主」という呼称では、国人から見て佐々の権限が何処までなのか曖昧なんです。

秀吉が佐々にイジワルで国主にした・・・とは管理人は思いません。
九州という田舎の国人を従わせるためには「国主」という権威が効果的だと配慮したんじゃないでしょうか。

だが国人たちのプライドは秀吉(と佐々)の予想の斜め上を行き、
「佐々の検地なぞ受け入れる謂れは無い」と判断しちゃた_| ̄|○ il||li がくぅ

佐々が隈部を攻撃したために、国人たちは「明日は我が身」と緊張が走った。
そんな中で隈府の浪人・菊池香右衛門が御船城の甲斐宗立(甲斐宗運の息子)を動かそう!と会見した。

菊池「(大意)佐々は国中の所領を掠め取ろうとしてます(※国人たちの誤解です)
これを関白に訴えるために一揆しましょう!」

甲斐宗運の息子・宗立が「凡庸」と評価されるのは、この菊池の言葉に同意したことでも窺えます。
亡き宗運なら主家・阿蘇氏を第一義に考えるので、軽軽に一揆に加担したりはしないでしょう。
宗運に限らず名将の不敗神話というのは「時が熟すまで待つだけの胆力」があるからです。

腐っても鯛・・・失礼、息子でも甲斐(余計に失礼か?)

甲斐宗立が近隣に呼び掛けると、玉名の小代親泰、阿蘇一族の下城摂津守、北里三河守ら、今回所領から離された者らは、鬱憤を晴らす時がきたと悦び、方々より馳せ参じて来た。

って北肥戦誌にあるんだが、玉名の小代親泰は秀吉に召し出されて在大坂で一揆不参加なんです。
(だから潰されずに生き残った)
困ったことに大坂にいる小代親泰の名が、この後も北肥戦誌にチョコチョコ出てくる( ̄ー ̄A 汗フキフキ
どうやら小代氏は一枚岩では無く、親泰の意向に関係無く一族が一揆に参加してたようです。
原文を改変することになりますが、一部管理人補正するのを御了承下さいm(_ _)m

多勢となった一揆は8月12日、佐々成政が留守の隈本城を三方から囲み鬨の声を上げた。
城内は思いも寄らず周章狼狽する。

寄せ手(一揆側)は鉄砲を打ち掛けながら攻め入り、二の丸を焼き落としたが(隈本)城兵も矢玉を雨の如くに浴びせたため、それ以上は破り得なかった。

報告を受けた佐々成政は、まず佐々興左衛門を隈本城へ帰し、自分はそのまま山鹿城(隈部らが籠る)の押さえとなった。
だが佐々興左衛門は、内空閑鎮房(うちくが しげふさ~隈部親泰の兄弟)に途中で遮られて討ち死!

佐々成政_| ̄|○ il||li がくぅ「あぅ~~興左衛門~ワシの甥っ子がぁ~~~」
佐々「おのれ~~一揆ども~~(* ̄▲ ̄*)凸 甥の仇だ!隈本へ帰って討つべし!!」

(佐々は)8月13日の暮れから山鹿の東西に付城を構えて、人数800を残した上で、自らは15日に陣を引き払う。

その際、本道を通れば内空閑勢に遭うと思い、迂回して茶臼山へ登って隈本城へ入ろうとした。
一揆勢はこれを幸いと、茶臼山でこれを迎撃し6~7度戦う。

佐々勢が敗れかけた時、佐々方へ内通していた者小代(当主は在大坂で一族が一揆参加してたらしい)ら3名が、一揆を裏切って攻撃し始めた。

隈本城兵は内通の合図と気付き、城戸を開いて打って出ると、(佐々勢が)敵を三方から挟み撃ちにしたため、一揆は敗走する。

佐々成政はこれを追い立て、(一揆側)3900人が討ち取られた。
成政は勝ち鬨を上げて隈本城へ帰還した。
翌16日~佐々成政は甲斐の御船城を攻めるべく、家臣・松原五郎兵衛に軍勢を与えて差し向けた。


甲斐宗立は茶臼山の敗戦で痛手を負い、御船へ帰らず健軍社あたりに居たのだが、これを知って御船へ急行した処を松原勢に見つかった。
宗立は逃れ得ず、雑兵の手に掛かるよりはと、六嘉村の地蔵堂へ入り腹を切った。
家臣も共に腹を切ったか、或いは逃亡した為、御船はそのまま空地となった。

こうして甲斐家は滅んだ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。
家紋・甲斐
ロン様作成:甲斐家紋ロゴ

茶臼山の戦いで痛手・・・というのが手足に深手を負って身動き出来なくなってたらしい。
だから自害と言っても、ちゃんと自力で出来たかは疑問で、家臣が介錯という形で命を断ったのかもしれない。

熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2243に「六嘉の足手荒神(ろっかのあしでこうじん)」社(甲斐神社)がある。
傷を負った甲斐宗立が潜伏し、また切腹した・・・とされる場所だ。

社伝によると里人たちは厳しい追討の眼をくぐり、手足に深い傷を負った宗立に、手厚い看護の手を差し伸べた。
これに感動した宗立はその最後に臨んで、
「霊はこの地にとどまって、手足の病に悩むものあればこれをなおし、民草の守り神となろう」と言い残して果てた。
現斎主の祖先が、この遺言によって宗立の霊を祭り、あわせて父宗運を祭ったのが現在の甲斐神社の起こりだと言われている。

手足の病に霊験あり・・・。てことで、ご利益の願いを込めた足型、手型、平癒を喜び感謝を表す供え物、不要になったギブス、コルセット、松葉杖などが奉納されてます^^b

茶臼山では勝利した佐々軍だったが、隈部らが山鹿が籠城中な上に、隈部に同調した者により既に一揆は飛び火していた。

豊前~長野氏、
筑前~原田氏、麻生氏、宗像氏、
筑後~三池氏、蒲池氏、草野氏
肥前~草野氏、西郷氏、
肥後~赤星氏、和仁氏、永野氏、辺春氏

拡大する肥後国人一揆に関白・豊臣秀吉は威信にかけて討伐軍を編成するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房16_激突!肥後国人一揆3】

佐々「検地させろ」隈部「ヤダo( ̄ー ̄θ★ケリッ」で揉め、怒った隈部は城に引き籠って出仕拒否。
佐々は隈部と嫡男が不仲と知り嫡男へ「父を討ったら領地は安堵するぞ(* ̄ー ̄*)ニヤリ」と提案したのが逆効果。
息子たち「不和と言えど、子が父を討つなどできようか!こうなれば父子揃って一所にて討死すべし!」
まさに火に油~( ̄ー ̄A 汗フキフキ
天正15(1587)年7月24日~「ならば隈部を攻めん」と佐々成政は6000余騎を率いて、隈部親永の隈府城を攻めるべく取り掛かる。


隈部親永の家臣に多久大和守という者がいたのだが、突然に寝返り(理由不明)佐々勢を城内へ引き入れた。

このため城内は大混乱~~佐々勢に討ち負けて悉くが戦死した。
隈部親永は止む無く法体となって城外へ逃れた。

隈部の嫡男・親泰は佐々勢が父を攻めると知り、隈部親永の城の後方・玉祥寺原まで出陣したのだが、
既に落城しており一戦に及ばずで、間に合わなかった。
そのまま山鹿へ引き返すと、一族や浪人を集めて兵糧を用意の上で城へ立て籠もった。


それを知った佐々成政は「しゃらくさい!ガキもまとめて始末しろ!」
あ、間違い~これは悪役テンプレセリフ~~
【楽屋裏】ヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノ【佐々様・台本】

それを知った佐々成政は「急ぎこれも討つべし!」
と、8月7日に隈本城から出て山鹿へ着陣、まずは斥候を日輪寺山へ上げて城内を量らせ、
さらに足軽に鉄砲を打ち掛けさせると、その日は取り敢えず隈本城へ戻った。


8月12日、佐々は家臣の佐々興左衛門成能、佐々右馬助らに兵3000を与え山鹿へ向かわせた。
佐々興左衛門らは三方から城攻めを開始。

佐々右馬助が谷を上がり攻め入ると、これに城兵は崩されかけたが、
隈部親泰自身が槍を縦横に突いて廻った為に城兵が気を立て直すと、状況は逆転。


佐々右馬助は討ち死に、寄せ手は200余人の犠牲を出して敗走。
寄せ手が佐々へ注進すると、佐々はまた兵3000を率いて山鹿へ向った。


これを知った有働兼元(隈部親泰の兄弟)は佐々と勝負致さんと、こちらも3000を率いて佐々陣へ打ち入る。

(。 ̄ ・ ̄)=3 ヒュ~♪ 佐々と同数で勝負しようだなんて、肥後国人は鼻息荒いわぁ~

ところが今度は(有働勢が)進み過ぎた為に(深入りしすぎたらしい)打ち負け、山鹿へ引き退いた。
佐々はこれを追い掛け城を攻めたが、守りが堅固な為にその日は山鹿で夜を明かした。


佐々成政が隈部親子を攻めたと聞き知った国人らは「明日は我が身」と不安に駆られた。

そのとき隈府の浪人・菊池香右衛門が、隈部の事を聞いて、急ぎ御船の甲斐宗立(親英)に対面した。

*****甲斐宗立(親英)*****
亡き甲斐宗運の息子。
「こちらから島津に仕掛けるな」という甲斐の遺言無視したのは、この息子です^^;
父・宗運は苛烈すぎた・・・でもお蔭で阿蘇氏は、それまで無事だったんで一概に批判出来ない。

宗運は日向伊東氏に接近を試みた己の次男・三男・四男を誅殺。
父に反発し排除しようとした宗立(親英)までも宗運に殺されかけたが、家臣が必死で諌めて(嫡流が絶えちゃう)思いとどまった^^;
甲斐宗運毒殺説では、この殺されかけた宗立(親英)の妻が悲憤し、犯行を目論んだ(実行犯は宗立(親英)の娘)とされる。

主家・阿蘇氏が島津に敗れ、宗立(親英)も早々に島津に降伏~八代へ連行されてたのだが、
「九州の役」での戦後処理で御船の旧領を復活浮上~~<( ̄^ ̄)/
肥後国人一揆のころは御船城にいたんです。
************************

隈府の浪人・菊池香右衛門曰く
「佐々殿は、関白の上意と偽って国中の所領を掠め取って横領しようと考えているのでしょう。
ここに於いては一人も逃れられる侍はありますまい。
唇亡びて歯寒しとはこの事です。
これを関白へ訴える為にも、一揆を企て隈本城を攻めるべきです」と述べた。


あぁ・・・見事に噛み合ってない・・・(T0T) 
肥後国人が生き残るには、佐々の検地を受け入れ家臣になるしかないんです。
だって九州国分けで肥後は佐々に与えられたんだから(相良除く)

甲斐宗立(親英)は菊池の意見に同意すると、近在の国人たちに激を飛ばした~

腐っても・・ゲホグホ失礼!・・・息子でも甲斐。
阿蘇氏筆頭家老オーラの残滓が、国人たちを勇み立たせたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
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